第172話 ~どいつもこいつも死にたがり~
ホウライ城内は騒然としている。昨日の夕頃、ホウライ地方北部の防衛線が完全壊滅したという報が届けられてから、今までに無かった大事件に人々が動揺するのは当然だ。ついにアトモスの遺志がホウライ地方侵略を開始し、やがてはここ、ホウライの都にまで攻め込もうとしてくる未来が透けている。これまで安寧なる日々の中にあった貴族や王族も、優雅な毎日とは一変して落ち着きがない。
ただ、おかしな話に聞こえるが、彼らがそわそわしているのは存亡の危機に瀕しているのが最もではない。昼過ぎの時間帯、城内の者に広く伝えられた重大情報とは、朝から城の外に出払っていた聖女スノウ様が城に帰ってきたという知らせ。この一事が、一気に城内の者達の緊張感を高めている。
「う……!」
びくびくしながら城内の廊下を歩いていた女中の一人は、真正面からこちらに向かってくる彼女を見た瞬間には、詰まるような声を発して立ち止まらずにいられなかった。離れた位置からでもわかる。遠目には無表情に近い顔、しかし殺気立った気配を離れていても感じ取れた直感を正解と物語るかのように、接近したスノウの目尻はひくついている。お美しいはずの顔立ちから感じられるその怒気は、近付かれる側の女中を思わず一歩後退させるほどだ。
「ちょっと、そこの貴女」
「は……っ、はい……!?」
「アスファかラフィカ、二人のうちどちらか見てないかしら」
「え、あぅ……アスファ様なら、ええと……」
ついさっき見たはずの少年の居場所を伝えることさえ、震える声と恐れで固まった頭でままならない。小刻みに震える体、前に出した足より後ろに逃げた上半身、まるで虎の前に差し出された兎のように怯える女中は、日頃男勝りな言動が目立つラフィカの先輩だ。そんな彼女が臆病な女の子のように怖がってしまうほど、今のスノウはおっかない。
「な、中庭で、見ました……今日は訓練もせずにいるのが、珍しいなとも思い……」
「ラフィカは?」
「わ、わかりませ……普段はこの時間帯、買出しにでも行ってるんですが……」
「そう、わかったわ。ありがとう」
提供された情報に礼を述べ、スノウは女中の横を通り過ぎて歩いていく。取り残される形になった女中が、へなへなと座り込んで立てなくなった姿も、スノウはいちいち振り返らない。二十歳過ぎた大人がすごまれたわけでもないのに、腰を抜かして汗だくになるほど、今のスノウが纏う苛立ちは凄まじい。
呑んだくれの聖女様が、朝から起きて行動しているだけでも単純に珍しいのだ。そして朝からの、更に言えば昨晩からのくだりで、スノウの怒りは最高潮にまで達している。今の彼女を止めることは誰にも出来ない。
事の発端は昨日の夕頃、ホウライ城まで急報が届いたことだ。ホウライ地方北端の、アボハワ地方からの侵略を防ぐ防衛線が完全壊滅したことは、ホウライ城の軍部を騒然とさせた。ある者は慌て、ある者は決戦への覚悟を固める中、その一報を耳にしたスノウの行動は実に早かった。
真っ先にホウライ城兵士長の元へと駆けたスノウは、極めて単純な疎開策を提唱した。ホウライ城の西には海が広がっており、そこからホウライの都の民を避難させるようにと。海を越えればロカ地方、クライメントシティやタクスの都を含む地方であり、北や東から攻め込んでくる"アトモスの遺志"から逃れる方角でもある。アトモスの遺志の侵略力を侮らないスノウは、戦場がホウライ城下にまで及ぶこと、あるいはホウライ城の陥落すら予見し、戦う力を持たない人々をいち早く、安全な地に送り出すことを唱えたのだ。兵士長も相当に難しそうな顔をして見せたが、それでもスノウの提言を受け入れてくれた辺り、彼はまだ理解力のある方だ。しかし、スノウが怒りを覚えたのはこの後。
