第171話 ~エックスデー~
現在のホウライ地方は全体的に、特に北部は厳戒体制である。アボハワ地方との境界線上に作られた人里は、天人にあらざる者を断固として通さぬ関所を構えているのが常。検閲も普段から厳しい。昨今では、これまで以上に武装した兵の数を控えさせ、何があっても天人でないものを南に通さない体制を強化している。
アボハワ地方が"アトモスの遺志"の潜伏地、それも最高指導者セシュレスの導く本隊の隠遁地であることが何よりの原因だ。いつ何時、アボハワ地方から攻め寄せてくる軍勢が迫るかわからぬ毎日の中、ホウライ地方北部いずれの警備軍も神経を尖らせている。時勢がこうでなかったら、哨戒中の兵とて市民に混ざるような溶け込みようで、強い警備を保ちつつも剣呑な空気を前向きには出さない。それが現在では、町を見回る兵いずれもがぴりぴりしており、同じ天人の市民ですら近寄り難い空気。それだけ今は、ホウライ地方の天人にとって、北は強く警戒せずにいられない方角なのだ。
それによって自ずと両立される、驕り無き精神と常時不備なき構え。ぎすぎすした町や防衛線の空気も、すべては強固にホウライ地方を守るためのものだ。絶え間なく保たれる、楽園を守る者達の意志力と実行力は、厳しい現状が把握されてからも長く、ホウライ地方を守り通してきた。きっと、これからもそうしてくれるはず。とげのある息苦しい空気の中で過ごす人々は、今日もそう信じて平静に暮らしていた。
ホウライ地方の北の端。アボハワ地方との境界線上に築かれた町であり、そこは奇遇にもファイン達が先日ひと悶着を起こした場所。先述の時勢により、今や戦前を控えたような張り詰めた空気の中ではあったものの、最近ではそれが当たり前の空気として馴染んできたこともあり、昨日や先週とは何も変わらない日が今日も訪れていた。
日中、関所近くで一枚のメモを片手にうろうろし、何かを探している風体の少女のことなんて、誰の目にも特別には留まらない。たまたま視界に入っても、お遣いの途中なんだろうなとか思うのが普通で、すぐに意識から切れてしまうだろう。ただの町娘の服を着た少女を見て、長い金髪が綺麗だな以外の感想を、誰が抱けようものか。
関所の周囲には数多くの哨戒兵が立ち、もしくは歩いている。手元のメモとにらめっこして、うーんと悩む少女だが、誰も声をかけたりはしない。ただ、うろうろする時間が少々長いので、そろそろ多くの兵が彼女を認識し始める。注目未満、認識以上の感覚を兵らが抱いた頃合いに、はぁと息をついた少女が、人を探す目で周囲を一度見回す。
その時、少女にとって一番近くにいたのは、関所からやや離れた位置に立つ哨戒兵。とてとて近付いてくる少女に、当の哨戒兵も見向いただけ。警戒心らしきものは微塵も抱かない。抱ける風貌じゃない。
「すいません、お兄さん」
「何だ?」
少女の側も、武装している相手に話しかける立場として、少しおずおずとした態度。仕事中の哨戒兵、応対こそはしたものの、長く付き合うつもりはないとばかりに重い声。普通の女の子が大人にこんな態度を返されたら、肩身狭げに縮こまるだろう。実際、少女もそれらしく振る舞っている。
「えぇと……少々、お願いしたいことがあるのですが……」
おどおどしつつもメモを顔の前に持ってきて、書いてある内容と哨戒兵の顔を、ちらちら交互に見る少女。用があるなら早く言え、手短に済ませろという空気を醸し出す哨戒兵、この後何が起こるかなんて今から想像できるはずがない。
まして彼女が、"アトモスの影の卵"と呼ばれる存在であったなんて。
「死んでくれない?」
