第157話 ~とても平和な夜の話~
「はぁ~……しあわせ……」
浴槽の熱い湯に浸かり、汗と疲労を体から洗い流すファインの恍惚の顔ったら、もう。旅中でも、自身が発する魔術によるシャワーで体を洗いはするものの、やはりゆっくり湯に浸かれるお風呂とは比較にならない。のぼせる寸前までず~っと浸かっていたい気分。
「お姉ちゃんっ」
「わ、わ、レインちゃん?」
頭を洗っていたレインも、それを終えて浴槽の中に入ってくる。ファインと向き合う位置にちゃぷりと足から浸かるとすぐ、ファインに真正面から抱きついてきた。突然のことに、ファインも夢から覚めて少し戸惑う。
「もう、どうしたの?」
「えへへ、なんでもないっ。でも、こうしていたいの」
ファインの開いた股の間に両膝を置き、両手をファインの両肩に乗せて首元に頬ずりしてくるレイン。何がしたいのかって、ファインにぴったりひっついて甘えたいだけだ。くすぐったくてファインも変な声が出そうになるけど、それ以上に甘えてくるレインが可愛くて、頭を撫でる仕草に自然と繋がる。お風呂は気持ちいい、レインは可愛い、ついでにくすぐったい。ファインの表情が蕩けまくっている。
「お姉ちゃん、本当にありがとう。私、お姉ちゃんに会えてよかったあっ」
しばらく前、ファインのことを警戒対象と見て距離を取っていた頃とは一転、レインはべったべたにファインになついたものである。そりゃあそうだ。命懸けで、自分をネブラ達から守り通してくれたファインとクラウドのことなんて、今やレインにとっては世界一大好きなお姉ちゃんとお兄ちゃんだ。控えめな自分の胸の前で、間近にファインを見上げて満面の笑みのレインが、ファインの心をてろんてろんに溶かしてしまう。
ああやばい、抱きしめたい。温かい湯の中で背筋がぞくぞくするぐらい、目の前のレインのことが可愛くて仕方ない。ひくつく笑顔で、優しくふんわり両腕でレインを包み込んで抱くファインだが、本音を言えばもっともっと強く抱きしめたい。多分、感情に任せるままの力で抱いたら、レインが苦しいと感じてしまうだろう。愛情表現からくるスキンシップの激しすぎる親友がいるファインなので、同じようなことは他人にはやらない。でも、かなり頑張っている。
「れ、レインちゃんの肌、すべすべですねぇ……綺麗で羨ましいですよ……」
とりあえず、適当な言葉を繕って煩悩を紛らわす。実際、この感想は当たらずとも遠からず。レインって、さらさらの髪も触り心地がいいけれど、毛穴ひとつ無いんじゃないかっていうその肌は、撫でてあげるとレインも喜ぶが触れる側も心地いい。
「すべすべ、かなぁ? ぬるぬる、じゃない?」
「ぬ、ぬるぬる、ですか? そうとも言う、のかな……?」
褒めたら喜んでくれるか、あるいは照れるかなと思っていた矢先、首をかしげて真顔で冷静な言葉を返してくるレインが少し意外。ふよ、と首をかしげた動きも超可愛いとか、その辺りの雑念は締め出すとして、確かに改めてレインの肌を撫でてみると、言われたとおりの感触の方が適切のような。
ひゃ、と裏返った声を短く漏らしたレインの反応で、あっという間に纏まりきらなかったファインの思考も現実に帰ってくる。指先が、軽くレインの脇腹を撫ぜたのだ。やばい、今私の手つきっていやらしくなかったかと焦りかけたファインだが、頬を染めて照れたように笑うレインは気にしていないようだ。
「私、なんだかそういう体質なんだって。汗が、あんまりべたべたしないんだ」
湯の中では、すぐに流れ落ちるものの汗が体から出続ける。勿論、今のレインの体は汗まみれだ。どうやら彼女の言うとおり、レインの汗は普通の人の汗とは違うらしく、べたつくよりもぬるつくらしい。
「体質、ですか?」
「うん。私、"らーな"っていう"えんしぇんと"なんだって。その血のせいなんだって」
