第161話 ~心繋がる檻の中~
時は朝方。あぐら座りで腕を組んだ姿勢のまま、くぁ、とクラウドが小さなあくびを漏らす。一晩中起きていたので、流石にちょっと眠くなってきた。寝不足生活には慣れきっている彼だが、今の環境は退屈すぎて、じっとしていると余計に眠くなる。
そんなクラウドのすぐそばには、二人の少女が横たわっている。クラウドの膝と髪が触れ合いそうな所に頭を寝かせたファインと、その胸元に抱かれて眠るレイン。二人揃ってすぅすぅと安らかな寝息を立て、しばしばレインがファインの胸元に頭をすりつける際、その都度ファインがくすぐったげに息を詰まらせる。ファインも女の子の大事な所をすりすりされつつ、嫌がる素振りもなく優しく抱き返すのだから、実に仲のよろしいことで。寝ててなお二人ともこれなんだから、殊更である。
「ん、んん~……くふぅ……」
ただ、そろそろ早起きファインの起床時間頃。レインの頭がもぞもぞと、ファインの胸元をくすぐる仕草が、お目覚め近くの彼女に効いてくる。ほんの少し裏返った笑い声に近い、寝言を漏らしたファインの声には、あぁそろそろ起きそうだとクラウドにも感じ取れた。クラウドもちょっと嬉しい。一人で起きてるだけの夜は退屈だったのだが、その時間も終わりそうだ。
薄暗い中でうっすらと目を開けたファインは、寝ぼけ眼で胸元に視線を降ろして、自分に抱かれて眠るレインの頭を視認。起きた直後は、今がどんな状況なのかよくわからない。ただ、甘えん坊のレインのことは知っているので、状況に違和感を感じない。起こすのも可哀想、だけど自分は起きなきゃと、ひとまずファインはレインを抱く腕と体を器用に扱って、レインをあまり動かさずに、正座した自分の膝枕に寝かせる形に持っていく。
「おはよう、ファイン。起きたか」
「んむ……おはよーございます、クラウドさん……」
たとえばの話、明け方前の宿で少し早起きし過ぎると、灯りなき暗さの中で目を覚ますことになる。くしくし目をこする今のファインもそんな状況に近く、半開きの目をしっかり開けようと努めている。
「ちょっと待ってて下さいね……レインちゃんが起きたら、朝ごはん作りますので……」
「え……ああ、うん。はい」
完全に日常モードな口ぶりのファイン、どうやら寝起きで今の状況がわかっていないらしい。朝ごはん作りますって、出来るもんなら是非やって欲しい気分のクラウド。くそ退屈な連行馬車の旅、ファインの作る美味しいごはんが食べられるなら、どれだけ気分も明るくなることやら。ぽやーっとした目で、膝の上で眠るレインの頭を撫で、可愛いなぁと小さく微笑むファインを眺めてクラウドも、幸せそうですねっていう気分になる。
でも、よく考えてみましょう。鉄の床の上に正座する脚はちょっと痛くないでしょうかと。布団もかぶらずに寝ていたこの環境は、果たして野良小屋か宿のそれでしょうかと。ずっとなでなで、レインの頭を撫でていたファインの手がぴたりと止まったのは、寝ぼけていた頭が冴えてきて、異変に気付いた表れの一つ。
「あっ」
「うん」
やっとはっきりした意識の中で、ファインが今の状況を正しく理解してくれた。ここは四角い鉄の箱の中、鉄格子だけが外界との唯一の窓口を塞ぎ、朝方の日差しも僅かにしか差し込まない獄の中。首を回して近い距離、クラウドと顔を向き合わせるファインの前には、寝ぼけてたなぁと小さく笑うクラウドの表情がある。
朝ごはん作りますから、なんて、お花畑な発言をしたのが数秒前。遅れて恥じて、ファインの顔はすぐ真っ赤っ赤に染まってしまった。
天界王フロンへの毒舌を吐いたファインを国家反逆者と見做し、ならびにその旅の連れであるクラウドとレインともども、三人をホウライ城へと運ぶ馬車。荷台に乗せられた鉄の箱は、少年少女三人が収容されるにはまだゆったりしたスペースを持つが、いかんせん金属臭に錆の匂いも混ざって鼻に悪い。空気穴を兼ねる唯一の窓も鉄格子でカバーされ、外から差し込む光もそこからのみ。
