第145話 ~致命傷~
「は……っ、放して、下さいっ……!」
「はっはっは、そんなに暴れないで。まずはじっくりお話しようよ」
後ろからファインを抱きしめる形で、背中の羽をぶぶぶと鳴らしながら空中に留まるネブラ。じたばたと暴れるファインだが、彼の強い腕力で両腕ごと縛り付けられたファインは、上半身がろくに動かせない。ばたつく脚で、ネブラの足元を蹴ってやろうとしても、ネブラはさりげなく脚を後方に逃がしているから当たらない。
「ねえ、いいだろう? 僕は君のことを、気に入っているんだよ?」
「ひっ……!?」
耳元すぐに口を近付け、囁く声を発するネブラの吐息に、耳をくすぐられたファインが鳥肌を立てる。心を許していない異性をここまで肌に近づけるなんて、ファインのような年頃の少女にはたまらないだろう。もっともネブラとて、単に下心からそんなことをしているわけでなく、頭突きで頭を殴られたら困るからファインに頭の位置を密着させているのだが。
「さっきも言ったけど聞いてたかな? 君と敵対する今の状況は、惜しいって」
「しっ、知りません……! 放して下さいっ……!」
「まずは落ち着いて。大事な話がしたいんだ」
「ッ……!」
聞き分けのない子供をあやす声のネブラだが、その視界外でファインは手に魔力を集めている。握り締めた右手の中に、雷の魔力を凝縮させ、じたばた暴れる中でひっそりと手を開く。その魔力は、取り乱すふりをしたファインの、冷静な意志力に従って、ネブラの後方へとふよふよ飛んでいく。
「お願いだからまずは冷静にね? 変に抵抗されると、僕も君を傷つけなくてはならなくなる」
「い、嫌です……! 降ろして下さいっ……!」
「じっとしてくれれば悪いようにはしないから。だから……」
ネブラは気付いている気配がない。パニックめいて暴れながら、ネブラ後方の魔力に発動を命じたファインもしたたかだ。ネブラの視界の外でぴかりと光ったそれが、直後ネブラの背中めがけて一筋の稲妻を発射したのは、まさに不意打ち狙いの一撃だった。
「ね?」
「あ……!?」
特に慌てる様子もなく、くるりと体を回したネブラ。彼を背後から撃つはずだった稲妻は、反転したファインの胸元めがけて一直線だ。もはや放った魔力を突然に打ち切ることも出来ず、迫り来る自らの魔力に胸を打ち抜かれたファインの全身を、強烈な電撃が駆け巡る。
「はがっ、あ……!」
「ふぅ~、ビリビリくるねぇ。怖い子だ」
ファインを後ろから抱き締めるネブラにも、彼女の体を駆け巡った電力は伝わり、ネブラの表情を歪めさせる。ファインの体への影響はそんなものじゃない。電撃に強烈な破壊振動を与えられた全身が強張り、自分でそうしようとは思っていないの、手首がひっくり返り、頭も勢いよく空を見上げる形になる。ほんの2秒、全身を駆け巡った電撃の一撃は、その短時間でファインの華奢な肉体を痛烈に痛めつけた。
「かっ、は……ぅ、ぁ……」
「はっはっは、おとなしくなってくれたね。そのまま、そのまま」
全身をびくんびくんと痙攣させながら、開けたままの口を空に向け、ぐったりとネブラに体を預けるファイン。抵抗力を失って、だらりと両手両足を垂れ下がらせてるファインは、彼女を空中に抱き留めるネブラにとっては、さっきまでよりずっと抱えやすい。
「聞こえてるかい? 僕は君を、"アトモスの遺志"に勧誘したいと思っている」
空を仰ぎ、虚ろな目でいたファインには、ネブラの言葉が耳に入りつつも頭に入らない状況だった。それでも、アトモスの遺志という言葉が持つインパクトは大きく、それが夢遊病の頭だったファインの思考力を、現実へと引き戻す。
「見たところ、君は混血種のようだね。その血に苛まれ、つらい想いをしたことはないのかい?」
「はっ……はあっ……」
荒い息を繰り返すファインは、それに誤魔化し応えない。だけど、問いの意味を頭の中で反芻する中、答えは確かに脳裏にある。天人は地人を見下し、そんな地人と結ばれた天人の穢れた愛の結晶、混血児という存在は、常に天人から蛇蝎の如く嫌われてきた。幼少のファインは、天人達の都と呼ばれるクライメントシティで育ってきたのだ。
