第148話 ~この日最大の失策~
「ヘイ! ザーム君!」
殺伐とした戦場に舞い込む、場違いなイントネーションで割り込んできた一声は、目の前のザームに集中しなくてはならないクラウドに見上げさせる。声の主、ネブラはザーム上方の木の枝に舞い降り、ぶぶぶと騒がしい蜂の羽を止める。クラウドを睨みつけたままのザームは、上官ネブラの位置を音と気配で察しつつ、返事もなければ見上げもしない。難敵クラウドから目を切ることが出来ないからだ。
「手を焼いているようだね!」
「そりゃもうね……!」
この一言だけで、ネブラには今のザームの状況がすべて読み取れる。荒っぽく見えて目上への態度がしっかりしているザームが、自分を見上げず早口で返答してくる時点で、よほどクラウドから目と意識を逸らしたくないとわかるからだ。"アトモスの遺志"の中でも超一級の実力者であるザームが、多数の兵を従えて囲ってなお、クラウドを軽視していないこの態度。ネブラにも、クラウドがいかに厄介なのか想像で補える。
対するクラウドも、目に見えて状況が悪化したことに、構えを保ちつつ歪む表情を抑えられない。遠巻きに木陰や樹上から、自分をいつでも狙える位置に、敵が密集し始めているのはわかっている。それでも動くに動けない。一対一でも手こずるザームを目の前にして、その上空にはザームと同等かそれ以上であろう、空を舞う力を持つ存在という状況だ。掛け声もなく、動かないクラウドを改めて包囲する陣形を固めていく敵の動きを感知しつつも、下手に身動きとれないクラウドの額を嫌な汗がつたう。
「――クラウド君と言うそうだね! 少々、話を聞いて貰えるかな!」
「っ……」
肌全体で周囲の気配を感じ取りつつ、目線の中心にザームを捉えるクラウドの意識に、語りかけてくるネブラの声はそれだけでノイズだ。なんで俺の名前を知って、という想いも先立つが、ファインが何度もクラウドの名を叫んでいたからだという答えには到達できない。そんなことを考えていちいち結論付ける余裕が、今のクラウドにあるわけがない。
「君の相棒はもう戦える状態にない! 君も今やたった一人! このまま戦い続けて勝ち目はあると思うかい!」
ずっとクラウドの胸の内に巣食い、しかし目を逸らしていた苦しさを掘り起こす言葉が、ネブラの口から発せられる。果たしてこの苦境が足掻いて切り抜けられるものなのか、考えても仕方ないから戦い続けることに傾倒し、その怖い疑問を打ち払っていたクラウドにとって、それを突きつけられるのは相当な胸への負担になる。
「僕達の狙いはあくまでレインだけだ! 何も彼女を殺そうというつもりでもない! 君達が戦うことをやめ、レインをこちらに引き渡してくれるのなら、もう危害は加えないと約束しよう!」
ザームこそクラウドから目線を逸らさなかったものの、クラウドを包囲する者達の数名は、思わずネブラの声をする方を向いてしまった。まさか、これだけ仲間をやられたのに、こいつらに落とし前もつけさせずに妥協案を打つんですかと。ファインやクラウドが迎撃し、戦闘不能にしてきた連中は、彼らにとっては身内なのだ。それを叩き伏せられた身内の痛みにも報いぬまま、引き下がることになど納得できない者が殆どだろう。
「ザーム君も理解できるはずだな!? レインの確保は優先事項だが、それに伴うこれ以上の兵力の消耗を、ここで重ねるわけにはいかない! 情を抑え、ここで手打ちとするのが賢明だとね!」
軍事に携わる大人なら、この理屈は理解出来なくてはならない。このまま力任せにクラウドを押し潰し、彼を殺して勝利、レインを奪還したとしても、それまでにまた何人の兵が戦闘不能に追い込まれるか。アトモスの遺志にとって、戦いはこの日ですべてではない。来たるべき、近き天人達との決戦の日に向けて、こんな所で戦力を削がれている場合ではないのは、誰もが意識の隅ではわかっていることだ。
「……そうっすね」