馬車は人里を経由するたび馬を交換しているらしく、進行ペースもかなり早いまま、速度も殆ど落ちていない。軽快に進むぶん、馬車の車輪が跳ねる上下運動も絶えず大きく、その都度お尻が鉄の床に叩かれる。何日もこの中に閉じ込められていたら体も痛めそうだ。
まあ、そんな中でも平然とすやすや寝ていたファインとレインって、どんな環境でも眠りにつける生活力があるとも言えるけど。ファインもたいがい、そんじょそこらの女の子とは一線を画し、タフな子なんだなぁとクラウドも思う。
「にしてもコレどうなんだろうな。人間の扱いじゃないよな」
「こ、国家反逆者ですもんね……えぇと、その、クラウドさんは冤罪ですけど……」
「ああもう、そんな顔しないしない。もう気にしてないから」
一夜明け、クラウドもすっかり気持ちを切り替えられたらしく、申し訳なさげに目を伏せるファインの頭を優しく撫でてやる。相当に前のめりな発言と行動を起こし、自ら国家反逆者の汚名を背負ってまで、混血児には決して立ち入れないホウライ地方に立ち入ろうとしたファイン。自らファインの仲間だと名乗り出た形とはいえ、クラウドとレインを巻き込んだ形のファインは、やっぱり今日もクラウドに顔向け出来ないという顔色だ。
だけどそもそも、クラウドは自分の意志でこうすることを選んだのだし、彼の本心としては今の境遇に置かれたこと自体で、ファインを責めてなどいない。それは、昨日の時点からもそう。クラウドが怒っていたのは、命知らずな行動を平然と起こした彼女に対してであって、それに関しても昨日充分に説教済み。一夜明けるほどの時間が過ぎてしまえば、流石に反省しまくったであろうファインを前にして、もうわだかまりなんか溶けきっている。
「普通にしといてくれ、その方が調子狂わないで済むから」
「お、怒ってませんか……?」
「まあ、今度どっかでご飯でも奢ってくれたら許そうかな」
「あ、はい、ええ、それでしたら……! や、約束しますねっ」
気軽なクラウドの声のおかげで、ファインのおずおずとした震え声にも張りが出てきた。クラウドもファインの性格がよくわかってきたのだろう。何にも無しで、もういいよと本音を吐いただけじゃ、ファインって余計に申し訳なさで腰が引けるタイプだ。こういう風に、軽くまかなえる程度に侘びを要求して、それが禊と提案する流れを作った方がいいのである。どうせ旅の中で二人の財布はほぼ共有状態、飯一度奢って貰う程度はなんにも響かないし、クラウドもいい具合の落とし所を設けた形だろう。
「まあ、よかったんじゃないか? 結果的にホウライ地方には入れてるわけだし。俺は個人的に、どんな形でもファインだけ行かせるよりは、俺も最後まで一緒に旅したい気持ちあったしさ」
「そ、そうですか? 私も、その……クラウドさん……とレインちゃんと、あの街でお別れっていうのは寂しいなって思ってはいましたけど……」
「じゃ、尚更よかった。三人揃って旅を続けられる形なんだし」
罪状背負って連行される身であろうが何であろうが、クラウドは付き合いも長くなってきたファインと一緒に旅を続けられるなら、そっちの方が楽しいという考えを素で持てるらしい。そう言ってくれるクラウドの態度には、ファインももじもじしながら本音を返してしまう。膝の間、股の前に握り締めた手をもそもそさせながら、クラウドの名を発した時には勇気を使ったものだけど。
「にしてもこの連行のされ具合、凄いよなぁ。天界王様の悪口言っただけでここまでするのかって感じ」
「あ、あははは……私も想像以上でしたよ……」