くす、と笑った彼女の顔が、その哨戒兵の見た最後の光景。自分の口元と、見上げた先の哨戒兵の頭、二点の間に構えたメモに、ふうっと強い息を吹きかけた少女が促した事象とは。彼女の口から竜の息吹の如く吹き出された炎は、哨戒兵の頭を一瞬で呑み込み、さらにその後方上空までを赤々と包み込む。俗に言えば一発芸の火吹きのようで、しかしあまりに大規模で周囲も見返さずにいられない業火の塊は、あっという間に一人の天人の命を奪い、大気へ溶けて消えていく。
「あーははははは! みんな、びっくりしてくれたかな!?」
町行く人々の悲鳴に包まれた真ん中、高笑いする少女に放たれた早き矢が三本。悪夢的なサプライズを興じた少女はひらりと跳躍し、自らの胸を貫いていたであろう矢をかわし、くるりと空中で宙返り。ふわりと着地し、ぴしっとポーズを決める姿は、凶器を差し向けられても動じない戦慣れした人物のそれ。
両手を広げて掌を上に向けた少女、その掌の上に生じるのは無数の火の玉。それらは次々と少女の手を離れ、彼女の周囲をぐるぐると回る、不気味な火の玉の集まりと化す。まるで少女を守るかのように、同時にそれらは目にした者達が、直後自分達に襲いかかってくることを予見してしまうほどの殺気を醸している。
「さあさあ、楽しんでいってね! 二度と見れない見世物になるよ!」
次々と火の玉を生み出しながら、それらを全方位に放つ少女が口にした言葉の意味するところとは。死した者はそこで人生を終え、いかなる見世物も今後楽しむことは出来ない。少女の火術が次々と人を、町を焼き尽していく中、命を落としていく人々が最期に目にしたものは、他ならぬ彼女の魔術である。
平穏な日常が、一瞬で赤々しく塗り替えられた白昼の惨劇。その中で逃げ惑う人々の中に混ざり、町の随所から飛び出して、関所に襲い掛かる者もいる。少女の爆撃を合図にして、一斉蜂起したアトモスの遺志の構成員達が、武器を手にして天人の防衛線を突き崩しにかかる。広範囲を高火力で焼き払う少女に意識を奪われた兵達は、それらへの対応も遅らせてしまい、刃と炎によって滅される武力や命は、急加速的に増えていく。
無尽蔵に火球を生み出し続け、放ち、上機嫌な足取りで関所に近付く少女こそ、天人支配の時代を終わらせる革命軍の要。同志達には若き芸達者としか思われていなかったミスティが、"アトモスの影の卵"としての本領を人前に広く見せたのは、味方に対しても初めてのことだった。
同日同時刻、ミスティ率いるアトモスの遺志が猛威を振るい始めた町から東、同様の立地に築かれた関所ある町でも動乱は起こっていた。関所を守る、ひいてはホウライ地方への敵対勢力の侵入を防ぐ天人の防衛軍が、無数の地人達と合戦模様を呈している。その中でも一際目立つのは、白けたように細めた目で、次々と敵を薙ぎ倒していく青年だ。
「弱い」
接近して、あるいは接近されて射程距離内に入った敵を、我が手に握る武器で殴り飛ばし、あっという間に一対一を決着させる。その繰り返し。殆ど足を止めず、戦場となった街の中を駆け抜ける彼を、誰一人として阻むことは出来ない。とうに彼を中心とした革命軍は、関所を越えて天人達の住まう区画に侵入済みだというのに、関所後方に厚く揃えられた兵力で以ってしても、抑止力として不足している。
「弱い」
混戦模様の戦場下において、彼が一際周囲の目を惹くのは、その実力のみによるものではない。彼が手にする武器は、剣や斧や槍といった一般的な武器ではなく、日頃彼が使う長尺の鉄棒でもない。長い柄の先に大きな鋼の平を持つ、いかにも土木作業に向いた巨大シャベルである。確かに凶器として使える道具ではあるものの、それを最強の相棒として振り回し、次々と敵を薙ぎ倒していく彼の姿は、味方には心強く敵には恐ろしいものとして認識される
「弱すぎるわマジで」
迫る敵の武器をそれで打ちはじき、体勢を崩された敵の腹を返す刃で突き砕いたり、あるいは自分より遥かに地力の劣る相手には、攻撃させる暇も与えずに顔面を殴り飛ばし、頬骨砕いてぶっ飛ばす。一人撃破するごとに、拍子抜けを意味する呆れ声を漏らし、息一つ上げずに敵軍を蹂躙していく。