クラウドからすれば、これだけ自分達を攻撃しておいて今になって、降伏すれば見逃してやるなんて妙に虫のいい話、すぐには信用できなかっただろう。ネブラの言葉は、そんなクラウドが抱く当然の疑念に対する解答も兼ねている。このまま降伏してレインを差し出すなら、クラウドの命だけは見逃すという向こうの提案にも、信憑性自体は感じることが出来た。
「どうかな、クラウド君! 賢明を選ぶなら、ここで降伏することを推奨するが!」
「……ふざけんなっ」
だからって、そんな要求呑み込んでたまるものか。命を張る覚悟なんか最初から固めて、レインを守るためにここまでやってきたのだ。今さらそれを諦めて、レインを譲って生き延びたとして、その先にどうやって胸を張れる自分がいるというのだ。降伏を勧めたネブラの言葉に、張りのない声を返したのは、今の苦境が彼の精神を圧迫しているからだ。それでも即答するクラウドの強情さには、ネブラも軽く眉をひそめる。
「君の友人もじきに命を落とすはずだろう! たった一人でこの状況を切り抜け、生き延びられると本当に思っているのか!」
「っ、黙れっ! あいつがお前達なんかに負けるかあっ!」
自信も根拠もない虚勢なのは、クラウド自身も自覚していることで、ネブラ達の目には余計によくわかる。クラウドが意固地になるのは想定済み、その上で揺さぶることが無意味でないのも、ネブラはしっかり計算しているのだ。がむしゃらに本気で戦うクラウドの心をわずかでも折ることが出来るなら、この交渉が纏まらなくとも、今までより有利にクラウドを攻め落とせる可能性は高まる。精神攻撃は、見た目以上に効果を及ぼすものだと、歴戦のネブラはよく知っている。
「お前らがいくら束になっても、ファインは……」
「彼女の体にはもう致死量の毒が回っている! 今は動けても、やがて息絶える! 君の言っていることは状況を把握していないだけの妄言だ!」
クラウドの反論も途中で途絶える、彼にとってはあまりにも衝撃的な宣告。クラウドを前に構えていたザームも、上で唱えられたネブラの言葉に、えげつねえことしやがる人だと内心感じている。彼をよく知るザームには、ネブラが体内で練成する毒が、どれほど強力で残酷なものであるかも既知である。
クラウドの脳裏に蘇る、別れ間際のファインの顔色。血の気のなかったあの顔色の記憶は、ネブラの言葉が事実であると、辻褄を合わせるように物語ってくる。それに伴い、真実味を帯びてくる、毒を受けたファインはやがて息絶えるというネブラの言葉が、ほんの一瞬ながらクラウドの頭を真っ白にしたのも本当だ。
クラウドの瞳の奥に、絶望が根差したことを、彼の目を見下ろすネブラはほぼほぼ確信することが出来た。膝をついてその場で崩れ落ちるクラウドを極端な意味で想定し、さほどでなくとも、今の宣言でクラウドの心が折れたことをネブラが感じ取る。ほんの一瞬、ショックのあまり目から光が失せかけたクラウドの表情は、そう読み取れて然るべきものだったのだ。
「お前……」
「君の力でこの状況を切り抜けることは不可能だ! だから、ここ……」
最後の説得を言い放とうとしたネブラの言葉が、途中で途絶えてしまったのはなぜか。ずっとザームを視界の真ん中に捉えていたクラウドが、首を上げてネブラを凝視した瞬間、彼の肌がぞくりと粟立ったからだ。薄暗い森の中でも、見逃しようのない光を発したかの如く、ぎらりと光ったクラウドの瞳。それは何十年も戦士として戦い抜いてきたネブラの度胸にさえ、非常警報を鳴らすほどの血走りを含んでいる。
ゆら、と、構えていたクラウドの体が、ふらつくように前に傾いた。その挙動が、どれほどネブラの神経をびりりと痺れさせただろう。まずい、とネブラが羽を震わせたその瞬間のこと、この戦場下にてクラウドから目を切らなかった者達全員の視界から、クラウドが手品のように姿を消していた。
彼の動きを視認できたのはたった二人だけ。地上のザームには、地を蹴ったクラウドの姿が一瞬消えたように見え、彼の残した残影の先を見上げた瞬間、そこにクラウドが突然現れたように見えた。それはネブラも同じことだ。ほんの一瞬前まで地上にいたはずのクラウドが、たった一蹴りで樹上の自分の眼前に現れた亜光速には、ネブラも咄嗟に剣を降り抜く対処しか出来ない。