本当、この扱いは奴隷か家畜と変わらない。あるいは、人買い商人の扱う"商品"の運び方で、とても人の尊厳を意識したものとは思えないものだ。クラウドとて、天人こそ至高とする現代の流れを軽視していたわけではないが、天人文化の頂点に馬鹿の一言吐いただけで、死刑囚を運ぶような箱に詰めて運ぶのだから。そういうことを軽々しく口にする者はこうなるんだ、という見せしめの意味も込められているのだと思うが、それはそれで鞭のきつ過ぎる話である。
「まあ、向こうに着いたらどういう運びになるかはわかんないけどさ。なるようにしかならないだろうし、今は待ってりゃいいんじゃないかな」
「クラウドさん、落ち着いてますね……私もう、今からどきどきしてますよ……」
ホウライ城に着いたら、話も聞いて貰えずに刑務所送りだとか、普通にあり得る話である。それも覚悟の上であれをやったんじゃないの、と辛辣に言うことも出来るが、往々にして想像以上にやばい状況に追い込まれた、なんて話はありふれたものだし、いよいよとなってびびってしまうのも、まあ往々にして。豪胆な決断力と前のめりとさえ言える行動力に、後から縮んで怖がる臆病な一面も持つファインって、つくづくアンバランスだなってクラウドも考えたりするけれど。
「大きな声では言えないけどさ――やばそうだったら、俺もけっこう抵抗すると思うよ。ファインとレインを抱えての逃亡生活に突入、っていうのも俺は視野に入れてるから」
言葉の途中から顔を近付けてきて、ひそひそ声になるクラウドの動きには、ファインもどきりとして固まる。内緒話をしようとしただけのクラウドは意識しなかったが、彼の方からこんなに物理的な距離を縮めてきたのは初めてのことなのだ。不意打ち気味に、クラウドの呼吸音も聞こえるような距離感で彼の声を聞かされたファインは、クラウドには見えない暗がりの中で顔が火照るような心地だ。
「えっ、えっ……でも、そんなことしたらクラウドさんまで……」
「何がさ、別にいいよ。俺、ファインはお母さんに会いたかっただけだって知ってるし。やり方は実際の所良くなかったとは思うけど、だからってファインが無情に痛めつけられるような結果になるぐらいなら、俺そんなの絶対に嫌だし。全力で逆らってやるよ」
こんな友人、出会えるだろうか。一蓮托生を謳う旅の連れと言っても、いわば地獄の底まで一緒にいてやるよと本気で宣言してくれる友達なんて、中々いないものである。ファインが思っていた以上に、自分のことを大切にしてくれているクラウドの一途な言葉は、己の価値を低くにしか見なさ過ぎる彼女にとって、予想の遥か上を行くほどに嬉しいものである。
「だからさ、安心してていいよ。どんな結果になったって、俺がファインを一人にはさせないから」
「…………」
不思議な間。あれ、何も反応がないぞとクラウドも怪訝に思う。姿勢を戻して普通の距離感に戻し、見やすい位置からファインを見ても、目線を落として小さくなったまま。話しかければ必ず何らかの返答を返してくるのが普段のファインであり、無言を返された今のクラウドは、何かまずいこと言ってしまったのかなと不安げな想いに駆られる。
「……あの、ファイン」
「いえ、その……なんでも、ありません。クラウドさんって、優しすぎるなあって、思ってただけです」
顔を上げて、儚いほどの笑顔を向けてくるファインの表情は、暗い中でもクラウドにはっきりと視認できた。嫌な気分やつらさを隠そうとする、作り笑顔でないことは疑いなく思えた。でも、どこか陰のある切なげな色が何に由来するのかは、クラウドの想像力では及べない。
混血児に生まれたというだけで、ずっと周囲に蔑まれるばかりであったファインにとって、今の言葉がどれほど幸せなものであったかなど、クラウドには読みきれないのだ。否応なしに過去を想起し、だからこそこの幸福を噛み締めるファインの儚げな笑顔は、きっとファインが意図的に見せようとしても作れない、自然に生じた純粋な笑顔である。