兵士長、つまりホウライ城の軍部における最高司令官が向かった先は、ホウライ城の王おわす謁見の間。聖女スノウにこう提言された、という前置きをわざわざ置き、疎開令をなるだけ受け入れて貰える可能性を高めた兵士長だったが、その努力も空しく返ってきた答えは最悪なもの。兵士長、ひいてはスノウの提唱した疎開令を、ホウライ城の王はしばし考えたのち、きっぱりと却下して見せたのだ。
苦悩全開の兵士長からそれを聞いた時の、スノウの怒りぶりは凄まじいものだった。いったい何故、と怒鳴るように尋ねたスノウだが、兵士長からオブラートに包んだ返答が返ってくる前から、その答えには薄々辿り着いている。はっきり言ってホウライ城の王族は、アトモスの遺志を侮っているのだ。
ホウライ王の思考回路はこう。まず、ホウライ城やその城下は、何百年も戦火に襲われることがなかった。何故かと言えば、天人の楽園と呼ばれるホウライ地方を守る武力は非常に高く、それを以っていかなる反抗者の鎮圧も叶えてきたからだ。十数年前の近代天地大戦に限らず、歴史を遡れば地人が天人の支配を終わらせようと蜂起した史実は山ほどある。そんな歴史の中でも常に勝者側にいたホウライ地方だから、まあまあ歴史に学んで国防力を信頼するのは結構なこと。
疎開策を提唱した兵士長とスノウだが、王に言わせれば、王都を敵の侵略から守り抜くことが出来るのなら、そこに住まう者達は危機に晒されることもないだろうという話。ある意味、それが出来るホウライ城の兵だという信頼に基づく発想だから、そう含んだ論調を用いられると兵士長も苦しかった。それでも兵士長は粘りに粘って、何とか疎開策を受け入れて貰おうと努めたものである。疎開策など不要だとごり押してくる王に、仰ることはわかりますが、とか、しかしながら、とか、何度そういう言葉を用いて食い下がったかわからない。
確かに疎開策には多くの物資と人材も要る。民を迅速に逃がすための馬も必要だし、護送するために兵力も割かねばならないだろう。加えて言うなら海を越えるための船も、総じてそれらを動かすための金も。単に金銭のみを惜しんだわけではないだろうが、ホウライ王は不敗の軍部を妄信しているから、疎開策を施行するにあたって生じるコストを、無駄なものだと断じている。そんな所に馬や兵力を割くならすべて国防に回せと仰るのだ。
とうに過ぎ去った成功の歴史から、今のホウライの守りを妄信する王と、兵士長の思想は食い違っている。存命時代のアトモスが率いた軍勢とも戦った兵士長は、残党とはいえ現代における革命軍の恐ろしさを知っている。スノウも同じ経験をしてきた。だから二人は、攻め込んでくるアトモスの遺志を、王都に踏み入らせることなく鎮圧するなんて、不可能だって確信しているのだ。セシュレスの、ドラウトの、過去には味方であったものの今や向こうに回ったニンバスの恐ろしさだけ見ても、二人にしてみれば簡単に導き出せる答えなのに。都を傷一つつけずに戦い抜ければ疎開策などそもそも要らないだろうなんて、平和呆けした甘々なお花畑思想なのに。だから応戦能力無き人々を逃がすための、疎開策を打ち出しているのに。
「何なのよあいつらは!? この期に及んでまだ何にもわかっちゃいないわけ!?」
「常日頃から、機を見て何度か訴えはしておいたのですが……実は結ばれてくれなかったようですね……」
ホウライ地方の最大の病巣は、軍部も含めて全ての決定権がホウライ王にあること。そしてその王が、戦争の何たるかを知らぬ、温室育ちのお坊ちゃまであること。当代に限らず、遡った歴代の王すべてに言えることである。不敗神話を誇るホウライ地方の絶対的安寧を信じて疑わぬ王族、貴族、それらの下した決定が軍部の方針さえ左右するという実情が、人々を命の危機から遠ざけることさえしてくれない。
ホウライ地方に初めて招かれた時から、スノウは何度も忠告し続けてきたのに。アトモスの遺志という組織はかつての最高指導者を失った今も、決して侮れぬ組織であると。その侵略を止めるために全力を投じるとは約束するが、それでもホウライ城の陥落さえあると、強く警告してきたはずなのに。かつてアトモス率いる軍勢と戦ってきた者の多くは、今なお存命のセシュレスやドラウト等の強さ、恐ろしさを知っているから実感こめてうなずいていたが、武人でない者達には全く伝わっていなかったらしい。疎開策なんて不要、という傲慢な決定が何よりの証拠である。
