第170話 ~楽園の夜~
「どうだった? 楽しんでくれた?」
「はい、とっても。今日はお世話になりました」
「よかった」
昨日はクラウドとレインが、ラフィカに付き添って貰う形でホウライの城下街を歩いた。ファインはスノウの帰りを待つために留守番していたが、今日はラフィカが誘ってくれた時間が早かったおかげもあって、彼女と一緒に町巡りを楽しんできたようだ。天人達の楽園と称されるだけあり、綺麗に整えられた町並みは歩いているだけで気持ちのいいものだったし、うっすらと混血児ファインを刺してくる視線の数々も、彼女はあまり気にしていなかった。ラフィカと一緒に歩いたり、お茶したり、ガールズトークしたりするだけで楽しくて、理不尽な周囲の何やらを気にしてちゃ勿体ないと割り切っていた部分もある。
ファインってそもそも、年の近い友達というものに恵まれる立ち位置にはないのだ。今でこそクラウドといういつもそばにいてくれる親友がいるものの、彼と出会う前のファインにとって、友達だと言える人なんて本当にサニーが唯一だったんだから。普通の子なら、5年か10年早く当たり前のように経験するはずの、友達と楽しくお喋りするという日常行為を、遅くなってしまった青春を取り返す形でファインは楽しんでいる。幸せでないはずがない。
「夕食の仕込みのお手伝い、今日もお願いできるかしら?」
「いいんですか?」
「お願いしてるぐらいなんだけどね。っていうかファインちゃん、そもそも台所に立つのが好きなの?」
「うふふ、大好きです。お料理するのって楽しいじゃないですか」
ラフィカにとっては仕事でも、ファインにとっての料理は趣味。やってるだけで楽しいし、何人もの城内の働き手向けに作る大量の仕込みだろうが、手数が多くて長時間楽しめる遊び場みたいなものだ。スープ作りに携わっている時が一番幸せそうで、その日の閃きに任せて我流のスープを作るのは、彼女にとって一番楽しくて仕方のない時間らしい。調子に乗ると作りすぎてしまう自分の性格を自覚しているぐらい好きらしい。
何かスープのレシピ一つ伝授してよと頼むラフィカや、そんなたいしたものじゃ……と照れるファインのやりとりなどを連ねつつ、絶えない会話を重ねながら二人が城に帰り着く。混血児ファインが城に入ってくる姿を今日も見る門番は、この日も相変わらず憮然顔だが、毎度のようにファインは低姿勢で倍角度の会釈をするので、彼の方も当初ほど嫌な顔をしなくなってきた。どんな世界であってもやはり、正しい謙虚は和の足がかりに繋がる。
「――ラフィカ!」
「あら、どうしたの。そんな血相変えて」
城門をくぐって建物内に向けて歩いている二人に、真正面から駆け寄ってきたのはアスファ。手ぶらではあれこそ、訓練用の薄手の革鎧を身につけている姿や、ひと汗かいた肌であることから、ちょうど訓練上がりかその辺りだろう。血相変えてとラフィカに指摘される顔だが、確かにファインも、私達がいない間に何かあったのかなと思ってしまう表情である。
「……お前なぁ」
だが、そうではないようだ。ラフィカの前に立ち、何やら複雑な顔で頭をかき、何が言いたいのかだいたいわかってくれよと幼馴染に訴える姿勢は、事件を急いで伝えようとする態度ではない。ラフィカもすぐに、彼が何を言いたいのかはわかった一方、ファインも薄々ながら読み取れた気がした。
「何にも用がないんだったら今度にしてくれる? 私はファインちゃんと、夕食の仕込みをしてくるから」
「……お前の先輩も怒ってたぞ」
「知らないわよ。私別に悪いことしてないもん」
混血児のファインによくするラフィカへの周囲の目線は、日を追うごとに厳しくなっているのだ。ラフィカだって察している。名分上は、聖女様の一人娘やその友人をもてなす立場のラフィカなので、周りもあれこれ言うことは出来ないのだが、代わりに昨日辺りから彼女に預けられる仕事が理不尽に増えたりもした。表立ってラフィカを批難できない者達が、立場の低いラフィカに陰湿な制裁を、明け透けに言えばいじめ始めている風潮は、ラフィカの友人のアスファにとって傍観していたいものではない。
お前にも立場があるんだから、そんな奴と付き合うのはやめろよと警告したいアスファ。彼の言いたいことをわかりつつも、ラフィカは存ぜぬ顔でファインと一緒に城内へと向かっていく。二人のやりとりと自分が何であるか、それを併せれば空気も察せるファインは、手を引かれて城内へ踏み込んでいく中、何とも言えない顔で後ろのアスファを見返すばかり。