そう言えばまあ、レインのあの実力や脚力って、普通の人間のそれじゃない。彼女がクラウドと同じで、何らかの"古き血を流す者"であることは、確かに想像がつく。ファインはその辺りには知識深くないから、ラーナと言われた部族名を聞いてもピンと来ないのだが。
「……お姉ちゃん、いや? 離れた方がいい?」
「えっ?」
ちょっとだけ、レインの表情が曇った。告白を受け、レインの体に流れる血っていうのはどういった種族のものだろうと想像したファインだが、表情が少し無表情に近付いていたようだ。それを、ぬるつく自分と肌を合わせることに抵抗を覚えられたと感じたか、甘えたい気持ちを捨てて離れようとするレインがいる。
「っ、わわ、お姉ちゃん?」
「~~~~っ♪」
言葉にするより行動で表れた。離れたりしなくていいよ、と、きゅうっとレインを抱きしめるファインは、受け入れて貰えたレインよりも幸せそう。不思議と、愛しさに対して力はそこまで加わらなかった。力には溢れているはずでも、か細いレインの体。壊すような力を加えられるわけがない。息の詰まらない最大限の力で、優しく抱きしめてくれるファインの顔の横、レインも幸せそうに笑わずにいられない。
「えへへ……大好きだよ、お姉ちゃん。ずうっとそばにいてくれたら、嬉しいなぁ」
「大事にしますっ。レインちゃん、と~っても可愛いですっ」
本当に、妹が出来た気分だ。何があっても守ってあげたくなる。見た目の可愛らしさに見惚れ、境遇を知って気の毒に想い、苦境から救ってあげようと思っていたあの頃とは全然違う感情だ。掛け値なく、無条件に、この子が困っていたら助けてあげようって既に思えるその感情って、家族が身内に抱く愛とさほど変わらない。
苦境を経て得たものがこの絆なら、乗り越えた今となっては最大の幸福とさえ言える。のぼせる前に湯船から出た二人だが、脱衣所で浴衣に身を包んで出て行く時も、自然と二人はどちらからともなく手を繋いでいた。
「クラウドさんもお疲れなんじゃないんですか? 預けてくれれば、洗いますよ?」
「いやー、勘弁。自分のぐらいは自分でさぁ」
浴衣に着替えたファインとクラウドは、宿の裏手で洗濯作業。一張羅で旅する二人は、旅中においては服も簡易に洗って済ませているが、宿に泊まれば浴衣があるので、普段着をがっつり洗う好機である。レインと自分の服を石鹸水に漬け、洗濯板で丁寧に洗うファインと向き合い、クラウドも自分の服を洗濯中だ。
ファインは昔から、よければクラウドさんのも洗いますよとしばしば言ってくるのだが、毎度クラウドは断っている。今日は一戦の後ということで、久しぶりにファインも改めて同じことを言ってみたのだが、やっぱり今回も同じ返答だった。下着も混じっているのに、女の子にそんなもの任せるのはクラウドも気が引けて引けて。仮にだがファインだって、お尻を包む布の洗濯を異性に任せるなんて嫌だろうに、その辺りは想像ついて欲しいなぁとクラウドも思っている。口にしたらスケベしてるようで、言い出せないのが歯がゆい。
「……昔っから思ってたけど、ファインってさ」
「何ですか?」
両者とも手を止めず、洗濯物に目線を落としたままの会話。最近になると、こうして互いにながらであっても世間話が出来るぐらいには、二人とも対話が自然化してきている。二人きりの旅になってからの直後など、何を話せばいいのかクラウドが一生懸命考えながら口を回していた頃とは、随分前進したものだ。
「家庭的だよな」
「ん、そうですか?」
「料理も出来るし、掃除する時も丁寧だし、生活力もあるじゃん。いいお嫁さんになるタイプだと思うけどな」
「あら嬉しい。ふふふ、ありがとうございます」
