第146話 ~二重三重四重苦~
「……ん?」
ネブラにはもう、やるべきことがなかった。ファインの体内に注入した毒は、やがてファインの息を静かに引き取らせ、二度と自分達に逆らうことの出来ない屍に変えるだろう。つまりファインは死んだも同然。胸に刺された針を介し、毒液を体内に流し込まれる異物感に茫然自失となったファインの絶望感は、彼女の後ろで顔色をうかがえないネブラにも感じ取れたものだ。
そんなファインの体内に、ふと強い魔力が脈動し始めた気配がある。ネブラは天人、天属性の魔力すなわち、風か水か雷か光の魔力には敏感な方だ。そのうち一色の魔力が、密着したファインの体内でどんどん膨らんでいくことに、彼女を捕えているネブラが顔を引きつらせる。
「……ねえ、君? まさかとは思うけど……」
「…………っ!」
思い立ったら即行動、恐る恐る尋ねかけたネブラの声にも耳を貸さず、体内に練り上げた雷の魔力を一気に発動させるファイン。胸に刺された針と毒、それに一度頭を真っ白にしながらも、我に返った瞬間から最速の魔力を研ぎ澄ませた彼女の魔力は、一気にファインの全身を駆け抜けた。
「あばバばばババばバァーーーーーっ!?」
「え゛ああ……っ……!」
空高くで凄まじい光を放つ二人の体。電撃を司る雷の魔力を自らに流したファインが、自分自身の体に超高圧の電流を流したのだ。それは当然、ファイン自身の肉体をも激しく痛めつける行為であり、しかし密着するファインの体から同等の被電を共有するネブラも、裏返った悲鳴を上げて身を反らせる。
完全な自爆電撃を発しながら、ファインは勢いよく頭を振り上げた。彼女の後頭部がネブラの顔面にぶっ刺さり、電撃を流されながら顔面への痛烈打を受けたネブラは、とうとうその腕から力を失った。そんなネブラの腕から、糸の切れた人形のようにずり落ちたファインが、力なく地上へ向けて真っ逆さまに落ちていく。
「ぶっ、ぐ……な、な゛んて子だ……!」
頭突きで打ち抜かれた鼻を押さえ、頭をよろめかせながらも羽を稼動させるネブラ。なんとか空の上に身を保ち、落ちていくファインを見送る形をキープ。頭を下にして落ちていくファインが、かろうじて翼を広げた姿も視認できた。しかし、木々の中に紛れて消えてしまったファインを見失い、ネブラも小さく舌打ち
だ。陽気あるいは冷静な彼にしては、極めて珍しいリアクションである。
高圧電流を流された体は節々が痛み、空中に浮いたままで関節を動かしてみるネブラ。軋むが、戦闘に影響するほどのダメージではなさそうだ。捕えたファインを逃がしたのは失態だが、現時点ではそう致命的な反撃を受けた形ではない。
「戦いは、これからだということか……!」
客観的な視点で見れば、今のファインは恐るるに足らない存在であるはず。毒は流した、今の自爆電撃で彼女の体もずたずただろうし、部下に任せても上手く狩ってくれると思う。いかに彼女が手強い敵であっても、これだけ何重にも致命打を浴びせた形になれば、もっと冒険しない戦い方にシフトしていい頃である。
それでもネブラは急降下し、ファインが消えた森の中へと舞い戻っていく。素早くだ。いかにこれほど順風の戦況であろうとも、断じて彼はファインを侮らない。油断して電撃をくらわされた数秒前があるのに、見た目や状況に騙されて、ファインを見下していては愚の骨頂だ。強き戦人は戦いの中で学ぶ姿勢を、年を重ねようとも決して失わない。
「うっ、あ……んぐっ……!」
小さな枝と、無数の葉、がさがさばきばき音を立て、木々の先端を我が身で破壊しながら落下していくファイン。開いた翼で体を操るが、下方の障害物を回避する動きが上手く叶えられない。自分の電撃で痛めつけた体も痺れて動かず、減速と僅かな軌道修正を繰り返すだけして、ファインは地上へ落ちていく。
頭を下にして落ちていく中、土や石がいよいよ近付いてきた光景は、頭から地面に激突して死ぬ自分を連想する恐ろしいもの。止まってお願いと翼の魔力を全開にしたファインが、一気に自分の落下速度を抑制し、地面到達寸前にようやっと、速度をゼロに近づけることが出来た。
「あぐ、ぅ……!」
体を回して半身になり、地面に叩きつけられたファインは、はずんだ末にうつぶせの形に転がり、口の中のものを全部吐き出した。空気も、唾液も、胃からせり上がった液も。骨が折れるような激突ではない、それぐらいには減速できたものの、やはりダメージは大きいのだ。電撃の後遺症か、びくびく痙攣する体は中々言うことを聞いてくれず、両肘を地面に着いてお尻を上げた姿勢から、ファインは中々立ち上がれない。
じっとしていたら殺されてしまう。どうやら幸運にも、そう敵の目につかない位置に落ちたようだが、今の状態で敵に見つかったら終わりだ。ちょっと体を動かしただけでも激しく痛む体、ファインは素直な立ち方を諦めて、一度どしゃりと体を崩れ落ちさせる。そのまま湿った土の上を、土まみれになりながら転がり、一本の木に手をかけて、柱にすがりつくような姿勢で立ち上がる。
