第14話 ~三角締め~
「ぬ、ぐ……! 地人、ふぜいが……!」
鼻と胸を押さえて前かがみになり、立てぬファインを憎々しげに睨みつけるカルム。恐怖心から汗だくで、胸を締め付ける緊張からはっはっと息を乱すファインだが、その体にはまだ傷一つない。危険な状況は未だ逸したとは言えず、一矢報いたとはいえ相手だけが自由に動ける中、ファインは決してカルムの動きから目を離さない。
はじめ、怯える子兎のように縮こまったファインに、カルムは不用意に近付いた。鞭を握らぬ方の左手で、ファインの両頬を下からつまみ上げ、怖がる瞳を至近距離で眺めてやろうとした。その瞬間、畳んでいたファインの脚が、思わぬ速度で鞭を持つカルムの右手を蹴り上げたのだ。突然の衝撃に鞭を落としたカルムが怒りを抱くより早く、素早く頭を突き出したファインの行動が、カルムの顔面に頭突きをぶちかました。それによって後方にカルムがよろめいた隙、地に着いた両の掌を押し出し、足を突き出したファインの一撃は、無防備なカルムの胸元に勢いよく突き刺さった。
女の子の足にとはいえ、勢いよく蹴られた胸元を貫いた衝撃は重い。胸を押さえ、鼻血が出そうな痛みに顔を伏せたカルムが、再び顔を上げるまで、僅かだが時間がかかった。その隙に、そばに落ちていた鞭を足先で手元に引き寄せたファインは、カルムの鞭を自分の後ろに招き入れて手に握った。もう、これは絶対に返さない。
「許さん……!」
憎々しげな言葉と共にファインを睨みつけるカルムは、今すぐにでもファインを殺してやると言わんばかりの目。三角座りに近い形で白い脚を晒し、震えそうな体を、足の指先で地面に食いつかせるようにして堪えるファイン。手は使いものにならない上に、立ち上がることすらままならない形。絶対的な不利は覆らないままにして、捕まれば終わりという現実がファインの胸をばくばく鳴らしている。
考え無しにカルムが襲い掛かってきたのは、最悪とも最善ともファインには取れる行動だ。髪を掴もうとカルムが伸ばしてきた左手を、右脚振り上げて抗おうとしたファイン。しかし自由に動けるカルムがそれを止めるのは容易く、カルムの右手がファインの脚を止める。蹴られる形で痛んだ手に怒りを覚えつつも、伸ばしたカルムの左手はファインの髪に到達する。ツインテールに纏められた、ふんわりと柔らかい髪を、カルムの左手が掴んで頭を引き寄せようとした。
「や……っ……!
「っが……!?」
髪を引かれて小さくうめいたのはファイン、思わず悲鳴をあげたのはカルム。ファインの脚を掴んでいた右手に走る、凄まじいほどの熱には、思わずカルムも後ろに飛び退きそうだった。天人には使えぬ火の魔力、ファインの右脚は凄まじいほどの熱を抱き、掴んでいたカルムの掌をじゅうと焼き付けたのだ。たった一度の奇襲、そのために脚を動かしやすい形にしていた功は結ばれた。
カルムがファインから離れられなかったのは、ファインの左足がカルムの首飾りに足の甲をかけ、離れさせなかったからだ。ここしかない、勝負は一瞬だとファインもわかっている。カルムの首飾りに引っ掛けた左足を思いっきり引き、前のめりになっていたカルムを、勢いよく自分の方に引き寄せる。同時に鎌のように右から振りかぶった右脚を、カルムの後頭部に回してだ。
自分の腹部めがけてカルムの頭を引っ張り込んだファインは、カルムの顔面が腹に突き刺さる痛み、重みに表情を歪める。それでも右脚をカルムの首元に後ろから巻き付け、カルムの右脇の下から振り上げた左脚の膝裏で、自分の右脚の脛をがっちりと捕まえる。右の太ももの裏でカルムの首の横を挟み、左の太ももでカルムの右腕と頭を挟み込む、三角締めの形を完成させる。