「あんまり気にしちゃダメよ。私は間違ってなんかいないし、あなたは何も悪くない」
「…………」
世渡りの話をするならば、ラフィカのやってることって利口ではないんだろう。貴族達には、聖女様のご機嫌取りにお熱の小娘がいると口汚く陰口叩かれ始めているラフィカだが、そんなことしたって大したメリットなんかないのだ。スノウは強い発言力を持つが実権はないし、彼女一人を味方につけて、他の大多数を敵に回せば日常的には損をすることの方が多いのは明白。好きなスノウを喜ばせたい一心で、混血児ファインと接点を設けようとしてみたきっかけに始まって、なんだ普通にいい子じゃないと友達になろうとした無邪気さは、彼女のホウライ城における出世道を断ったと言っても過言ではない。
そういう人が少なかれどいてくれるから、ファインはこの世界を見限らない混血児でいられた。幼少の日、サニーという天人がいてくれたのも、救い無きこの世界じゃないと思えるようになれた一因だ。気まずい顔を溶かしきれないファインだが、手を握ってくれるラフィカの体温は温かい。好かれることより好くことの方が、人を幸せに出来るという逸話は嘘ではないと思う。
「すごいすごーい! 最初はちょっと怖かったけど、すっごい楽しい!」
「うふふ、喜んでくれたようで何よりです」
時を挟んで夕食後。ファインとラフィカは、一緒に空の旅をお楽しみだった。白くて大きな綿菓子のような雲、それにちょこんと座ったラフィカが空を飛ぶ横に、風の翼を背負ったファインが滑空している。空を飛ぶ力を持たないラフィカを、ファインがその魔術で空に導いているのだ。雲そのものに人が乗ることは出来ないが、ラフィカの下には人を宙に浮かせる魔力の風が集まっており、それが彼女を地上に落とさない。雲はあくまで飾りである。
夕食後の二人は城の上の階に移り、今日巡ってきて楽しかったホウライ城下街を見下ろしていた。私もアスファのように空を飛べたら、大好きなこの町をもっと見渡せるのに、と言ったラフィカを見受け、ファインがそれに応えた形である。アスファに飛翔能力があるという初耳情報はさておき、ファインの心遣いで高空からホウライ城下街を見渡すラフィカは、口にしたとおりお楽しみのようだ。
「こうやって高い所から見ると、人の形も殆ど見えないね」
「でも、確かにいるんです」
「そうね。大きな視点から見れば見えなくなるものってあるけど、決して無くなったわけじゃないのよね」
ラフィカはこの町を愛している。そして、ファインも少しその気持ちは今日わかる気がした。自分に対して天人が非歓迎的なのはもういいとして、ラフィカを迎えた昼食処のご主人は、本当にいい顔でラフィカを出迎えてくれた。気立てのいい彼女は城の外でも評判がよく、付き合いの深いであろうそのご主人は、彼女が混血児と付き合いがあると知った後でも、少し渋い顔はしつつも受け入れてくれた。日頃の行いがいいラフィカゆえでもあるし、そういう彼女を甘受したご主人の寛容さにもよる。
服を見に行った店でも、常連客のラフィカに対する女店員は気さくに話しかけ、ファインそっちのけで5分ぐらい話し込んでいた。楽しそうにだ。ホウライ城下には、ラフィカのことが好きな人が、彼女にとって好きな人がたくさんいる。ホウライ城の女中という、大きな職場で働くようになって下町を離れた彼女だが、触れることが少なくなった世界も過去と変わらず動き続けている。先の言葉はその例えにはなっていないが、昨日と今日で久しぶりに下町を歩いたラフィカにとっては、それを思い返せたゆえ溢れた言葉なのだろう。
「やっぱり私、この町が好き。近く、アトモスの遺志が攻めてくるっていう話だけど、戦う人達には負けないで欲しいなって思うの」
「……そうですね」
「私、そういうことには何の力にもなれないからさ」
武力を行使してくる相手の意に反しようと思えば、対抗するしかないのが現実。その手段に携われず、愛する地が滅ぶか生きるかの節目の時、人任せに眺めることしか出来ない立場にも苦しみはある。誰もがファインやクラウドのように、望む世界のために立ち上がる力を持てる者達ではないのだ。
