第147話 ~死へのカウントダウン~
「息の長い奴だ……! まだあんなスピードを保てるのか……!」
「問題ない、最後の力を振り絞っているだけだ! 冷静に追い詰めろ!」
ここに来て今日最速、死に物狂いの速度で滑空するファインのスピードは、生存を切望する彼女の精神力が叶える賜物だ。だが、それを追う"アトモスの遺志"もまた、同じだけ必死。何人もの仲間をやられてまで、ファインを追い詰めてきたのだ。ここまで来てあれの逃亡を許したら、傷ついた仲間達の犠牲も無駄になってしまう。あらゆる方向、高さから、血眼の敵が群がってくる構図、ファインもスピード任せだけで、この包囲網を切り抜けることは出来ない。
「うぅ……はあっ、はあっ……!」
外からの攻めがただでさえ厳しい状況下、ファインの内面にも危険な死因がどんどん膨らんでくる。目がかすむ、意識が遠のく、体がふらつき樹にぶつかりそうになる。体内に送り込まれた毒を追い出す魔力は、飛行魔力と平行して今も練り上げ続けている。腕に自分で刻んだ傷口からは、毒素と共に血がだらだらと溢れ続けており、既にファインの服の袖は内側から赤黒くなっている。毒を抜き出すための多量の失血、それもまたファインの意識をさまよわせる要素であり、顔色を蒼白に染めるファインは、既に目も虚ろ。
「今だ! 撃てえっ!」
「ぅ……」
射手側にとってベストの座標にファインが侵入した瞬間、四方八方からファインを狙い済ました矢と岩石の集中砲火。逃れる道筋を一瞬で見極め、針の穴を通すようにベストの逃げ道を選ばねば終わり、そんな局面だ。
「死に、たく……なぃ……!」
もはや半泣きに近い顔で、当然を口にするほど追い詰められて。ある意味で、彼女の集中力は過去最も研ぎ澄まされている。存在する二つの選択肢、右上に上昇するか左に旋回飛行するか。二つの逃げ道を一瞬で頭に思い浮かべたのとほぼ同時、左に行けば樹にぶつかるという直感を信じ、残された選択肢へと翼をはためかせるファインが、敵の強襲から自らの命を救う。ほんの一瞬前にファインがいた場所を中心に、全包囲から飛来した敵の凶弾が交錯し、ファインを追う形で後ろから迫る矢の1本が、彼女の耳のすぐそばをかすめて飛んでいく。あと少しでも軌道が右にずれていたら、頭に後ろから刃の着弾を受けていただろう。
「ここまでだ……!」
「ぁ……」
だが、そこも行き止まり。ファインが見つけた最後の生存ルートに先回りしていた、背中に羽虫めいた翼を背負う敵兵がいる。ネブラと同じく何らかのエンシェントであり、空中部隊の一員に属するその兵が、剣を構えてファインに急接近。もう、どんな方向に逃げようとも、彼の刃から逃れる道筋は無い。
考える暇もなく、血まみれの両腕で頭を抱え込んだファインが、飛ぶための姿勢も放棄して小さくなる。同時に彼女が念じた魔力は、彼女の全身に薄い岩石の層を瞬時に張り、刃を通さぬ急造の鎧を構築。ここで決めると意気込んだ敵兵の剣が、あと少しでファインの肌を切断しようとした瞬間、頑丈な岩石に剣をぶつける感触が剣の持ち主の手に伝わったことは、少なからず想定外のことだろう。
「っ、つ……! 逃が……」
「わかってる!」
逃がすな、の声を当の兵が発するより先、すでに動いていたその仲間。斬られこそしなかったものの、切断を叶えられなかった剣に力強く押されたファインは、一気に吹っ飛ばされていた。彼女が飛ばされた方向に素早く周りこむ、もう一人の空中兵は、自ら目がけての方向に飛来するファインを、その手斧で迎え撃つ構えを既に完成させている。
「え……っ、風爆……!」
かすれた声を絞り出しながら、胸の前で近くした掌の間に、一瞬で魔力を凝縮。それはファインの体が、待ち受ける敵の刃に触れられるまさに直前に炸裂し、熱を伴わない凄まじい爆風を生み出した。特大の風船が破裂したような爆裂音は、周囲の敵兵すべての肩が跳ねるほどの轟音で、それによって生じた爆風はファインを上空に吹っ飛ばし、さらにはファインを切り伏せようとしていた空中兵をも押し返す。