脚に纏わせていた炎のような熱は、ファイン自身の脚を駄目にし得る諸刃の剣。熱を収めた今になっても、火傷のように痛む足ながら、歯を食いしばってカルムを締め上げるファイン。予想だにしなかった形で捕まえられたカルムは、突然の危機感に暴れ出すが、女の子とはいえ脚力全開でがっちりと捕まえているのだ。ファインの太ももを、自由に動く左手であざが出来るほど強く掴み、締め付けをこじ開けようとするカルムだが、決死の想いで締め上げるファインの脚を、力ずくでほどくことが出来ない。
ファインも必死なのだ。手は使えない、身動きも取れない、そんな中でようやく掴んだ、きっと最初で最後の好機。敏感な太ももを握り締められる痛みに小さくうめきながらも、右脚に絡めた左脚にも全力を込め、いっそう強くカルムの首を締め上げる。
引き剥がせないファインの脚、息が詰まる苦しみ。ファインの脚を手放したカルムが、死に物狂いで左手を握り締め、ファインの右脇腹の後ろを殴りつける。体勢が体勢かつ、やけくそ混じりに振るった拳に真っ当な威力はなかったものの、男の腕力でボディへの打撃をくらわされたファインが、裏返った声とともに表情を苦悶に染め上げる。
「か、っ……う……!」
それでも絶対離さない。座ったままの体勢から、体を右に倒し、カルムの左手を自分の体の下敷きにする。後ろ手で固定された腕もぎゅっと締め、脇腹を腕と肘の盾で固めてだ。早く落ちてと祈るような想いで、両脚に全力込めてカルムを締め上げるファイン。自由な左手を封じられた上で酸欠が近付いて、意識が飛びそうなカルム。なんとか息を、と口と鼻での呼吸を荒くするカルムだが、ファインの腹に顔を押し付けたままでそれをするものだから、服越しの熱いカルムの吐息にお腹を刺激されるファインもたまったものじゃない。まかり間違っても好きでない男を、大事な体に密着させた上で、荒い息遣いでお腹を湿らされる感覚は、16歳の少女にとって精神的にもきつい。
ファインの脚はカルムの首と右腕をがっちり捕まえているから、カルムは右腕も自由に動かすことが難しい。それでもその腕が、この失神の危機から逃れるための最後の切り札であるカルムは、動く右手をばたばたと暴れさせる。その掌で何度も胸を触られて、ファインも色んな意味で泣きそうだ。カルムを揺さぶるぐらい腰を前後させ、もっと深く、もっと強くと脚に全力を込めるファインの必死さが、カルムの意識を白く染めていく。
やがて暴れていたカルムの動きが小さくなり、仕舞いには死んだように動かなくなっても、ファインは絶対に脚の力を緩めない。落ちたふりして逃れられたら終わりだ。脚に全力を込めてきた今を一新せず、容赦なく締め続ける。このままいけば落ちるのを通り越して、カルムを絞殺さえしてしまいかねないほどだが、ファインだって命が懸かっているから容赦できない。
完全に気を失ったカルムの右手は、力なくファインの胸元に置かれたままだ。ファインは動けない。体を動かせば、せっかく体で押し潰したカルムの左手を自由にするから、徹底して我が身を守るならその手も逃がせないのだ。ただ、本当に殺してしまうのはやっぱり怖い。カルムが完全に落ちただろうと見たファインは、ちょっとだけ脚の力を抜いて、カルムの気道を開いてあげる。勿論、カルムが目覚めたとしても、絶対に逃がさないように、捕まえた脚の形はほどかない。いつでも相手が動こうものなら、また全力で締め上げる心構えは固めてある。
緊急性の危機は去ったとはいえ、一秒たりとも気を抜けない状況は継続している。気絶して瞳をぐるんと回したカルムの口から垂れる涎がお腹を濡らし、それを目にしたファインの嫌悪感たるや言わずもがな。恐らく完全に落ちたであろう相手とはいえ、好きでもない男に胸を触られたままで、お腹に顔をうずめられたままという状況、ファインも半泣きでカルムを捕まえている。女の子の生脚で締め上げられ、気を失ったカルムの状況は決して幸せなものではないが、勝者のファインも未だにつらい。