止めずに洗濯するファインの手つきが、どことなく少し柔らかくなる。表情もふわつくほど嬉しそう。ファインも年頃の女の子、素敵なお嫁さんに憧れる年の頃だし、そういう褒め言葉は彼女を喜ばせるつぼだ。
「でも、実際にお嫁さんになれる日はまだまだ先ですねぇ。憧れはしますけど」
「自分でそう決め付けちゃうのは勿体ないんじゃないか?」
「だって貰ってくれる人がいないとお嫁さんにはなれませんもの。私ほら、こんなですし。流石になかなか、私のこと受け入れてくれる人はいないと思いますよ」
こんな、というのは混血児であることを指しているのだろう。確かにこの時代、混血種と付き合いをもうけようとする者ですらかなりの少数派だ。天人は混血種のことは大嫌いだし、地人も混血種と付き合いがあると天人様に冷たく見られる。混血種同士の愛が最もあり得そう、と言っても、そもそも混血の者の絶対数がかなり少ない。
「あの……で、出来れば笑わないで下さいね?」
「うん?」
「そのぉ……諦めては、いないんですよ。炊事洗濯、料理だって、昔よりは出来るようになったとは思っているんですけど……それも、いつかは素敵な旦那様に出会えた時、恥ずかしくないようになぁって思って練習したことなので……出会いがあれば、いいなぁとは、ずっと思ってるんですけど……」
さて、どこに笑う場所があったのかクラウドにはさっぱり。自嘲するような苦笑いを伏せたまま、洗濯する手を動かし続けるファインだが、まさか混血児なのに嫁入りを諦めていないことを笑われるとでも思っているのだろうか。だとしたら見損なわないで欲しいとさえクラウドは思うのだが、混血児のファインが周囲に何を言われて育ったのか計り知れない一面もあるため、クラウドもそういった返しを口にはしない。想像力で補って、自己主張を封じるクラウドって、見えにくい優しさをやっぱり持っている。
「ですから、その……ね? いつか、誰か、私を貰ってくれる人がいたらいいなぁとは……思って、ます。はい」
ずっと洗濯物を視界の真ん中に置いていたファインだが、ちらちら何度か目線だけ、はにかむようにクラウドの顔へと持ち上げる。笑われてないかな、と不安げなファインと見受けたクラウドは、ふぅと小さく息をつく。大丈夫だよ、いつか見つかるはずだから、って笑いながら言ってあげたいけど、笑わないで欲しいって言われているから、敢えて無表情に近づける。
「ファインなら大丈夫だよ。必ずいつか、好きになってくれる人が見つかる。あんまり人のことにこういう言葉使わないけど、俺これだけは"自信"持って言えるからさ」
素直からそう思えるからこそ、自然な口をついてクラウドはそう宣言できた。心からの本音だったが、あまり自分に自信のなさげなファインに、上手く伝えられただろうかってクラウドも少し不安。彼も彼で、目線を手元の洗濯物に落としがちだが、おずおずとファインの表情をうかがうかのように目線を持ち上げる。
「……ふふ、クラウドさんはやっぱり優しいですね。ありがとうございます」
駄目だったかな、と、クラウド目線でも少し寂しげなファインの顔色が見えた。笑顔を返してはくれたものの、クラウドの言葉に心から満足したような顔じゃない。そんなファインを見て、機会があれば何度でも同じことを言って、今のが本当のことだってわかるまで訴えてやろうと思うクラウドは、ファインの言うとおり優しいのだろう。そんな顔しないで自分に自信のあるファインになって欲しいと、見返りなしに心から思えるのがクラウドなんだから。
自分が思っている以上に、ファインがクラウドに心を許していることに気付けない辺り、ある意味ではまだまだ思慮が届ききっていないのかもしれないけど。心の奥底にあるものを笑顔の奥に隠し、意気地なしの自分に溜め息をつくファインの姿を、クラウドには自信のない女の子の哀愁だとしか感じ取れなかった。