きっとホウライの都は炎に包まれ、逃げなかった人々の多くが死んでいく。そんな未来を予感してやまないスノウと兵士長は、出来る限り戦い抜き、犠牲者を少しでも減らそうという結論に妥協するので精々。スノウは城内の知人へ、兵士長は王から下された決定とは別に部下達へ、現実の重みを啓蒙することを約束し、その日の夜も奔走し続けた。この日スノウが酒を呑まなかったことは、言うまでもない話である。
これで済めばよかったのだが、スノウをぶち切れさせたのは翌日の出来事だ。
ホウライ地方北部の防衛線が崩壊した翌朝――とは言っても朝食時を大きく過ぎた、普通の人の生活リズムと比べれば寝坊気味の時間にスノウは目覚めた。昨夜は遅くまで知人や城内の親しい兵と話し込み、事の重大さを説教じみながらもこんこんと説いていたため、眠りにつくのが遅かったせいだ。それでも深酒しなかったぶん、普段の彼女よりは相当に早く起きた方である。
歴史的にも最も危機的な局面を迎えた今、国はどのように動いているか、朝食を取るより早くスノウは確かめに動いた。疎開策を棄却されたことは、翌朝思い出しても腹立たしかったが、アホの執政者のせいで多くの人が死ぬであろうことを嘆きつつ、苦く受け入れることにしていた。仕方なくもなんともないし、自分の手が届く範囲にだけでも、命が助かる道を示すことが出来ればそれで最善。戦を控える身として、ある程度の割り切りと切り替えが必要とした程には、スノウだって大人になろうとしていたのだ。
しかしながら。ホウライ地方北部の防衛線が、アトモスの遺志に突破されたことを新聞の見出しに載せ、都の民に広く周知させるだけならいい。事実を伝えられた者達が、自らの意志で動き、戦場となるやもしれぬホウライの都から逃れてくれる可能性も、希望的観測ながら見出せる。この大事変を、民衆に認知すらさせない鈍感国家ではなかったかと、スノウも見出しを見た時には少しだけ安心しかけていた。
王の見解というでっかい文字を添え、革命軍の残党など恐るるに足らぬという、王の私見を掲載する無頓着ささえ無かったらだ。ホウライの都を守る防衛力は信じて疑うなかれ、民は安心して命運を我らに託せという、筆者ホウライ王のどや顔すら浮かぶ文章を目にした瞬間、頭に血が上りきったスノウは、新聞を握り潰して投げ捨てていた。殆ど無意識にだ。
もう止まらなかった。王のおわす謁見の間にまで、つかつかと早足で向かっていったスノウは、謁見の間の入り口に立つ衛兵の制止も聞かない。かつてない程ぶっち切れた形相の聖女様を見た衛兵は、王に危害など加えるはずもない人だと頭ではわかっていても、まずは頭を冷やして出直して下さいと必死で懇願したものだ。そんな彼の顔面をぶん殴って横にどけ、謁見の間の扉を蹴り開いて進んできたスノウの覇気には、威風堂々たる表づらが常のホウライ王もぎょっとしたものである。
政治家としては良い具合に、天人の楽園の民を導いてきたこの王だが、そういう人物が新聞に載せて大声で、此度の大事変を恐れることなかれと捉えたら、ホウライの都に住む人々はどう思うだろう。あの王様がそう言うんだったら大丈夫だと、のんのん日和で日常を過ごすだろう。長い歴史を無傷で通してきた軍部の強さを信じ、加えて聖女スノウという最強の切り札を控える側である事を加味しても、ここまで来ると行き過ぎだ。確かに執政者、問題にすべきでない問題について、民衆に不安を抱かせないための言葉を紡ぐことは悪くないが、今回においては適切ではない。問題にすべき問題を、問題なしと声高に唱えているんだから。