「……大事にしてくれるなら、私けっこう甘えたくなりますよ? こんな私ですけど、やっぱり私、一人じゃ怖くて生きていけない性格をしていますから」
「独りでなんか、誰も生きていけないだろ。困ったことがあったら頼ってくれていいよ。俺だって、今まで何度もファインには助けられてるんだからさ」
謙遜でも卑下でもない、独りぼっちはもう嫌だという本音が溢れた小さな告白。その深くを理解する必要はクラウドにもない。笑顔を柔らかく崩し、ほんのりと笑うファインを前にして、クラウドも今の関係が自分にとっても良いものだって告白する。鉄の箱に収められた、本来ならば沈痛な心地になるはずの環境化、ファインの膝枕に頭を乗せて眠るレインのことも忘れての二人の世界。笑顔の戻ってきたファインの顔色を見て、やっぱりファインはそうしてくれていれば一番いいなって、クラウドの胸の奥も暖かくなるばかりだった。
しかし、こんな二人の姿が気に入らないのが、連行する側の天人達。不意に檻の鉄格子の隙間から、彼らの一人が投げ込んだ缶詰が、背後からクラウドの後頭部に直撃する。
「いっ……てえっ……!?」
「朝飯だ、食え。貰えるだけでも感謝しろよ」
頭皮を突き刺す鋭い痛み、頭の中まで響くような鈍痛、振り返ってぎろりと鉄格子を睨み返すクラウド。その向こう側には、冷淡な声を返してくる天人の後ろ姿しか見えない。あまりに突然の乱暴に、温かさに満ちていた二人の世界はぶち壊され、ファインも凍りついた顔でクラウドの頭に触れようとする。
「く、クラウドさん、大丈夫……」
「……あー、別にいいよいいよ、そんな効いてねえし。私語してんのが気に入らなかったんだろ」
缶詰を投げてきた天人様の思うところはわかる。大罪人として連行されているはずの少年少女、それがまるで立場もわきまえないような、のんのんとした会話を檻の中で繰り返していたら気にも障るというところだろう。それ自体はクラウドも、相手の立場を鑑みて認めなくはないから、今の大事な主張は別として、口を慎む方向に妥協することは出来た。
だが、やっぱり煮え切らない気分は募るばかり。昨日はちょっとつんけんし過ぎたかなと思って、今日は普通にファインとお話するつもりでいたのに、今のでせっかく正常化させられた空気もぶち壊しだ。だいたい缶詰をぶつける相手が自分だからまだ許せるものの、ファインやレインに同じような当たりをされていたらと思うと、やっぱりこの天人様ども好きになれようはずがない。
「……やっぱ俺、信用ならない天人様より、ファインやレインの方がいいや」
「く、クラウドさん、滅多なことはあまり……」
「本音だし。ファインは前のめりなとこあるけど、それでもファインの方がずっと信頼できるよ」
捨て台詞のように、隠さない声量ではっきりと言うクラウド。俺の目線では、天人ってだけで威張ってるお前らなんかより、お前らが見下してる二人の方が、という皮肉を込めてである。そこまで詳細に口にすると角が立ち過ぎるので言わないが、本音で言えばそこまで言ってのけてやりたかった気分ですら。ずきずきする頭をさすりながら、吐き捨てるように言うクラウドに対し、鉄格子の向こうから舌打ちが返ってきたが、クラウドも、何か文句があるんなら言ってみろよと覇気を突き返す。
今のでレインが起きたりしなかったのが不幸中の幸いだ。クラウドの頭を掌で撫ぜ、治癒の魔力を流してくれるファインの姿勢は嬉しいが、不安と心配に満ち溢れたその顔は、クラウドの望むものではない。安らかな寝息を立てるレインだが、今のを見ていたらレインもファインと同じ顔をしていたかもしれないのだ。