「そんな世界を、僕達は変えたい。そのために戦っている。君の過去を具体的に知るわけではないが、そうした世界を一新するために、僕達に力を貸してくれるつもりはないかい?」
ネブラの穏やかな声は、ファインに記憶を呼び起こす。友達の一人にも恵まれなかった幼少の時代を経て、サニーと出会えた幸運を飛び越し、二人で旅した中で混血児であることを隠し続けていた日々。そしてその末、すぐにファインが辿り着いた記憶は、クライメントシティ騒乱の中で出会った少女の姿。
青白赤のトリコロールカラーの少女は言っていた。混血児のファインに楽しく生きられる世界はあるのかと。血と生まれだけで不幸を背負う者が多い現実を示唆した言葉に続き、それを変えたくて戦っているという意志を、彼女ははっきりと声明した。自分達にとって苦しくてたまらない世界を変えるために、武器を取るのは間違ったことであるのかとも。ファインにはとても答えられなかった問いであり、今思っても答えの見つからない命題だ。
「君は優しそうな子だ。レインを僕達から引き離そうとするのも、その優しさに由来するものだろう。そんな君にとって、僕達の行為は非道に見えるかもしれない。それは否定しないし、僕達はこの手を血に染めることも多い」
陽気な声で話しかけてきた今までとは違い、静かながらも重い声に、ファインは次第に意識を奪われていた。殺されたってこんな人達の言うことなんて聞くものかと思っていたファインが、思わずその言葉を真剣に聞き入れてしまうほどにだ。親友サニーは"対話"を重視する人物であったが、彼女の生き様を誰より近くで見て育ったファインは、良くも悪くも人の話を聞く耳を持っている。
「今は、理解し難いと思う。だが、一度僕達と一緒に来て、話を聞いてくれないか。この世界には、君と同じく不当な苦しみを強いられ、意志を共にして集まる同士が沢山いる。彼らの話を聞いてくれれば、僕達のことを僅かでも理解して貰えるんじゃないかと思っているんだ」
言葉だけでは、悪質勧誘の常套口上に聞こえるはずのもの。だが、混血児として生まれ、長き迫害を体験してきたファインには、あまりにも切に胸を貫く言葉だ。ファインとて幼心に、どうしてこんな生まれに巡り会わされてしまったのだと、運命を嘆いたことが一度二度ではない。周りの子供達は友達と楽しそうに遊んでいるのに、誰に近付いても嫌そうな顔で逃げられ、父とお婆ちゃん以外の誰にも近づけなかった幼少の記憶は、今でもファインのトラウマである。
想像では補えるのだ。子供同士のいじめは当人には壮絶な苦しみだが、社会的なそれはさらに理不尽かつ、毎日の暮らしを蝕むほどに執拗だ。それを支配者側が容認、あるいは推奨すらするようなこの世界を、地人達が変えようとする行動原理とは、ファインには否定する言葉が見つけらない。
「どうだろうか。一度でいいから、僕達のもとに来て貰えないだろうか」
天を仰いでいたファインの頭が、力なくがくりと前に倒れる。うなずく仕草に見えて、それは上向きの顔を伏せ、だらしない姿勢を一新させただけのものだ。彼女を空に抱き留めるネブラの腕には、荒く息を乱すファインの胸が、小さく前後する実感だけが伝わっている。
「返事を聞かせ……」
「お……っ、お断り、です……」
地の言葉遣いが乱暴でない彼女の中では、ふざけるなに近いほど最上級の拒絶の言葉だ。はぁはぁと息を乱しつつ、自分の顔のすぐ横にあるネブラの目に振り向き、至近距離ではっきりとそう言った。
「僕達を嫌う気持ちはわかるよ。だが、それでもだ……」
「あ……あなたは、虐げられる人達を救いたくて、戦っているんですよね……」
「そうだ。信じられないと言うのかい?」
文字通り、目と鼻の先の距離で眼差しをぶつけ合う二人。目の前も霞むような開ききっていない目のファインと、へらへらしていた少し前の声色とは異なり、強き意志力に満ちた目のネブラ。彼とこの日、初めて出会ったばかりのファインにも伝わる、自らの信念を貫き通してきた男の目。それは言い返そうとしたファインでさえ、反発するのをためらうほど気高い瞳だ。
「っ……ま、守るべきものを……」