「アスファには頑張ってもらうことになるけど、複雑なところもあるわ。頑張って欲しいけど、もしもこの町を守り通せても、あいつがいなかったらもっと嫌。一番いい結果になれば、いいんだろうけどさ」
「アスファさん、いい人ですよね。少しきつい所もあるように見えて、優しい人だってわかります」
「あはは、きつい所は否定できないな。でも、いい奴よ、本当に。わかって貰えて私も嬉しいわ」
実のところ現在では、ファインとアスファの関係はそう悪くない。ファインが人のいい奴であることは、クラウドに負けた時のアスファを、彼女が本気で気遣ってくれたことからも、アスファにだってちゃんと伝わっている。ファインとすれ違うことがあっても、初めて会った時のようなきっつい目を向けてくるようなことはなくなったし、ある程度の距離感は取られているものの、最大限好意的な接し方をしてくれるようになったのはファインにも感じられている。溝が敢えて残されるのは仕方ない、天人組織に属する者としての立場というものがアスファにもあるし、ファインと接点を作ったらアスファまで、男社会の先輩や貴族にきつい当たり方をされるだろう。だからファインも、アスファのことは人として好きになってきていても、自分から近付くようなことはしない。アスファの名誉のために付け加えるなら、サニーやラフィカのように、自分の立場がどうなろうがお構いなしで、掛け値なくファインと付き合おうとしてくれる人の方が相当に稀なのだ。
それに、今日もアスファの優しい一面は垣間見ることは出来た。城の前でラフィカを迎えたアスファは、物言いたげな態度を露骨にしつつも、具体的なことを口にしなかった。顔から彼の言いたかったことは充分察せたが、ファインと付き合ってるとラフィカお前の立場が苦しくなるぞ、というところだろう。それを、ファインの手前ということで、はっきり具体的に言葉にはしなかったのだ。言ってるようなものではあったとはいえ、地人や混血種なんて、という思想が当たり前の天人の中で育ったアスファが、ファインを気遣っての態度を取ってくれていたのだ。小さなことだが大きな事である。少なくとも、ファインにとっては。
「私、ずっとあいつと一緒に育ってきたのよ。6歳の時からね」
「思い出はこの町に、ですね」
「うん、あそこに見える公園が、私がアスファや他の子達とよく一緒に遊んだ場所。昔は私、女の子らしくないって言われるぐらいやんちゃで、男の子達に混ざってさ――」
空を巡る中、地上のスポット一つ一つを指し示して、その場所に眠る思い出の数々を語ってくれるラフィカ。アスファが通っていた剣術道場、ラフィカの叔父が経営する飲食店、一つの場所から溢れてくる記憶の数々を口にする中、その思い出話の中には常にアスファの名前がある。ファインも知ってる男の子、アスファの名をわかりやすい固有名詞の一つとして出し、ファインにも伝わりやすく話してくれている側面もあるのだろうとは思う。同時に、ラフィカにとってのアスファがどれほど大事な人なのかも、伝わる。
「ふふふ、ラフィカさんってアスファさんの話ばっかりしますね」
もしかして好きなんですか? と言わんばかりの攻め口。ファインだって惚気話に近い口ぶりをされては、ちょっといたずら口調でからかってみたくなる。
「ファインちゃんがクラウド君にべったりなのと同じよ」
「えっ、あ……」
「好きなんでしょ? 見てればわかるわよ」
あっさり反撃されて言葉を失い、滑空軌道までちょっと傾くファイン。顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせた時点で、図星突いたとラフィカも思ったぐらいだ。かまをかけてみたら大成功な気分。
「ちょ、ちょっと……わかんない、ですね……あまりそういうふうには、考えてきませんでしたから……」
「んは、出た出た悪あがき」
「んんぅ……その、言葉にするのは難しいのですが……」
恥ずかしくって言い逃れしてくるぐらいまではラフィカも想定済み。そんな言い訳してもこっちはお見通し、という態度で降伏を促そうとしたラフィカだが、案外ファインが苦し紛れじゃない顔で言い返してくるので、余裕の顔はそのままにして、黙って話を聞いてみる。ごまかそうとする顔色じゃない。
「……私、混血種ですし、男の人とのそういうのを考えることはしないようにしてきたんですよ。クラウドさんのことは好きですけど……そういう好きなのかは、ちょっと、その……」