「はっはっは、ザーム君! 今日も絶好調だねぇ!」
「兄さんも調子出てきたみたいっすねぇ! 空が綺麗ですわ!」
シャベルを振り回して暴れまわる彼の名を呼び、グラディウス片手に空を舞う友軍の一人。蜂のそれと同型の羽を鳴らしながら飛ぶ彼を中心に、空は革命軍の空中部隊でいっぱいだ。天人達の空軍を軒並み討ち落とし、制空権を確保したネブラ達の下、上空からの敵の攻撃を全く懸念することなく、ザーム率いる陸軍は止まらず進軍し続ける。
「さあーてそろそろ手伝ってあげようか! ザーム君もいかにも退屈そうだし、ここからは僕達による華麗なる快進撃の見せ所だ!」
「いやいや結構ですって! 他んとこサポートしてやって下せえよ!」
「空も西部も東部もとっくに撃破済みだよー! 君が敵を引き寄せてくれるおかげで、他の地域は手薄で楽勝!」
天人陣営から見ても一目でわかる、最強兵ザームをまず撃破すべきと、町の各方面から幾多もの兵が集められているのだ。まずはこの暴れん坊を撃退せねばどうにもならぬと、大量の犠牲も覚悟で兵力を投じた天人陣営の判断は正しい。惜しむらくは、何十何百の兵をザームに差し向けても、彼と周囲を固める兵を破る結果には繋がらず、結果的にザーム達による犠牲者の数を加速させているだけになっていること。天人達の最大の誤算が何かと言えば、自分達の想像を遥かに超えてザームが強すぎること。
退くな、ここで退いては全てが終わりだと、怯みかけた気持ちを怒号で上塗りして駆ける天人達。空を舞うネブラがグラディウスを振るった瞬間、その剣先から放たれた稲妻が、地上の敵兵数人を撃ち抜く。脱落数名、しかし残り敵兵多し。十何人という敵兵が真正面から迫ってくる光景には、雑魚が群がってくるのは今日何度目だとザームもうんざりする。
「地術、土石流波……!」
わざわざ魔力を投じるべき局面ではなかったが、苛立ちの勝ったザームが振り抜いたシャベルが、彼の前方地面を勢いよくすくい上げた。土が大きく舞い上がるだけのはずの行動、それがその地上一点を爆心地にしたかの如く、凄まじい量の土と岩石を発生させる。正面からザームに駆け迫っていた者達の足が止まってしまうのは、瞬時に幅広く、高く膨れ上がった土石流の津波が、まるで壁が倒れてくるかのように自分達に襲い掛かってきたからだ。あまりに突然、予想外の反撃に、為すすべなく土に呑み込まれる者達は、悲鳴すら土の下に押し潰され、二度とそこから地力で這い出ることなく屍に変わっていく。
「はっはっは、イライラしているようだねぇ! よほど手応えがないと見える!」
「もーザコばっかでつまんねーっすわ! レインを守ってたガキどもと比べたら悲しいぐらいっすよ!」
「あれはやっぱり化け物だったんだねぇ! 僕も戦争ってこんなに楽勝なものだったっけって、気を抜いたらすぐに考えてしまいそうだよ!」
豪快なザームの一撃で天人達の心がへし折られ、逆に最強の味方を持つアトモスの遺志の軍勢は加速する。そこにあるのは蹂躙、圧倒、虐殺劇。時が経つごと、強敵不在を知るザームが白け顔を濃くし、空のネブラも楽勝ムードで空から地上の敵を狙撃。ふとした瞬間には地上へと舞い降り、年の若い友軍が敵の密集地に無謀に突っ込む様へ、加勢して敵を屠る役目もネブラは兼ねている。
「我らが同志、見ているかね!? 君達を率いる僕達はこれほどまでに強い! 恐れるものなど何もない! 命を捨てるな、安全に戦え、僕達を頼ることで無謀を捨て、革命成りし次の時代へ生き延びよ! 聞こえたらハイ返事! 余裕のない者は返事しなくてよし! お好きにどうぞ!」
「兄さんよくそんなに口が回りますねぇ!」