吹っ飛ばされた敵が地上へと叩き落とされる一方、ファインもまた無防備な姿勢、意図した道筋ではなく爆風任せの軌道で高所へと飛んでいく。自分がどうなるかはファインもわかっている。体を丸めて首を引き、背中に風と水の緩衝魔力を全力で練り上げて。
「えぁ゛っ……か……!」
乱立する木々の一本が突き出す、太い枝の一本に背中から叩きつけられるファイン。腰を打つより後頭部を打つより遥かにまし、しかし体の芯がへし折られたかのような衝撃がファインを貫き、ともすればその一瞬でファインは意識を失って、力なく地上へと落ちていく寸前だっただろう。
嫌だ嫌だ嫌だ、こんなところで死にたくなんかない。血が出るぐらい唇を噛み締め、涙が溢れる目をぎゅっと閉じて踏ん張り、なんとか意識を現世に繋ぎ留めるファイン。くぐもったうめき声を口の端から漏らし、木から体が離れた瞬間、風の翼を再び背負う。クラウドがいる方向は今でも忘れていない。折れかけた体を強引にひねり、それによって全身を駆け巡る激痛に息を詰まらせながらも、ファインは空を駆ける速度を翼に叶えさせる。体は空を進んでいく。急激な加速度を得てだ。
爆風に吹っ飛ばされて突然の軌道変更をしたファインを、アトモスの遺志達も一瞬見失ったが、あそこだ、と叫んだ第一発見者の指差す方向には、既に速度に乗ったファインの後ろ姿がある。明らかに今までほどのスピードは出ていないものの、それでも逃げ延びようとする姿を失わない彼女を、無数の男達が追跡を再開する。
「信じられねぇ……! まだ飛んでやがる……!」
「どうせ虫の息だ! 苦しいだろうよ、早く楽にしてやれ!」
徹底的に自分達の邪魔しようとするファインのことが、鬱陶しくて仕方なかった者達も、ここまで来ると敬意に近いものすら抱き始める。たった一人でこれだけの包囲網から必死に逃げ、戦い、もはや目に見えて中身までぼろぼろの体で、それでも諦めない。ネブラでなくても何人かが思い始めている頃だ。あれが敵でなく、自分達の味方であったなら、どんなに心強い奴だっただろうって。
「あと……あと、すこし……」
「狙い済まさなくていい、撃てっ、撃てえっ! 回避を強いるだけでも充分な効果に繋がる!」
「躊躇うなよお前達! わかってるな!?」
希望にすがる言葉を、死にかけの声でぼそぼそ漏らす、目に光を失ったファイン。そんな彼女の顔色も、速く滑空しつつもふらつく姿勢から、追う側にだって想像がつくのだ。どうせ生かして帰す選択肢などない、だったら一秒でも早くとどめを刺して、苦しみから解放してやれと、アトモスの遺志も歪んだ慈悲を共有
し始めている。それが前後不覚のファインへの追撃の矢、岩石弾丸となって、次々に下方や後方から飛来し、ファインの命を摘み上げようとする。
「クラウド……さぁん、っ……!」
どれだけ追い詰められたって、今の彼女にとっての唯一の希望、彼の居場所だけは絶対に意識から手放さない。やや乱雑になり始め、数を増やし始めた敵の狙撃を、ファインももはや直感頼りに体を揺らし、旋回させ、当たらない形に持っていく。はっきり言っていつ当てられてもおかしくない。確実な回避なんて今のコンディションで出来る状態じゃない。前方の木々さえ、ぐにゃつく視界では近付くまではっきりと認識することが出来ず、気流に呑まれる紙飛行機のように滅茶苦茶な軌道で飛ぶ。
捗らない前進が、ファインを包囲する敵陣営に追いつかせる。だけど、本当にあと少しの所まで来ているはずなのだ。最後のとどめだ、とばかりに射手の数々が、術士の群れが構えたその瞬間、ファインも最後の勝負に出る。お腹を下にして進行方向に顔を上げていた状態から、体を折り曲げ後方に両の掌を突き出す形に丸まって。放つ魔術は、この日一度見せたもの。だが、今度は緊急回避のためではなく、狙い済ました一撃だ。
「風、爆っ……!」
「行けえっ!」
ファインの詠唱、集中砲火の号令がほぼ同時。雄々しい指令にかき消されながらも、ファインの発した言葉は身を結び、熱を伴わない爆裂が彼女の掌の先で発生する。それは彼女を一気に加速させ、進みたかった方向へと送り出し、無数の魔術と矢の群がるエリアから、ファインを勢いよく追放した。目が回るほど体をぎゅるぎゅる回転させながら吹っ飛びつつも、なんとか飛行姿勢を取り戻した瞬間、目の前にあった樹の幹も素早く回避し、ファインが想い人への道筋を敷きなぞる。もう、すぐそこにいる。