すやすやと眠るレインの寝顔と、ファインの表情を交互に見るクラウドの心中や如何に。下手をすれば、自分達の命を狙ってきた"アトモスの遺志"よりも、この天人様達のことは嫌いになれそうだ。そんな奴らに、ファインやレインを泣かされる日が来たら、きっと俺絶対に我慢できないだろうなってクラウドは考えていた。
ホウライ地方の中心には、一つの大きな城がある。ホウライ城と呼ばれるそれは、ありふれた人里よりも遥かに大きな城下街を足元に構え、一国の都としての地位を確立している。天人の楽園と呼ばれるホウライ地方の中枢を担うここは、見上げるだけで荘厳で難攻不落を思わせる巨城を大黒柱に、不撓の天人文化を象徴するものだ。
地価も高く、それなりの金持ちにしか住まえぬホウライ地方の都は、今日も華やかな町並みが日の光に照らされていた。その中でも一際輝く白金主体で構成されたホウライ城は、天人の王族のみに立ち入ることを許された聖域だ。ここに住まう権利を得るには、努力や金銭ではどうにもならず、そうした血筋に生まれる他ない。だが、それだけ特別なホウライ城に住まう人物の中に、生まれも育ちも庶民上がりで、とても天人の貴い血筋とは程遠い者が、例外的に一人いる。
「はぁ……はぁ……」
時は夕暮れ前。城の中、自室の扉を力なく開き、壁に手を当てよろよろと歩いていく女性。金色の刺繍で模様をあつらえた、純白のベールで頭を覆う身なりは美しく、大きな胸の谷間を強調した若草色の服にも張りがある。腰より下も、スカートと白いブーツで脚の大半が隠れているものの、露出した膝の僅か上下だけでも、全体の細さを容易に想像させる綺麗な脚だ。胸を張って悠々と歩けば、プロポーションの整った体躯の美しさも相まって、すれ違う人々、特に男が見返さずにはいられないだろう。ただ、猫背で壁を頼りに歩く彼女は、顔色の悪さも相まって、美しい顔立ちも曲線美の際立つボディラインも台無しだ。
「おや、スノウ様。おはようございます……と言っても、もう夕暮れ前ですが」
「あ、あぁ……おはよう……」
ちょうど彼女のそばを通りがかった女中が、その女性の名を呼んで話しかける。壁に手をかけたまま、なんとか話しかけてくれた相手に手を振って、笑顔を作る聖女様だが、具合がすぐれないのか目つきも悪い。敵意ある目つきではなく、体調の悪さが誰の目にも一目でわかる両目である。よくよく見てみなくても、両目の下にくまもある。
「大丈夫ですか?」
「あ、頭が痛くて……ちょっとしたら治まるとは、思うけど……」
この女中の個人的な観点で言えば、この聖女様はいつもそう。顔を合わせる時があるとすれば、日もそろそろ沈み始めますよという時間に起きてきて、頭痛と吐き気に苛まれる顔色。毎日そうである。この人の、こんな姿を常々見ていると、これが本当に魔女アトモスを討伐した、偉大なお強き聖女様なのか疑問符が沸いてきたりもする。
「あ、あぁ……丁度よかった……聞きたいことがあるんだけど、いいかしら……?」
「はい、何でしょう」
「し、城の方々が、今夜死刑囚がホウライ城へ連行されてくるって、揚々と仰ってたけど……どういう流れでそんな話になってるのか、教えてくれない……?」
聖女スノウが目を覚ましたのはついさっきだが、起きてすれ違う王族達の世間話は、ほとんどそれで持ちきりなのを歩きながら聞いていた。頭痛に苛まれて、人に話しかける余裕のなかったスノウだが、今は先ほどまで随分ましになったのか、女中にその至りを尋ねる気分になったようだ。ああ、それでしたら、と、女中の側も聞き及んだ話の限りをスノウに話してくれる。
どうも昨日、ホウライ地方の北端の関所町で、聖女スノウの一人娘を名乗る少女が現れ、さらには天界王様の悪口を言ってまで、ホウライ地方入りを果たそうとしたらしいとのこと。話の内容が荒唐無稽すぎて、スノウも一度聞き間違いか何かかと尋ねたが、私も自分で言ってておかしな話だと感じますよと、女中も笑いを浮かべるのみ。確かに下手糞な作り話を疑うぐらい、色んな意味で馬鹿げてる。