ネブラが部下に慕われ、指揮官を務める人物であることにも納得できた気がした。人間的にも自分よりも多くの経験を積み、確たる信念を築いてきた男を前にして、ファインの声が僅かに震える。他者に敬意を抱ける人間は、畏怖を抱けば言い返すことをためらうものだ。それでも譲れない想いを胸に抱くファインは、僅かな間を置き心の真を発することを選ぶ。
「守るべきものを、非道を貫く名分に、唱える人達に……私は、力をお貸ししたくありません……っ!」
「…………」
はっきりと言い放ったファインの目の前、ネブラの表情は動かない。自分達の信念を、はっきりと否定してきたファインに憤慨するでもなく、あるいは子供だと見下すわけでもなく。その眼は、ファインの言葉を幼い言葉と切り捨てたりせず、一人の少女の切なる叫びだと受け止めた、理解者のそれである。
「……君はまだまだ子供だな。それが、僕達にとっては魅力的ですらある」
ふっと笑うネブラの表情は、まるでわがままな娘を許容して見守る親のようだった。それは不覚にも、ファインの脳裏に優しかった父を思い出させるものでさえあり、強く彼に言い返した直後のファインが、思わず次に用意していた言葉も失ってしまうほど。
「だけど、それだけの強さで僕達に敵対するのであれば、僕は君をそれなりに扱わねばならなくなる」
寂しそうな目の色を浮かべたネブラの目に、一転ファインがぞわりと背筋を凍らせる。まるでせっかく出会えた想い人と、別れを惜しむような表情だ。それはつまり、今から彼がどんな行為に出るかを示唆したものと言える。
「僕は古き血を流す者、蜂種に分類される身だ。君に何度か投げつけた針は、僕がこの身から生み出したもの。体じゅうどこからでも、というわけにはいかないが、体内で作り上げた毒針を、こうして発生させることが出来る」
ふと、自分の胴回りを締め付けていたネブラの腕がゆるんだ気がした。思わずネブラを振り向いていた顔を前向きにした瞬間、ネブラの片手が目の前にあった。そして人差し指を立てたネブラの指先には、爪の間から生えたかのような、鋭い針が立ちそびえている。
「毒の生成、練成は、僕の体内で自由に行なえる。敵の動きを封じるための毒や、病を引き起こす毒など、用途は多岐に渡る。自慢ではないが、今では百にも勝る種類の毒を作り上げることが出来る」
「ひ……!?」
ファインが暴れ始めた。自分を抱き締めたネブラを力ずくでほどこうと、腕を動かそうとし、脚をばたつかせ、ネブラの顔面に頭突きしてでも逃げようと頭を動かして。しかし、側頭部をファインの頭の横にぴったりと着けたネブラは、ファインの首から上での抵抗を完全に封じ、逃がした脚もファインのばたつく脚に当たらない位置を保っている。
「勿論、人を死に至らせる毒も作ることもだ」
「やっ、いやっ……! 駄目っ、駄目えっ!」
目の前で立てられたネブラの人差し指が曲がり、くいっと自分の胸元を指差す形になる。何をされるのか嫌でも想像できてしまうファインは、死が目の前に迫る恐怖に必死で足掻き続ける。しかし、いかに足掻いてもネブラの力を超えることが出来ず、逃れられない凶刃を前にしたファインの表情が、恐怖の色に染められる。
「や……」
ファインの抵抗する言葉が、不意に途絶えた。ネブラの指先から突き出た針が、彼女の胸の真ん中に突き刺さった時のことだ。その瞬間、あれだけいやいやと暴れていたファインも、致命打を受けたことに頭が真っ白になり、体の動きが止まってしまう。
「あっ……ああっ……」
「残念だが、さよならだ。君とはもっと、違う形で出会いたかった」
もう、ネブラの声もファインの意識に届かない。聞こえていたって頭に入らない。彼女の中にあるのは、異物が針の先からどくどくと、体内に送り込まれる不気味な感覚だけ。針に貫かれた傷穴から、生温かい何かが自分の中に注入され、じんわりと体に広がっていく感覚は、一気にファインの表情を蒼ざめさせていく。
孤独な空の上での絶望。君の命はここで終わりと宣言したネブラの腕の中、ファインは無抵抗のまま体の奥底まで、命を蝕む猛毒を注がれ続けていた。