「血筋がそうだからって恋をしちゃいけないなんて理屈、ないと思うけど」
「あははは……もう一人の親友にもそう言われたことありますよ。私の頭が堅いだけなのはわかってるんですけど……上手く切り替えられなくてですね……」
もう一人の親友っていうのはサニーのことで、それはラフィカの知らない人なのでそれはいい。ただ、"もう"一人ということは、前提にラフィカも見たことのあるファインの"親友"がいるということ。そしてそれがファインにとってのクラウドであることまで想像に至れば、二人の距離の近さも想像がつく。
ラフィカも好奇心がくすぐられるところだ。ファインにとっては、親友と称するほどであろうのクラウド、それって混血児うんぬんの事情がなければ、恋と称せるほどに異性の一人に心許していると解釈できるレベルの話ではないのか。それとも本当に、彼女にとっては親友止まりなのだろうか。情報不足で確信の持てないラフィカの立ち位置からして、とてもこれは興味深い。というか、第三者視点の勝手な楽しみ方ではあると自覚しつつも、面白い展開になった方が面白い。
「向こうはファインちゃんのこと、どう思ってるのかな?」
「え……それは、私にはわかりませんけど……」
と、そこまで言ったところで、ファインがくふっと変な笑いを漏らした。どこか自嘲的で、惚気話に繋がるような笑い方ではない。
「……クラウドさんには、手のかかる奴だなってぐらいにしか思われてないんじゃないかな」
なんか思い出しちゃったらしい。ホウライ地方に入る前、天界王様の悪口を言う大暴走をして、クラウドとレインにしこたま怒られたのが最近の話。ファインってどことなく自分に自信を持たな過ぎるきらいがあるが、あの事件の直後では傲慢にもなれないというところだろう。卑屈めいているが、いくらか仕方ない。
「それでもずっと、一緒にいてくれてるんでしょ?」
「クラウドさんって、優しいですからね。頭が上がらない想いはずっとありますよ」
「そういう優しいクラウドさんのこと、どう思う?」
意識させようとしてくる。あるいは、好きですって言わせてみたいのかもしれない。優しいクラウドの横顔を思い返すファインが、恭しさを含む遠い目をした顔からも、彼に対して好意的なのはわかってるけど。ラフィカは自分に自信がないことなど抜きにして、ファインがクラウドをどう思ってるのか知りたい。
「……素敵な人だと思います。尊敬できて、出会えたことが幸せで……出来ることなら、ずっと友達でいたい、私にとって大切な人ですね」
それを恋と呼ぶんじゃないですかねとラフィカは思うがどうだろう。最後にファインが、友達でいたいという恋人未満の言葉を使うから断言できなくなってしまったが、混血児ゆえの引け目が根底にある彼女のことだから、適切な言葉を使えてないだけなのかも、とも思えてならない。それでも、クラウドのことをそれほどの言葉で飾るファインの態度からして、彼女にとっていかに彼が特別なのかは明白。
「そっか。ずっと……そうね、ずっとあの人のそばにいられたら幸せよね」
「はい」
それが生涯を添い遂げることまで視野に入れた、ずっとそばにというニュアンスであったことが、ファインには伝わっているだろうか。短くはっきり返答してくれたファインの態度は、ラフィカの見たかったものに限りなく近い。同時に、今の言葉で話を纏めたラフィカの瞳もまた、生涯を共にしたいと思える男性を、既に見つけている乙女のそれ。だから、そんな言葉が無意識にでも出る。
「ファインちゃんも、もっと恋に積極的になりなよ。私が断言するわ、生まれがそうであっても、男の人と結ばれちゃいけない理由になんかならないんだから」
「……ありがとうございます。そう言ってくれると、なんだか凄く嬉しくなりますので」
「普通のこと、普通のこと。もっと普通に生きようよ、でなきゃ人生、勿体ないよ?」
実に眺めのいい空の上で、見下ろせる景色とは無関係の話に最も花が咲く。高所から広い世界を見渡す楽しみより、希望ある未来に目を向ける時の方が、何にも勝って楽しいという好例だ。空で笑顔を交換する二人の少女は、邪魔者の無い空の上でありふれた幸福を独占し、共有する。そう、ありふれたものだ。こうした普通の楽しみを、今までにしてこられなかったファインという時点で、ラフィカやサニーに言わせれば世界の方がおかしいのだ。
