第144話 ~捕獲~
ずっとレインに注がれ続けていた、解毒を促す治癒の魔術が、今はしばらく中断されている。それはファインが、その魔力を自分に使い始めているからだ。二の腕に刺さった、小さなネブラの針を抜くのに苦労はしなかったものの、さっきから右腕全体がびりびり痺れて仕方ない。神経に作用する何らかの毒が、小さな針の先に塗られていたことは間違いなさそうだ。
「と、遠い……! なんとか、間に合って……!」
目指す先はクラウドだ。クラウドの交戦区画は把握しているが、ネブラ達に追われる中で、随分離れた位置に追いやられてしまった。また、クラウドもある一点から大きく動いた気配がなく、何らかの形で苦戦していることが察せられる。本来ならば、自由に手が動かせる状態でも苦戦しているであろうクラウドに、レインを預ける役目を押し付けに行くのは、ファインだってしたくない。
だが、もう限界。強く注いだ、体外に毒を押し流す治癒の魔力の甲斐あって、程なくして腕の痺れは無くすことが出来た。とはいえレインを抱える腕にかかる負担は重々しく、一時でも不全の体で女の子を抱えていたファインの腕は、すでに痛いほど軋み済んでいる。今だって、敵の狙撃を回避するたび、緩みかけた腕からレインを放り出しそうな場面が繰り返されているのだ。
「はーっはっはっは! 僕も風を操って君を探すのは得意だよー! 天人に生まれてよかったと思えるのは、こうしたゲリラ戦で天の魔術を使える時が最もなー! 風の魔術は空を舞う者にとっては便利だよねー! 加速も旋回の後押しにも使えるし、仲間の位置を把握するのにも便利だしねー!」
追い迫るネブラのよく喋る口が、ファインの心を追い込んでいく。彼女が森全体に風を放ち、呼応する魔力の動きで敵と仲間の位置を把握するのと同じく、ネブラも同じことをしているのだ。だから彼も、容易にはファインを見逃さない。振り返る余裕もなく、クラウドのいる方向へと滑空するファインへ、ネブラはぐんぐん距離を詰めてくる。
「小さなお尻だが可愛らしい形だねぇ。それを傷つけるのは気が引けるけど、ねっ!」
腕を振るって無数の針を投げつけてくるネブラに、急下降したファインが回避の動きを見せる。しかし追っ手からの距離は縮まる。クラウドは間もなくの場所にいるのに、前進は遅れる。手は塞がっている。毛穴がちりつくほどの焦燥感と共存するファインの胸は、勝負に出る決意に準じて魔力を練り上げる。
「レインちゃん、ごめんなさいね……!」
「む……?」
追い迫ったファインの後ろ姿から、ただならぬ魔力を感じ取ったネブラも一瞬減速。この状況でスピードを落とすことは遠回りだが、それは正しい判断。
「天地魔術、風魔爆炎……!」
膝を縮めて丸まって、胸いっぱいでレインをくるむように守る姿勢をファインが取った瞬間、彼女の背負う風の翼が一瞬で色を変えた。陽炎模様に熱を帯びたその大気は、次の瞬間に大爆発を起こし、いわばファインの背中すぐの場所から全方位に爆風を起こす。ファインを前方に押し出し、後方のネブラに強烈な熱風を届ける爆裂魔術の発動には、ネブラも片腕で目を覆って熱風を防ぐ。
「むぅ……! なんて無茶をする子だ……!」
「くっ、う……けはっ……!」
露骨な自爆加速に、ファインこそダメージが大きい。ネブラを怯ませる熱風程度に魔術熱を抑えたものの、熱い強風が髪を焦がし、服の上からでも背中をひりひりさせる熱を届けてくる。おまけに加速は得られたものの、すぐに開いた新しい翼でも制御が難しい超加速の中、何度も木々すれすれの回避を為しながら滑空するファインは、レインを落としてたまるかと腕に全力を込めている。
「あっ、あ……」
「れ、レインちゃん、我慢してね……! 苦しいだろうけど……!」
強すぎるほど抱きかかえられるレインは、気を失ったままでも小さくうめいている。それほど強く抱きしめているのはファインも自覚があるのだ。歯を食いしばって飛翔を続けるファインは、目指していた彼へと一気に近付く中、苦戦しているであろう彼の状況を悟るべく、前方の風を強く操る。
「っ……クラウドさぁんっ!!」
「ファイン!?」