「っ……ああああっ……!」
「!?」
クラウドさんと呼ぶ言葉も大声で発せないファインが、自分がそばにいることを知らせるべく発した叫び声。男達の野太い声が響き渡る森の中、高い悲鳴は浮いたもので、クラウドの耳にもよく届いた。見上げたクラウドの視界の端、ふらふらと体を傾かせながら飛ぶファインの姿が映った瞬間には、クラウドも今の彼女がいかにまずい状況なのか、直感的に悟ることが出来た。
しかしクラウドとて安全な状況というわけではない。ファインに意識を取られて一瞬動きが鈍った、走る中のクラウド目がけ、木陰から飛び出したザームが長い棒を振り抜いてきた。あわやのところで跳躍して回避、樹の幹へと自らの体を発射し、木を蹴り跳んで、またも別の樹の幹を蹴り跳び、三角跳びを2度挟んで高所へと移動するクラウドには、ザームも魔術による追撃が追いつかない。レインを抱えてあれだ。高すぎるクラウドの身体能力には、ザームも地団駄踏みたくなる。
「ファイン、ファインっ……! こっちだ、こっち!」
「クラウド、さん……」
滑空するファインに並走するかのように、レインを抱えたまま樹上を飛び移ってついてくるクラウドに、やっと会えたとファインが小さく微笑んだ。ほんのしばらく会わなかっただけで、クラウドもぞっとするほどファインの顔色が変わっている。死相と言っても差し支えない、今わの際の微笑みに近い表情を力なく浮かべるファインには、クラウドも背筋が凍りそうになる。
ふらふらとクラウドの方に近付いてきたファインと交錯する寸前、クラウドはレインを預けていいものか迷った。それでも、差し出すことを決めた。ファインがそうすべきと判断して近付いたなら、そうすべきだと信じたからだ。枝を蹴り、跳ぶ中でファインと急接近した1秒半、差し出したレインをファインが腕の中に受け止めたところで、クラウドはレインを手放した。ほんの僅かなこの時間で、動きも止めずにレインを預けるコンビネーションは、今日の中でも最も流麗、一芸とさえ評ぜられるほど綺麗に決まっていた。
「ぅあ……?」
「ファイン!?」
唯一の計算外。ファインにはその自覚がなく、クラウドは一瞬頭をかすめた程度でありながら、悪い予感が的中した形。すでに力尽きる寸前であったファインの腕に、女の子の体ひとつを抱いて飛ぶ力は残っておらず、レインの全体重を受け取った瞬間から、放物線を描いてファインの体が沈んでいく。飛べないクラウドにはそれを追うことが出来ず、自分からどんどん離れていくファインの姿にぞっとすることしか出来ない。
慌てて樹上から飛び降りて、ファインに近付こうとするクラウドだが時既に遅し。あっという間に降下してクラウドから離れてしまったファインは、落下予測地点にクラウドが立ち返った瞬間には、もう見失った後だ。クラウドにはファインを探す魔術を行使する力が無い。きっとここに落ちたはずだと思った場所に、彼女がいないということは、恐らく落ちながらも必死の魔力で飛翔を取り戻し、さらに動いたんだろうと信じたい。
あの、もう明らかに使い物にならない体で? あんなファインがレインを抱えたまま、敵に捕まったら?
「パスコンプリート、ってか……!?」
そんなクラウドに間もなく追いつき、赤々と燃える棒を振り抜いてくるザームの攻撃を、クラウドは膝当てに包まれた脚の部分で蹴り上げる。それでも膝が焼けるように熱くなる熱が伝わる。表情をしかめるクラウドの頭上から、すぐさま頭を焼き割ろうと長い棒を振り下ろすザームの追撃が続き、クラウドは後方に跳んで回避するしかない。
もはや煽る言葉もなく、さあもう一度殺し合おうぜと睨みつけてくるザームと、離れてそれに構えざるを得ないクラウド。砂時計の砂が落ちる。誰が見ても、もはや戦えない状態になってしまったファインと引き離され、彼女の死を痛切に予感してしまったクラウドは、目の前のザームとの戦いに集中できる頭ですらなくなっていた。