そんな世界を変えようとするアトモスの遺志の暴力が、一つの正義として否定できないものであるのは、天人のラフィカですら感じることだ。きっと、スノウもそう。ファインだってそうなのだ。虐げられてきた痛みを知る者、あるいは知人がそうした格差社会に苦しめられていることを知る者は、変革を求めてやまずに武器を取った者の心に想像が及んでしまう。それが優しさと呼べるものなのかは、定義付けが難しい。
「ねえ、もっと高度下げてみてくれる? 今日も頑張ったぞ、っていう市場の人達の、仕事帰りの姿が見たいの」
「ええ、お任せ下さい」
だが、町は確かに輝かしかったのだ。地上に生きる天人達は、確かに差別的な思想に染まった人々が殆どだろう。それでも誰もが、社会の波に揉まれながら、働き、笑い、泣き、日々を生きている。どこの世界であってもそうなのだ。そうして一人一人の集合体が作り上げた大いなる社会、都、ホウライの城下街が、健やかな体と精神を育まれてファインの友達になってくれたラフィカを生み、思い出という副産物で今日も彼女を笑顔にする。革命軍側に属するセシュレスの口癖に、社会とは人が為すものである言があるが、まさにそれが真実であることを、優しいラフィカやアスファが物語っている。真の孤独の中であんな人間は育たない。
ホウライ地方は美しい。その地で差別される立場のファインですら、そう思う。無くしてはいけないのだ。
「ただいまー」
「あ……おかえりなさい、クラウドさん」
レインも既に先に寝た真夜中、スノウの部屋に帰ってきたクラウド。お風呂上がりのクラウドは、タオルで頭を拭きながらのお帰りだが、かなり遅めの入浴である。どうもアスファに稽古をつけて欲しいと頼まれたらしく、二人してこんな時間まで拳と木剣を打ち合わせていたらしい。地人のクラウドと積極的に接点を作るアスファの姿勢って、同僚ないし先輩の天人に何やら言われそうなところだが、彼の場合はクラウドに一度負けているため、リベンジないし過去を乗り越えるための行動とも解釈されるため、特に波は立たないそうだ。
「スノウ様は?」
「……えっ? あぁ、まだ帰ってきてないですよ……? どこかでまた、遊ぶか飲むかしてるのかもしれません」
「今日もかぁ。心配になるな」
「そうですねぇ……」
おかげで大きなベッドはレインが一人で独占して悠々スペース。後でファインもレインの隣に寝ることになるが、ど真ん中をレインが占拠していてもなお、余裕がいっぱい余っている。三人も寝られる大きさのベッドが、スノウ不在でそんな使い方できてしまうのも、かえって寂しさを感じる事象である。
「ちょっと冒険的だけど、探しに行ってみようかな。昨日も外で寝てらしたっていうし」
「そうですねぇ……」
「…………? ファイン、何かあったのか?」
「へっ? や、えぇと……な、何がですか?」
「なーんかさっきから上の空だからさ。顔もなんか赤いし……風邪か?」
どうもぽやーっとした顔と口ぶりのファインがはっとした矢先、濡れ気味の手を拭きながらクラウドが近づいてくる。ベッドに腰掛けるファインの額に片手を当て、逆の手で触れる自分の額と、温度を比べるクラウドの行動に、ファインは目を伏せどぎまぎする。
「熱はないみたいだけど……」
「あっ、う……そ、そういうのじゃない、ですよ……?」
「だったらいいけどさ。今日なんかあったとか、そういうのでもないよな?」
「え、えぇ……特には、別に……」
今日何かあったかどうかと言えば、あったけど。ラフィカにあんなこと言われたもんで、クラウドのことを妙に意識してしまっていたってだけの話。その異性が、お風呂上がりの姿で目の前にいて、何だか知らんが半ば見惚れていたなんて、ファインも人に知られたくない。自分視点でもあまりにムッツリ臭くて、人に知られたらもう顔を上げられないだろう。
そんな事情なんぞさっぱり知らないクラウドは、ぽふっとファインの隣に腰掛けてくる。そう接し合う距離感ではない。でも、ファインにだけは何故だか、いつもより近く感じる。今の自分の意識した眼差しではクラウドを直視できないファインが、へその前で組んだ手の親指をくるくる回す手に目線を落とし、クラウドは平常運転で後ろのレインを振り向く。レインはベッドの真ん中ですやすや眠っている。