「圧勝劇とは気持ちがいいものだよ! こんなに苦もなく次々と、戦場を支配していく戦争など今まで無かったんだからねぇ! 心も弾むさ、歌でも歌いたい気分だよ! 何なら今すぐこの場ででも作詞作曲して英雄ネブラの名を残す賛歌でも作ろうか! その黎明に立ち会うことが出来た君達は何よりもの幸せ者で、ここを最期の地に世を去る者達にとっても最高の手向けに……」
「あーもーうるっせええええええええええ!」
味方から見ても馬鹿馬鹿しく見えるようなやりとりを、離れた位置同士で交換するネブラとザーム。それが味方にとって頼もしくさえ感じられるのは、阿呆らしい掛け合いをしつつも二人が、次々と敵を薙ぎ倒していくからだ。やかましい年上と、付き合いのいい年下を最も意識しながら、敵を撃破するのなんてもののついでのような運び。余裕ありすぎ、無傷で最速、こんな二人に導かれていては、敗北の二文字なんか今や意識の片隅にもない。
「でもまー確かに、負ける気のしない戦っつーのも悪くねえもんですがね!」
「何を今さら! 苦しかったこれまでの鬱憤を、ここで晴らさずしてどうするんだい!」
楽勝続きで一週回って、退屈感すら漂っていたザームも、望んでいた以上の攻勢をやっと意識する。長い長い潜伏生活、サニーとファインに退けられたこと、レインを守る二人に敗北したこと。長い苦難の道のりだった。ザームとて、好敵手と手合わせする悦びを知る武人なれど、戦争においてわざわざ苦戦することを自ら望むほど戦闘狂ではない。それが退屈を感じてしまうほどの快進撃は、やはり今一度思い直せば、敵地のど真ん中でにやりと笑えるほど心地いい。
ファインはいない、クラウドはいない、サニーもいない、レインもいない。それだけで戦場って、こんなにも悠々と駆け抜けられるものなのか。最近は強敵とばかりぶつかってきたせいで、自分の感覚がおかしくなっていたことに気付いたザームは、自嘲するような笑みを浮かべて、また一人の敵兵を殴り飛ばしていた。
ミスティらの攻め込んだ町の東、同じく地方境に作られた大きな町の被害は最もひどい。この町を攻め込んだアトモスの遺志の兵力は、ザームやミスティが率いるそれより遥かに少ない。具体的に言ってしまえば、この町を守る数百の天人勢に対して投じた革命軍の兵力は、その一割にも及ばない。他の侵攻軍に兵力を割き、ここが最も革命軍にとって頭数の少ない一団である。
「ちくしょう、友軍はどうした!? 反応は無いのか!」
「駄目です、応答ありません! 援軍は絶望的です……!」
町は隅々まで炎に満たされ、空は既に真っ黒な煙で塗り潰されている。この人里が滅びた現実は既に確定し、並びにこの町で戦う天人達の敗北も目の前。それでも何とか抗うべく、町の外、近しい場所の友軍の助けを得ようとする天人達の希望も、呼びかけて無反応なる結果が打ち砕く。
天人兵の一部は光属性の魔術を行使し、遠方の仲間と連絡を取り合うことが出来る。離れた味方とも迅速に連携を取るその魔力は、地人には無い天人達のアドバンテージだ。だが、この日はその力も全く役に立たない。アボハワとホウライの地方境は東西に長く伸びる線であり、その線上は町の内外問わず、広く警備兵が拡散しているはず。それらに援軍を要請しても、何の応答も帰って来ないのだ。呼べど願えど援軍は、求める前から疎通が存在せず、既に劣勢が確定した天人達に絶望をもたらしている。
「ふむ、指揮官はあそこだな。任せるぞ」
「心得ました」
燃え盛る町をゆっくりと歩く二人、その行く先を阻む者は誰もいない。彼らを止めようとする者は、既に屍となって周囲に散らかされている。厚手の鎧に身を包む巨漢と並べば、小柄にすら見える老人が落ち着いた指令を下した矢先、毛むくじゃらの顔をした巨漢は一気に走り出す。
その手に握る大戦斧が、高台めいた細い塔の根元に食い込んだ瞬間、人間離れした巨漢のパワーで塔が大きく揺れ動く。その屋上に立つ、天人陣営の指揮官と側近が度肝を抜かれる中、塔の根元では戦斧を持つ巨漢が、もう一度その武器を振りかぶっている。まるで大木を切り倒す木こりのように。