王の胸ぐらを掴んで、いかに此度の革命軍の侵略が恐ろしいものであるかを、まくし立てるように怒鳴り説くスノウには、ご高齢の王も心臓が止まるかと思うほどだった。あんた舐めてんの、とか、いっぺんしばき倒されなきゃわかんないの、とか、本気でキレた時しか発さない暴言を素面で吐くスノウを前に、流石に王も考えを改めずにはいられなかった。兵士長も必死に訴えたことと同じ内容だが、兵士長はどうしたって王に仕える身であって、言葉も選ぶし、平和呆けしきった王を覆すことは難しかったのである。私の命令に逆らうのかと言われてしまったら、もう何も言えなくなってしまうんだから。兵士長とは立場の違うスノウが、迫真を心の底から吐き出した説得を以って、疎開策は施行される運びとなった。
ホウライ地方北端部の防衛線が破られてから、既に丸一日と何時間かが過ぎての決定だ。多くの人を導いて、それが実行に移されるのは更に後の話。あまりにも遅過ぎる話である。
「アスファ、話は聞いてるかしら?」
「……聞いてますよ。王様から、新しいお触れが広められていることも」
号外の新聞に乗せられた、疎開策施行の旨が都に広められつつある時間帯。彼を探し求めていたスノウに話しかけられたアスファの目が、ちゃんと現実を直視したものであったことは幸い。王はアトモスの遺志の侵略開始について、恐れることはないと一度言い広めていたが、アスファはそれに同意できなかった一人で
ある。スノウの実力はアスファも知っているし、そんな彼女をして革命軍がいかに強大な潜在能力を持つか、スノウと親しい彼は何度も聞かされている。平穏な世でのみ良政者である王の言葉より、かねてから強い警告を発していたスノウを信じていた彼にとって、抱いた危機感は正しい様相を保っている。
「前から言ってたことだけど」
「……嫌ですよ。俺は、逃げたくなんかありません」
自分を探し当ててスノウが何を言おうとしているか、アスファはもうわかっている。だからその言葉を自分の声で遮ってまで、ふいと背を向け立ち去ろうとする。すかさずアスファの手を握って引き止めるスノウは、ここで彼を絶対に逃がすまいという力を手に込める。
「あなたじゃアトモスの遺志には太刀打ちできない。疎開策には護送兵を必要としているわ。あなたも……」
「放して下さい……!」
痛くなるほど手首を強く握ってくるスノウと、振りほどこうとするアスファの力が、触れ合ったままにして争う。やがて訪れるであろう、アトモスの遺志の軍勢との正面衝突。その場にアスファが立つべきか否か、スノウは否を唱えアスファはそれに反発する。
「みすみす死に向かう子を見過ごせるものですか! 現実を見据えなさい!」
「俺は……っ、ホウライ地方を守る力をつけるためにずっとやってきたんです! こんな時に逃げるんじゃ、何のために修練を積んできたのかわかんないですよ!」
「努力は認めてる! だけど届いてない! あなたが殺されてしまう未来を私は受け入れたくない!」
「死んだって構うもんか! それぐらいの覚悟はして兵士になってる!」
「あなた、っ……!」
顔面ひっぱたく手を思わずスノウが振り抜くが、咄嗟に腕を振り上げたアスファの手首が、顔をスノウの平手から守り通す。手だって出よう、死んだって構うもんかなんて、心配する側からすれば一番聞きたくない、赦したくない言葉だ。手首がばちんと痺れるほど痛く、しかしアスファもスノウのその手首を握って捕える。逆の手が遅いかかってくることも危惧して、自分の手首を掴んでいた方のスノウの手も、逆に手首を捕まえる形で固定する。
「何も出来ずに死ぬことの何が構うもんかよ! そんな末路のためにあなたは今までを生きてきたの!?」
「やってみなければわからないじゃないですかあっ! 俺だって力をつけてきた! ホウライ地方を守るために戦って、何がいけないんですか!」
「疎開者を護送することだって立派な務めでしょう! 戦場に拘る理由なんか無いはず! 武勲を欲して犬死にする、無力で愚かな者の末路であなたは満足できるの!?」
「だからっ……! やってみないとわからないって……!」