真っ赤に燃えるザームの鉄棒を相手に、至近距離での白兵戦真っ最中のクラウド、そこに差し込む強烈なノイズ。必死なファインの接近を察したクラウドが、声のした後方上空に意識を奪われた瞬間、ザームの熱き武器が襲い掛かる。
急がば回れ、胴を凪ぐ長き棒をその場で勢いよく脚を抜き、自ら背中から素早く倒れたクラウドは、自分の目の前を通過していくザームの鉄棒を蹴り上げた。クラウドの脚力で上天へ打ち上げられた棒は、ザームの腕の力の抑止力を以ってしても、高い位置まで振り上げさせられる。それに際し、後方上空を見上げるクラウドの視界には、高き木々の間からこちらに近付くファインの姿が一瞬入っている。
棒を蹴った勢いで脚を伸ばしたクラウドが、後転倒立に近い形で後ろに回転。頭の両横で地面を押すクラウドはそのまま立ち上がり、樹上に目がけて地を蹴り跳ぶ。その方向は一見、ファインから離れる方向への跳躍だが。
「妙な動きすんじゃねえよ……!」
低い枝の根元に着地しようとする軌道のクラウドへ、片腕振るったザームが火球を投げつけてきた。それは、手甲や膝当てで岩石弾丸に対処できるであろうクラウドに対する、物理的には対処できない一撃。はずれれば山火事に繋がるハイリスクな一撃を、絶対に当てるという意志力と共に放つザームが、空中で自由に動けないクラウドをぞっとさせたものだ。
「んむっ……ぷはあっ!」
木々の間をくぐりながら、口に含んだ魔力の塊を吐き出したファインが、ザームの火球にそれをぶつける。着弾の瞬間に水の塊と化したその魔力は、ザームの火球を飲み込んで小爆発、広く視界が悪くなるほどの水蒸気の塊を飛散させる。全陣営からクラウドの位置が見えづらくなったその瞬間、風に押されて予定着地地点から押し出されかけたクラウドが、握力だけで木の幹を掴んで踏み止まる。舌打ちするザームの上空、霧の中に飛び込んだファインが、クラウドのそばへと舞い込んで行く。
「攻守交替か……!? それはそれで結構だがな……!」
ザームが察したとおり、霧の中から飛び出して空高くへと去っていくファインは手ぶら。一方、短い交錯でレインを受け取ったクラウドが、樹上を飛び移るようにして霧から脱出する。あっちだ、と叫んでクラウドの方角へと駆けていく部下の動きを見受け、ザームもクラウドを追っていく。
「追い詰めろ! 時間の問題だ!」
たびたびレインを預かる役を代わり、自分達から逃げ続けるクラウド達との追いかけっこにも辟易するザームだが、クラウドがレインを抱える役を担うなら、それを追うぶんにはノーリスク。反撃されないんだから。ファインも馬鹿じゃない、ネブラとザームの両方がクラウドを攻撃できる図式を避けるために遠くまで行ってくれるだろうし、今はひとまずクラウドを追えばいい。
同じことの繰り返しに見えても、時が経つに連れて包囲網はより密になっている。部下もクラウドの動きを何度も目にして、追い方に慣れが出てきている。時間の問題と宣言したザームの言うとおり、次第にクラウドを取り巻く状況は悪化しているのだ。
「天魔、立水渦……!」
「あぶ……っ!?」
「あんのガキ……! つくづくしぶてぇな……!」
手が自由になったファインだが、無数の敵を相手に未だ苦しい状況には変わりない。それでも自由に魔術を行使し、反撃できる状況になれば立ち回りようはある。木々を起点に発生する、逆三角形の渦巻く水柱を発生させるファインは、空を舞う追跡者をその中に突っ込ませて惑わしたり、自分に迫っていた矢を水で捕らえて無力化することを同時に叶えている。
待機射手と遊撃射手、遊撃メインの空中部隊と、敵の陣形の構築模様もだいたい把握できるようになってきた。逐次周囲の様子を見渡し、状況に合わせて最善の魔術を発動させるファインを、追跡者達もなかなか捉えきれない。ずっと必死な顔で汗だくになっているファインだが、そろそろ焦りが出始めるのはアトモスの遺志側だ。
彼らの切り札はどこかにいる。あのすばしっこい少女にも抗いえる、最強の将だ。ファインも敵の追撃に対処しながら、滑空しながら、それがどこにいるのかを風で探り続けている。だが、気配が見つからない。うるさい口で騒ぎながら追いかけてきた少し前のことが、ネブラの位置を把握できない今となっては、別な意味で恋しくも感じてくる。
「ど、どこから来るの……!? 全然見つからない……!」