「ふんっ!」
掛け声一発、腕が膨れ上がるほどの力を込めた巨漢の斧の二撃目は、塔の支柱の一角を完全に打ち砕いた。それによってさらに大きく傾く塔、追い討ちとばかりに巨漢の遥か後方を歩く老人が掌を前に出し、そこから岩石の弾丸を発射する。自分よりも大きな岩石を放つその魔術は、もはや弾丸と言うより砲弾と言うべきか。巨漢によって軸の一つを失った塔の根元に、とどめの一撃を受けた塔はさらに傾き、とうとうあるべき建造物としての形を保てず倒れていく。
塔の頂上にいた天人二人は、立っていた場所が傾き倒れていく中で地を蹴り、飛翔能力を持つ風の翼を背負って発つ。程なくして轟音と共に倒れた塔、その上空に炙り出された天人の幹部格。彼らが見下ろす視野の真ん中には、アトモスの遺志を率いる第一人者が真っ先に収められる。
「ご苦労だ」
「セシュレ……」
その名を最後まで呼ばれるより早く発動した、革命軍の最高指導者の魔術。天人二人の僅か上で炸裂したセシュレスの魔力は、大型動物を呑み込むほどの大爆発を形にし、空の敵二つを熱風で地上へと落下させる。熱に晒され、下へ押し出され、悪夢のような苦悶の中で落ちていく二人が地上に近付いた時、大柄な肉体からは想像も出来ないような跳躍力で、戦斧を握った巨漢が迫っている。
大きな弧を描いた巨漢の斧は、その一振りの一閃だけで敵二人を葬った。体を真っ二つにされた天人二人が、かつての近代天地大戦で名を馳せた強豪、ドラウトの姿を視認する暇もなくだ。ずしんと大きな音を立てて着地するドラウトと、ゆるやかな足取りで曲がらず歩くセシュレス、その二人から遠く離れた場所に、切断された天人達の亡骸が吹っ飛ばされて落ちていく。血の雨すらセシュレスの身には注がない。
「どこも首尾よくやってくれているようだな」
セシュレスとドラウト、革命軍の頂点に立つ二人に率いられた兵は極めて少数。圧倒的な魔力を持つ術士セシュレスと、他の追随を許さない白兵戦を実現するドラウトは、殆どたった二人でこの町を攻め落としている。そんな中でセシュレスが意識しているのは、もはや今自分達が攻め込んでいる場所の戦況ではなく、他の角度からホウライ地方に攻め込んでいる者達への心配。それも、援軍が一向に現れぬ状況から、友軍の圧倒的優勢を推察して、少し安心した面持ちすら見せている。
「残党が多いですな」
「後始末は部下に任せればよい。彼らだけでも上手くやるだろう」
数十名程度の部下に与えられた仕事と言えば、もはやセシュレスとドラウトの強さに恐れをなし、逃亡し始めた敵兵を屠る程度のことしかない。二人はゆっくりと進むのみ。歩いた後方に屍の山と火の海を築き、町ひとつを呑み込む死の業火を拡大させていく。
長い平穏はここまで人々に恐怖を忘れさせるものだろうか。かつての近代天地大戦で、あれほど天人達を苦しめた二人の実力には、今さらそれを再認識した天人達も為すすべなく滅ぼされる一方だったのだ。
「はぁ……はぁ……! あと一人っ……!」
「ちっきしょうがあっ! ガキのくせに舐めやがってえっ!」
セシュレスが滅ぼした町とミスティが焼き払う町の中間点、地方境の平原でも熾烈な戦いが繰り広げられていた。そうは言っても大局は既に決し、負け戦の様相で天人達が足掻くだけの展開だ。関所以外からホウライ地方入りしようとする者達を阻む、平原警備の天人兵も、もはや当初の二割以下の兵力まで削り落とされている。
そんな中で地人陣営に混ざる少女は、及ばずながらよくやっている方だ。短剣二本をその手に握り、機敏な動きで敵の喉下を掻っ切ってきたフルトゥナは、怒り狂ったように剣を振り回す敵の攻撃を、後方に跳びながら何度も回避する。長い戦いで息の切れ始めたフルトゥナにとって、本来仕留められるはずの敵にも、なかなか絶妙な反撃が仕掛けられない。一瞬見えた隙を突く体力が足りず、すぐに過ぎ去る好機を見逃すばかり。