「わかるから言ってるのよ! あなたの憧れたニンバスが、今やどれほど恐ろしい敵であるかだって、あなたは夢に取り憑かれて直視できていない! 現実が見えていないことをまず認めなさい!」
掴み合う両手を震わせながら、必死な若者と聖女の意志力がぶつかり合う。何としてもアスファを説得し、合戦場に踏み出さず生き延びる道を強いたいスノウ。故郷を守るために培ってきた力を、戦場で振り絞ることを切望してやまないアスファ。願いを訴え合うだけの者同士に、どちらが正しいでどちらが誤りも無い。
力任せに両手同士の接点を振りほどいたアスファは、背を向け駆け出し去ろうとする。振り払われて体勢が崩れかけつつも、手を伸ばしたスノウがアスファの肩を掴み、逃げ出そうとする少年を鈍らせる。肩を振るってそれを退けようとしたアスファだが、引き寄せるスノウの方が僅かに早く、体をスノウの方向に向けて回されたアスファを、改めてスノウが両手で捕まえる。
「お願いだからわかってよ……! 私、あなたに死んでなんか欲しくないのよ……!」
「っ……放して、下さい……!」
「止まってくれる子じゃないのだってわかってたわよ! それでも止まって欲しいから、私はこうして訴えてるの!」
前から両肩を握り締めてきて、正面から見据えてくるスノウの眼差しが、いかに真剣なものであったかは、向き合うアスファにしかわからない。アスファにとって最も尊敬する人の一人がスノウで、ひたむきな努力を前向きに継続してきた彼を、年下ながらも敬意に近い目で見守ってきたのがスノウだ。そして何より、一兵卒と聖女様という立場の垣根を越え、今や二人きりでも親しく話せる間柄になったアスファは、今やスノウにとってただの知り合いではないのだ。
戦の行方がどうなろうと、どんな時代が今後訪れようと、社会や国を織り成すのはそこに属する人々なのだ。武人であるか、そうでないかなど関係ない。差別的な天人至高の思想に侵されながらも、いよいよとなれば血ではなく人を見て、ファインやクラウドにも敬意を持って付き合う、それだけ見てもアスファは天人の中での人格者なのだ。アスファへの愛着を最大の理由に、彼が死の命運に飛び込むことを拒むスノウだが、そんな彼女がアスファの意志を無視してでも訴えるほどには、スノウはアスファに人として魅力を感じている。そうでなければ、反発されるとわかっていても大声を張ったりなんかしない。
「たとえ戦場でなくたって、あなたが人々のために出来ることはいっぱいある……! だから……」
「っ……!」
そんなスノウの気持ちだって、自分を案じてくれている真意だってわかるから、アスファはスノウの手を払い飛ばして突き放す。後ろによろめくスノウの目先、背を向けて駆け出すアスファの行動は、母のように自分を案じてくれるスノウから、覚悟を揺らがされることを恐れた逃亡に近い。
「待って! お願い、アスファ……! 待ってよおっ!」
必死なスノウの叫びも虚しく、少年は歯を食いしばって逃げていく。追う足を駆けさせることも出来ず、頭を抱えてうつむくスノウは知っているのだ。確かにアスファは、同じ年頃の者達と比べればずっと強いし、年上の兵からも一本を取れる実力者だ。そんな彼でも太刀打ちできないほど、アトモスの遺志を構成する者達の実力は凄まじいものであると、かつての近代天地大戦を経験した彼女は知っている。だから、戦場に立つことになったアスファを思い浮かべれば、彼が早世する未来しか想像できない。
若さって、真っ直ぐだ。故郷を守るための力を培ってきた彼は、いよいよとなった日に、そこに自分の居場所を確信してやまない。他に道筋を示したところで、目指してきた場に立つ決意を意固地に揺るがさないアスファ。そんな理性の及ばなさとは、決して、彼が武功を欲しているゆえではないともわかっている。