「むぅ……っ!」
攻防一体、クラウドの顔面を真っ二つにするはずだった迎撃と、クラウドの突き出した拳が激突する。それはあまりのパワーでネブラを押し込み、激突寸前に体をひねっていたネブラは、衝撃を受けて体を回転させて吹っ飛ばされた。まるで突撃してきた雄牛に、人が轢き飛ばされるような光景には、見届けていたザームもぞっとしていただろう。
「っ……怒らせたか……!」
ぎゅるぎゅる体を回されつつ、樹木の幹に叩きつけられる寸前に背の羽を震わせて体勢を整えたネブラは、足の裏で幹を捉えて着地に近い形を作った。一方、ネブラを殴り飛ばしたクラウドも軌道を乱すが、やがて飛ぶ方向の木の幹を蹴ったかと思えば、何度も近場の樹に飛び移るようにして跳ね回り、高い位置から足を痛めぬ形で地上に降り立ってくる。
「――はっ!」
上空の自分を見上げてくるクラウドと目が合う直前、愛剣グラディウスを振るったネブラの剣先から、風の刃がクラウドに向かった。単調ながらも速い、ノーモーションで放つ先手の迎撃は、クラウドがネブラを睨んだその瞬間には既に、クラウドの眼前にまで迫っている。しかし、直撃の瞬間にまた消えたクラウドの動きは、風の刃が地面に突き刺さるだけの結果を生み出してしまう。
横っ飛びに風の刃をかわしたクラウドが、またも樹を蹴り自分へと矢のように飛来していたことを、攻撃直後のネブラも見失う寸前だった。風の刃を放ったその瞬間から、1秒も経たずして。自らの側面下方から飛来したクラウドという凶弾を、剣を盾代わりに構えたネブラが殴り飛ばされていく。
森林上空高くまで吹き飛ばされそうな局面、ぐるんと羽を操って地上へと進行方向を翻すネブラの動きが、まさか我らの将がやられたかと肝を冷やす部下に、誤解させない結果を生む。しかし、敵陣の真ん中地上に再び着地したクラウドの上空、ネブラの表情は獅子に出くわしたかのように苦いもの。これまでずっと、クラウドの強さを強く警戒していた者達が、今までの認識では不充分だったかと一瞬で考えを改めるほど、今のクラウドが為した二連の猛攻は凄まじい。
「どうするよ、兄さん……! もう交渉が通じる目じゃねえぞ……!」
「致し方あるまい……! 迎え撃つしかない!」
クラウドの心をへし折るために発した、彼にとって唯一の味方の陥落。形は違うが、それはクラウドの精神状態を大きく書き換えることに成功している。地上に降り立ち、今は伏せられているクラウドの目が、血の色の如く赤く燃え立つ怒りに満ちていることは想像に難くない。
それはそれで成功なのだ。一瞬の誤りが命取りとなる戦場において、感情の抑制を失って思考力を失うことは死に直結する。怒りによって、本来以上の力が引き出される事例も確かにある。それ以上に、そうなった者が敵を本来以上に討ち果たすことがあっても、その末にあるのはその者の死でしかないことを、歴戦のネブラは経験上から知っている。クラウドが怒りで我を忘れるというのであれば、ネブラ達にとって勝利の可能性が高まるのは事実である。
敢えてのプラス思考ではなく、冷静で客観的な経験則からそう確信するネブラ。そんな彼をして、顔を上げたクラウドのぎらりとした瞳は、まるで何度も死の間際まで追い詰められた戦いを思い返すほど凄まじい。まるで喉元に尖った爪先を突き立ててくるような気迫、それを眼差しだけで伝えるクラウドの目に宿るのは、怒りと呼ぶにも甘すぎる、憎悪と呼ぶべき激情だ。
「許さねぇ……!」
「全軍、構えろ! 凶獣狩りだ!」
ファインの死を突きつけられたクラウドの感情は、彼の運命に何をもたらすのか。確かな真実は一つだけ。戦場で感情に左右され、判断力を失うことは傷を負う可能性を高め、その者の寿命を縮める結果に繋がる。それはいかなる戦場においても言える、絶対に揺らがない真理である。
それを引き起こしたのはネブラであり、間違いなく妙手であったはずなのだ。彼が自身の行動を悔い、これがこの日最大の失策であったと思い知るのは、この後すぐのことである。