大きな木に背中を預け、息を整えるファイン。魔力を練り上げ、自分の体にあらゆる属性の治癒魔術をかける。自らの電撃で傷ついた全身に、木属性で生命力を与えて自分の言うことを聞く体にしようとする。体を動かすたびに伴う痛みも、風の治癒魔術で以って体外に逃がそうとする。
「ぅあ……っ!? はっ……はあっ……!?」
そして何よりファインを苦しめるのは、彼女の体を巡る毒。今、一瞬目の前がぐにゃりと曲がり、気を失って倒れる寸前だった。同時に伴う、眠気にも近い、自分を失神の闇に追い込もうとするまどろみも、毒が作用しファインをそうさせようとする一因だ。これだけ全身痛いのに、眠くなったりするわけがない。
「だ、駄目……ま、まずは……抜かなきゃ……」
震える指先、右手の人差し指を、同じ手の親指と中指でぎゅっと挟み込む。その人差し指を、うつろな目で見る自分の左手に近づける。そして、風の魔力を人差し指の先から発動させた瞬間、指先に纏われた鋭い風の旋風が、小さくファインの左腕の一点を傷つける。加減を誤り、少し深い傷になってしまい、すぐにだらだらと血が溢れ始めるが、それもファインの中では計算済み。右の腕にも同じ事をし、血の溢れる切り傷を作る。
息を止めるほど強く念じ、体内に流れる異物、毒を体外に流すための魔力を、ファインが我が身全体に流す。水の治癒魔力はそうしたはたらきを持つのだ。自然にファインの体を巡る血が、彼女の魔力に呼応して、毒を開いた傷口に送り込むはたらきを為す。ぎゅうっと目を閉じ、毒を抜くための魔力を全力で練り上げるファインの腕からは、とめどなくだらだらと血が流れ続ける。
この時ばかりは、追っ手のことも意識せず。15秒ほどそうし続けたファインだが、またも意識が吹っ飛びそうになって体が傾く。慌てて片足持ち直して踏み止まらせるが、ちょうどそれが、抜ける限り毒を抜ききったタイミングと一致している。
「あぁ、ぅ……や、やっぱり、全部は……」
目の前の光景が、ちかちかしてぐにゃつくばかりで、色も正しく認識できそうにない。流れる血に乗せ、いくらかの毒を抜くことは出来たはずだが、やはりファインの体に深く浸透してしまった毒の殆どは、こんな応急処置では抜ききれない。何もしないでいるよりは遥かにましな形になっているものの、視界を歪ませ、気絶へ追い込むまどろみを伴う毒性は、まともに立っていることさえファインに難しくさせている。
ネブラは言っていた、人を殺める毒をも作れると。残念だがさよならだ、とも。これが自分を殺すための毒だとしたら、きっと気を失ってしまったその時が、二度と意識を取り戻すことのない最期なのだろう。死を目の前にしてぞっとしたファインは、見上げた顔を両手でぱちんと叩き、強く意識を保とうとする。電撃によって今もびしばし痛む全身にも、優しくしてあげる余裕なんかない。
「クラウドさん……レイン、ちゃん……!」
背中で木の幹を押し、ふらりと前に傾いて立つ形を整えたファインは、乾坤一擲の想いで背中に風の翼を再び生じさせる。じっとしている暇などない。よろよろと、酔っ払いのようなふらふらの足取りで前に駆けながら、弱々しく跳躍した彼女の体を、背中の翼が滑空に向けて押し出してくれる。なんとか、飛ぶことは出来た。
もう、ろくに戦うことが出来る自分じゃないのは明らかだ。だったら、やれることは一つしかない。レインを預かり、クラウドに戦いを任せること。その後自分がどうするのかまで、今の頭では考えられない。ただ、今はもうそれ以外に選択肢がないと、ファインの頭は狭まった道を選ぶしかなくなっている。森いっぱいに魔力の風を発し、クラウドの位置を探し求めて空を舞う。
「そこにいたか……!」
「…………!?」
木陰から矢を放ってきた射手の小さなつぶやきが、ファインの耳に届いたわけではない。殺気を感じて慌ててローリングしたファインの脇を、風のような速度で一閃の矢がかすめていく。朦朧とする意識の中にあってなお、奇襲的に飛来した矢をかわせたあたり、養ってきた戦場勘は萎れ果てていないと言えようか。
「ちっ……! 野郎ども、集まれ! ガキを見つけた! 囲いきって撃ち落とすぞ!」
「あぁ……」
泣きそうな声が思わず溢れるほど、急加速して悪化する現状。たった一人の敵にでも見つかれば、そこから発信される号令に敵が群がり、あっという間に押し寄せてくる。正直右も左も正しく認識できるか怪しいコンディションで、無数の敵に包囲されてしまったら、どうしたらいいのかファインにはわからない。
クラウドの位置は、うっすらとながら把握することが出来た。だが、かなり遠い。向こうはこちらの位置を把握するすべを持たないから、助けに来てくれることも期待できない。救援が絶望視されるこの状況下、毒を受けたこの体で、たった一人で群がってくる敵をかわし、遠きクラウドの元へレインを受け取りに行くミッション。言葉にして認識すると、いっそう心が折れそうになる。
いつ完全に壊れてもおかしくないこの体で、どこまで戦闘集団を相手に渡っていけるのか。渡りの綱が途切れた瞬間、死という闇へと真っ逆さまの死出の旅。森の中を滑空するファインは虚ろな目。心の折れかけた少女は今、諦めちゃいけないと自分に言い聞かせることで精一杯だった。