戦う力を持たない者が、武力を行使し攻め入ってくる者達から逃れ、安寧なる日々を送れるのは、彼らの代わりに戦場で血を流し、痛みを糧に平穏を勝ち取る者達がいるからだ。騎士道とも言えるその生き様に憧れたアスファが、血や死も恐れず戦場に立つことを選ぶのは、儚くあれども男の夢。夢を追う姿とは愚かだろうか。自己犠牲の名のもとに、有象無象の人々の安寧を守ろうとする男の姿を、嘲ることが出来るのは同じ境地に立った者だけだ。
敬いさえするからこそ、力ずくでもそれを引き止めることがスノウには出来なかった。何十年も前のことには、スノウだって若かりし少女だったのだ。ひたむきに前を見て走り抜く、若き生き方の貴さを、大人は心の奥底で知っている。
「じゃあ、ラフィカさんは……?」
「うん、私も疎開に乗るつもりは無いわ」
「どうして……」
スノウが探し求めていたもう一人、ラフィカは城の上層階のテラスにいた。城下街を高所から見下ろすラフィカの後ろには、哀しげな目を浮かべたファインが立っている。
スノウはファインにも言っていた。アトモスの遺志の軍勢は、必ずここホウライの都にまで辿り着き、戦火で以って多くの人々の命を奪うだろうと。疎開策の施行が広く知れ渡る今、ファインも友人となったラフィカが、安全な地に移ることを望んでいる。戦う力を持たない彼女が、アトモスの遺志に踏み荒らされる地に残れば、どうなるかなんて知れたことだ。
逃げないことを選んだラフィカの声には迷いが無く、それはもはや近き自分の死を受け入れたものに等しい。スノウと親しい彼女に限って言えば、現実を甘く見ていることもないはずだ。みすみすそんな運命に身を投げる彼女の心境は、口にして貰って聞かなければファインには理解できないだろう。問うたファインの途切れた言葉が、僅かな沈黙を二人に設けた後、ラフィカが振り返ってファインを見据えてくれる。
「アスファもきっと、逃げないもの」
残念な頭の友人を思い出し、諦めたように笑うラフィカの表情は、あまりにもファインにとって印象的。幼馴染であり、最も付き合いの長い少年のことを、彼の両親と同じぐらい知っているラフィカの言葉は、単刀直入ながらも重い説得力を持っている。
「あいつはきっと、ホウライ地方を守るために合戦場に行くんだろうなって思う。死んじゃうかもしれない――いや、スノウ様に言わせれば死にに行くようなものって言うかもね。それをわかってても、行っちゃうのがあいつだからさ」
同じ時間帯、スノウとアスファが繰り広げた口論なんて、ラフィカが知っているわけがない。その上で、ちゃんとここまでわかっている。聞き手のファインが、不思議と疑いもなく信じられる語り口だ。
「あいつが守ろうとしてるホウライ地方に、私は最後まで残りたい。だって、私が生き残ることが出来るとしたら、あいつが戦ってくれたからでしょう? 私が生きて、それを証明してやるんだから。
……なんてね♪」
夢妄想に近いことを口走っている自覚はある。だから照れ隠しのような言葉で、最後を結ばずにはいられない。舌を出して、子供なこと言っちゃったわと笑うラフィカの態度には、ファインは笑うことも出来ずに目を奪われる。
「私のこと、心配してくれてる?」
「当たり前でしょう……」
「ごめんね、本当にごめんなさい。でも、私はこうやって生きていきたいの。……もしも安全な地に逃れて生き延びられても、その時にアスファがそばにいてくれなかったらさ。私、なんにも楽しくない余生しか考えられないんだ」
彼女の真意はここにある。飾った言葉で濁すことをせず、明確な言葉にして自らの選択肢の根拠を語るのは、ファインを友人として認識しているからだ。でなきゃ、ずっと秘めてきた恋心を、出会って間もない人にぺらぺらと語ったりはしない。
「私、アスファのことが大好き。あいつと違う道には行きたくない」
「…………」
賢い生き方が出来ない奴っていうのは往々にしている。今が全てだからだ。それがその者にとって何よりも大切なことで、それが決して答えの出ない、自らの生き方というものを定めていく。だから前向きに生きていく人々の人生は、たとえ短くとも光を放つのだ。