血走った目で自分を追跡してくる敵の殺気が充満する森の中、研ぎ澄まされた銀のナイフのような、鋭い眼差しで自分を追っていたネブラの気配が無いのだ。最も恐れるあれの位置が把握できないことは、それだけでファインを不安にさせ、集中力を乱してくる。恐れるべきはネブラだけでなく、自分を取り巻く無数の敵だとわかっているはずなのに、それを失念するほどにだ。
「いいぞ、やれ! 今しかない!」
「了解っ!」
「は……!?」
自分の意志で逃げ回れていたと思っていたファインだが、実際には違う。アトモスの遺志はファインを、この重要地点に誘導していたのだ。ファインの高度も、敵陣営にはベストに近い。待ち構えていた術士や射手、それらが木陰や地上からファインに狙いを定めた。次の瞬間、ファインめがけて放たれる無数の矢と岩石弾丸、火球の集中砲火は、ざっと十数発あらゆる方向からファインに襲い掛かり、まったく同じタイミングで彼女へ着弾するベクトルを描く。
「っ……地術、岩石甲殻!」
全方位からの串刺し凶弾に対し、ファインが選べた防御手段はこれしかない。集中砲火のど真ん中空中で我が身を静止させた瞬間のファインの周囲に、突如発生する岩石の殻。卵の殻のようにファインの周囲、全方向を遮ったそれは、あらゆる角度からの攻撃をはじき返す。
「――はっ!」
胸の前で握り合わせていた手をほどき、両手を広げたファインの動きに伴い、彼女を空洞内に包んでいた岩石の殻がはじけ飛ぶ。その欠片の数々はあらゆる方向に飛び散り、一部は敵を貫いて、一部はかわされ、敵陣営を大きく混乱させた。特に、ファインにとどめの追撃を食いつかせるべく、接近していた空を飛ぶ兵にとって、この弾丸の急襲はほぼ不意打ち。これに撃ち落とされてふらつくまま、地面へと降りていく敵兵も二人ほどいる。
「っ、はあっ……はあっ……」
畳んでいた風の翼を広げて上昇するファインだが、そろそろ魔力も尽きかけて厳しい時間帯。どこかで一度、一息入れたいのが本音だ。明らかに乱れた敵陣の隙を見受け、ひとまず高所に身を逃がそうとするファインの判断は間違っていない。敵の包囲網から10秒逃れられるなら、それだけでも随分変わってくる。ずっと緊張しっぱなしの状況、ひと息入れられるだけでもかなり楽になるのだ。
周囲の敵の動きを、油断なく察知していたファイン。だが、それに充分意識を傾けているつもりでも、肝心なことを見落としていることに彼女は気付いていない。さっきまであれほど気にしていた、不在の最強の敵がどこにいるのかを、無数の敵に対処した一瞬を経て、頭から抜け落ちさせていたのは致命的な見落としだ。
「はーっはっはっは! 捉えたッ!」
「え……!?」
真上に上昇する中で、突如聞こえたその声に、思わずファインは視線を落としていた。空を舞えば、風を操るファインに容易に見つけられてしまうと判断したネブラは、ずっと地上を駆けていたのだ。高い位置から空中の風の流れをメインに状況把握していたファインにとって、地上を走る兵に混ざってネブラがいたことは盲点だ。ずっと飛翔する彼に追われていたファインには、今もネブラはそうしていただろうという先入観がすっかり植えつけられていた。
集中砲火を受けて一瞬動きの止まったファインの真下に滑り込み、ひとまず上昇するであろうファインの動きを読みきって、迷いなき勢いで上昇したネブラがあっという間にファインに追いつく。そしてファインが、接近する何者かの正体に気付き、ぞっとして体を逃がそうとしたその瞬間には、すでにファインの背後についたネブラががっちりとファインを捕まえた。
「うあ……!?」
「はっはっは! さあ、もう逃がさないよ!」
後ろからファインを抱きしめるような形で捕えたネブラは、そのまま上天高くまで突き進む。木々の隙間をかいくぐり、最も高い木の背丈さえ越え、茂る葉に遮られて見えなかった空が、行く先を見上げるネブラの目に映る。広き平原を一望できる森の上空、ファインを完全に捕えたネブラは、なおも空へと高度を上げていく。
完全に隔絶するための行動だ。遥か下、クラウドとレインの位置からどんどん引き離されるファインが必死で足掻くも、ネブラの腕はぎしりとファインを縛り付けて逃がさなかった。