フルトゥナに戦友を殺された天人が憤怒するのも当然で、殺意に満ちた刃は当たらずもフルトゥナを苦しめる。防御を捨てたような猛攻の連続、その隙を突けない限り逃げの一手しか踏めない。なんとか死を免れることではなく、なんとか一人でも多くの敵を葬ることを一念に、苦しい表情のフルトゥナが戦い続ける。
「げあ……っ!?」
だが、それも間もなくして終了。フルトゥナを攻め立てていた男の上空から舞い降りた男が、背後から男の胸元を貫く剣を突き刺したからだ。そして太くない腕からは想像しづらい彼のパワーが、人を横に大きく振り飛ばし、剣を抜きながら遠方へと投げ捨てる。
「はっ……はっ……に、ニンバス、様……」
「もう退がっていろ。後は私達が、始末をつけてくる」
混戦模様の合戦場の中、まるで平静時と何ら変わらぬ表情と動きで、ニンバスはフルトゥナの頭を撫でに行く。たった今、人を一人殺したばかりとは思えぬ、娘を見守る父のような笑顔でだ。彼女の本来の価値観で言うなら、退がりませんまだやりますと反発し、なおも戦おうとする局面。しかし、フルトゥナに背を向けたニンバスの大きな背中が、若くして戦場に踏み込む少女の心に、頼もしき人を頼りたくなる心を思い出させる。それが、彼女の覚悟を躊躇させてしまうほどに。
ニンバスの背後から迫っていた天人が振り下ろした剣は、振り返ったニンバスには届かなかった。振り抜かれたニンバスの剣が、敵の振り下ろしかけた腕の付け根から、首を断つ軌道で斜めに駆け抜けたからだ。斬られた側もその瞬間を認識できない速さ、ニンバスとその後方のフルトゥナの頭上を飛んでいく、敵の体の上部分。頭を失った肉体が傾き、ニンバスの横にどしゃりと崩れ倒れる中で、既にニンバスは次なる敵を見据えている。駆け出した彼の速度は、接近される側に気づかれるより早く距離を詰める。
天人陣営の死体がまた一つ増えるまで、ほんの2秒もかからなかった。この日だけで、ニンバスはどれほどの数の敵を葬ってきただろう。時に空を舞い、時に地を駆け、今しがた窮地からフルトゥナを救ったように、危なげな状況に追い込まれた部下を守る動きを最優先し、次々に愛剣フランベルジュに血を沁み込ませていくのだった。
西、東、その真ん中。地方境に築かれた、関所を構えた町の間二つの防衛線を、ニンバスを指揮官としてフルトゥナを含む傭兵団が、ケイモンとオラージュを筆頭とした傭兵団が突き崩している。町が外へ援軍を要請しても、応答すら返せないのはそのせいだ。そんな余裕も与えぬほどに、圧倒的な突撃力で敵陣突破を担うそれらが、三つの町の間に散開する軍勢を叩き潰している。友軍へのラインすら断たれた天人の連合軍は、切り札さえも奪われて、いずれも滅亡への一途を辿っていく。アトモスの遺志がやっていることは、単なる散らばせた全軍突撃だ。たったそれだけの単純明快な策でさえ、総指揮官の的確な采配の下で忠実に動くだけで、これほど大きな制圧力を持つという好例だろう。運命の日を迎えた革命軍の猛攻は、充分な警戒心を持っていたはずの天人勢を、想像を超える力で踏み荒らしていく。
ミスティが、ザームが、ネブラが、ニンバス率いる傭兵団が、ドラウトが、そしてそれらを束ねるセシュレスが織り成す、東西一列の轢殺陣。ホウライ地方を北からの進軍から守るための防衛線は一日で崩壊し、天人の楽園が丸裸にされる。この日、歴史は確かに動いた。アトモスが率いていた時の革命軍ですら、叶えられずに終わったホウライ地方侵攻が実を結び、楽園と呼ばれた地の呼び名が過去のものとなる。
敗北した各地の生き残りから、ホウライ城まで訴えられた全滅五報が届いたのはその日の夕頃だ。その報を魔術にて発した者さえ、届く頃には生死も定かではない。