「……もしもアトモスの遺志が、ホウライ地方に乗り込んできたらどうする?」
「それは、まあ……そうなるんじゃ、ないかなって……」
気の紛れる、あるいは気の紛れすぎる話題を口にしてくれたクラウドのおかげで、内に引き篭もらせる思考を隅にどけられたファイン。当面において、一番気がかりなことだ。アトモスの遺志がホウライ地方への侵略を本格的に始めたら、自分達はどうするか。国と革命集団の荒事になるのは間違いないし、自分達だって手をこまねいて眺めているばかりではないと思う。やると思う。ファインの返答はそういう意味で、クラウドも、やっぱそうだよなっていう気分。
「レインをまた戦場に置かせるのって、俺は個人的には嫌だけどな……」
「そうですね……荒事が嫌で、アトモスの遺志から逃げてきたんですもんね……」
最も気がかりなのはそこである。自分達はいい、ラフィカを通じてホウライ地方の尊さを知ったばかりのファインは、この地を守るための闘いにも前向きに動けるだろう。クラウドだって、ファインやレイン、スノウが危機に及ぶような戦いなら、自分も参戦することを厭わない。今日、アスファと軽く手合わせしてきたばかりの彼ゆえに、個人的にもそれには前向きなのだ。ああ見えて話のわかるアスファ、その彼がひたむきに力を養って、守り抜こうとしているホウライ地方を、滅ぶか否かの瀬戸際で眺めているだけなんてしたくない。
二人揃って、今は穏やかに眠るレインを見て、あまり戦わせたくない心地で胸を満たしている。二人の間では、いよいよの時が訪れた時、ホウライ城にレインを預けて自分達が戦場に赴く形と想定している。それはそれで、ホウライ城まで敵軍を絶対に寄せ付けてはならない、身内を守るための防衛戦の様相だ。これまで何度も、敵の強さを目の当たりにする機会に直面してきた二人だけに、出来るだろうかという不安も大きい。今までのような、少数精鋭を相手にした小競り合いになる予感はしないんだから。
「なるようにしか、ならないんだろうけど……何かあっても、やるだけやろうな」
「はい」
先の見えな過ぎる日々の中、指針を設けても言葉を見つけきれず、漠然と前進する決意を固めることしか出来ないのはよくあること。まして見え透いた苦難の壁が、あまりに大きいとわかっていれば尚更だ。今までに見せ合ったことの極めて少ない、先々のことを思うだけで気が重い顔をする二人は、顔を見合わせてその意識を共有する。クラウドはアスファを通じて、ファインはラフィカを通じて、そして二人ともがスノウを通じて、ホウライ地方を守るために戦うための理念を、既に胸の中に宿している。
そして何よりも、目の前にいる親友のためにだ。今のクラウドにとっては誰よりも大切な、そして今のファインにとっては、もしかしたら本当に誰よりも、母よりも大切な人がいる。並んで死地へと赴くことになろう、大事な人が最悪の運命へと辿るような結末は、二人にとって最も恐ろしいものだ。戦う理由があるのだとしたら、既に別個に戦う理由を見出した二人が戦場へ足を向ける中、その相方を死の命運から免れさせるために死力を尽くすという、後からついてくる重ね合わせの動機が最も大きい。順序は逆でもそうなのだ。
どこかで不思議と確信した気がしてやまない、数多き血の流れる日は、もう目の前という予感。静かな夜にそれを意識した時ほど、1年後に二人揃って笑い合える時が来るのかどうかわからなくなる。戦前の静寂は、平穏を愛する者達にとっては、胃に穴が開きそうなほど重かった。
「…………」
スノウもそう。この時間の彼女は酒を飲んで遊んでいるんじゃないかと、城内の誰もが思っていただろう。酒は飲んでいる。酒瓶を片手にその中身をぐいっと飲み、ホウライ城の上層階のテラスで、北東の地平線を眺めている。その方角の遥か先にあるのはアボハワ地方。今その地でいかなるものが蠢いているのか、ここから視認できないことはわかっているけれど。
空も大地も、見えぬ世界で動く人々の内心も、決してスノウに何らかの情報を与えてなどくれない。だけどこの日、いっそう大きな胸騒ぎがスノウの内で弾むのは、酔いのせいなのか運命の警鐘なのかわからない。
「……来そうね」
遠くない嵐の予感がする。楽園と呼ばれて長いホウライ地方をやがて襲う火と風は、姿も見せぬうちから歴戦の戦乙女に、その存在感を示唆していた。