なんとか今の危機を切り抜けることは出来たのだ。最後の問題、次にここを訪れるのは誰か。カルムの味方がここに来たらおしまいだ。ここまでやってしまった以上、取り返しもつかないだろう。最悪の心持ちで闇の中動けないファインは、祈るような想いで救いの天運を求めていた。
邪魔者が殆どいなくなってくれたことで、クラウドも比較的動きやすくなった。使用人どもの騒ぎ声もすっかりおとなしくなり、一番よく聞こえるのは遠き玄関広間の喧騒の音だ。サニーのことは勿論心配だが、破壊音がするというということは戦っているということ。むしろ静かになられた方が、見るからに不利だったサニーの敗北を予感してしまうから、騒がしくいてくれた方がクラウドにとっては安心できる。
やがて物置のように、たいしたことのない物が数多く置かれた薄暗い部屋に到達したクラウド。マラキアの来た側の部屋で、見回った部屋はこれで最後だが、ファインの姿はなかった。広い屋敷、ならばファインはどこにいるのかと、クラウドの焦燥感は募るが、急く気持ちを思考力で上塗りし、目の前の異質を見逃さぬ冷静さを取り戻す。
よく考えろ、地下牢だ。そこでカルムは捕えた相手にどういう行為に及ぶのか。相手が男なら血まみれにすることも厭わないだろうし、相手が女なら薄汚い手を使いこなすだろう。人に見せられないような行為に及ぶであろうはずの地下牢、入り口を隠してあってもおかしくない。そしてクラウドにとって、確信できる推測ではないのだが、マラキアが来たこの方向にカルムがいたことは手がかりの一つ。何も無いように見えるこの物置とて、探し物を探すべき場所の一つには違いない。
そこまで考え至れば、薄暗い物置の床に、くそ丁寧に絨毯が敷かれていることにも、違和感を感じて然るべき。いかに金持ち町長の豪邸とて、扉を開いた瞬間に埃が舞ったような物置場の床にまで、金をかけて絨毯を敷く道理はないはず。冷静に考えればおかしなことでも、今のクラウドのように、捜す何かを地下に求める思考回路でもなければ、わざわざ絨毯をめくったりすることもあるまい。
もしかしたらそんな可能性も、という想いで、乱暴に絨毯を剥がしたクラウドの目の前には、一見すれば何の変哲も無い床があるだけ。だが、クラウドは薄暗い中でも見逃さない。石造りの床に、ぴぴっと走る四角の切れ目は、石蓋でそれだけの大きさの穴を閉じたものを彷彿とさせる。さらに視野を広げれば、手をかけてその蓋を開けられそうな窪みだってちゃんとある。不確かな山勘をいくつも積んで辿り着いた、幸運も味方しての発見だが、必死さゆえの注意力と探求の意志が、クラウドに結果をもたらしたと言えよう。
「ここか……!?」
石蓋は薄く、なるほど一般人としての腕力のカルムであっても、容易に開けられるであろう軽さ。その先に見えた地下深くへと続く階段は、人に見せられない残虐を秘匿する空間への道を示唆するものだ。かねてから噂のみで知られていた、町長屋敷の地下牢への道を発見したと思ったクラウドが、未知の到達に胸がどくんと鳴ったのもまた真実。ただしそれは、宝探しのゴールに辿り着いた高揚感などでは決して無い。
この先にファインが捕えられ、カルムもそこにいるのなら、どんな非道が行なわれているだろう。彼女に二度と消えぬ傷がつけられている可能性さえ感じるクラウドは、間に合えという想いから全力で脚を駆けさせる。暗い地下深くへの階段を、2段飛ばしの最速で駆け下りていくクラウドは、耳に響くほどの大きな足音と共に救出へと急いだ。