「その子は明日の昼にでもホウライ城下街に到着して、あとは留置所に直行だそうですよ。よくわからない子ですが、天界王様の悪口を言った以上は致し方ないことでしょうね」
「ふーん……」
ファインのことなんてどうでもいい女中は淡々と語るだけだが、スノウの目線ではちょっと気になる。確かに自分には一人娘がいる。ホウライ地方には立ち入れない、混血児の娘がだ。それを名乗り、無茶苦茶な手段を用いてでも、ホウライ地方入りを果たそうとした少女と聞いて、スノウの興味が刺激されないわけがない。
「あ、ありがとう……尋ねてみてよかったわ……」
「体調がすぐれないようでしたら、少し早くにご夕食を作りましょうか?」
「け、結構よ……歩いていれば、そのうち具合もよくなるでしょうから……」
そう言ってスノウは、女中に背を向け城の中を歩いていく。壁づたいに、よろよろとした足取りで、今にも倒れそうな後ろ姿である。いつものことながら、寝覚めはいつもあの調子な聖女様を見ていると、女中も心配な想いに駆られるものだ。話してみれば悪い人ではない聖女様だし、あんな風に元気でないお姿でいられるのは、彼女のことを好きになれている女中には面白くない話である。
女中と別れ、広い城の中を歩いていき、何人かの人とすれ違って挨拶を交わしながら、ようやく城から出るに至るスノウ。西の空に浮かぶお日様は赤みを増しており、まさしく普通の人が目を覚ますような時間ではない。それでも今日は、スノウにしてみれば早起きした方であり、よろよろと城の門をくぐって外に出たスノウは、壁に背中でもたれかかるようにして息をつく。ずきずきと痛む頭を片手で押さえ、うめき声に近い声をんんんと漏らし、なんとか正しい思考力を取り戻そうとする。
確信はないのだが、普段より早起きした今日の自分には、普段にはない何か新しい出来事が起こる気がしてならないのだ。今夜ホウライ城下街に、自分の一人娘と名乗る少女が訪れるらしく、しかもそのことを、早起きしたおかげで少し早期に知ることが出来た。こうなると、何らかの天啓なのかなと思えてもくる。ファインと名付け、クライメントシティの夫に預けたあの子が、まさかこんな遠いホウライ地方にまで来るなんて考えにくいのだけど、まさか、もしかしたらという想いも沸いてきてしまうのだ。
「私の、一人娘……か……」
手元を離れたあの日から、一度も顔を合わせておらず、今や再会できても自分の子供だとはわからないだろう。そんな我が子を、果たして私の一人娘だなんて言っていいのだろうかと思ってしまう。それでも、聖女スノウの一人娘を名乗ってまで、自分がいるこの地を訪れたという今は見知らぬ少女のことが、スノウは気にかかって仕方がない。
壁を頼りに少し休んだスノウは、先ほどまでより少しだけ、ほんの少しだけ整った足取りで歩いていく。せいぜい、支えなくして歩けるようになりましたという程度の、よろよろとした危なっかしい足取りだ。頭が痛い、目の前も少しだけ歪んでいる。眠らない時間の殆どを、こんな最悪なコンディションで毎日過ごす聖女スノウは、本音を言えば自室のベッドでまだまだ寝ていたい。それでも、何故だか早起き出来た今日の巡り合わせに倣い、真実のほどを確かめたい想いが勝っている。
北から連行されてくるその子が、ホウライ城下街に辿り着くのは明日だという。あくまで予定、あるいは遅まるか早まるか、その程は連行する者達の旅足次第だろう。だが、関所をくぐって恐らく留置所に直行という話を聞くと、話が難しくなる前に顔を合わせたくなる。はぁと息をついたスノウは、重い足取りで街の北の関所に向かっていった。




