第120話 ~前を向いて~
西に山越えをしようとすると、マナフ山岳の旅は思ったより長い。
山に踏み込んだ日を1日目とすると、その日の夕方に重装戦士と戦うことになったクラウド達だが、その時からクラウドが逃げ足を全力で発揮したため、そこからの西向き移動はむしろ加速した方である。その夜ひと休みし、2日目の夜明け前から再出発、昼には宿でまた休んで、その日の夜に再出発。夜通しから続く3日目も、何度か小休止は挟んだものの、ほとんど休みなしで夜遅くまで駆け、人里の宿でようやく普通の時間に眠りについた。
その旅路の足は、すべてファインを背負ったクラウドだ。人間離れした走力と体力により、二人で走って移動するより、よっぽど素早く動けるクラウドのおかげで、この3日間で随分西の方まで来た。それでも、まだマナフ山岳を越えるには少し遠い。当初の予定通り、馬車でのゆったりとした旅をしていたら、もう少し時間がかかっていただろう。それだけ、クライメントシティや天界から、マナフ山岳を越えた西の地方は遠かったということである。
マナフ山岳に踏み入ってから4日目の朝。危機のあったあの場所からは随分遠ざかり、流石にクラウドもそろそろ大丈夫だろうと、焦る想いも鎮めて寝た後の朝だ。勿論今日からも、なるべく急いでの移動は繰り返していきたいところだが、ひとまず安心してよく寝た翌朝は、さあ今日も頑張るかと昨日より前向きに思える。たとえば昨日起きた時なんかは、さあ行かなきゃ早くと、体の痛みなどと戦いながらの気の急いた決意を余儀なくされていたから。
「――あっ、おはようございます、クラウドさん」
「あ……ファイン、おはよ……」
布団の上で上体を起こし、寝ぐせ頭をかいていたクラウドのもとへ、朝食を乗せたトレイを持つファインが帰ってきた。クラウドよりも先に起き、顔も洗って髪も整えてきたらしく、既に寝起きを過ぎ去った女の子の姿である。寝起きで寝ぐせまみれ、とろんとした目つきのファインをここ何日か見てきたクラウドだが、本来早起きであるファインのああいう姿を見られた最近って、けっこう珍しかったかもしれない。
「ご飯、食べられそうですか?」
「あ、うん……貰うよ」
朝食の時間よりもだいぶ経った午前中、クラウドにしては寝坊した時間帯になるが、そのぶん早起きしたファインが宿の調理場を借り、作ってきてくれた朝食の完成と起きた時間が一致したのはやや幸運。ご飯に味噌から作ったお吸い物を添え、ベーコンエッグをメインに据えたわかりやすい朝食お膳は、昨日一昨日と比べてやや安心できるこの朝、家庭的な様相も併せて見た目にもクラウドを安らがせるものだ。ご飯の量がクラウドだけ山盛りなのは、二人の胃袋の違いをわかりやすく絵に表したものである。
据え置きの小さなちゃぶ台を挟んで向かい合い、いただきますの声を合わせて朝ごはん。あぐら座りのクラウドと、正座してもちびっこいファインは、食事中にあまり自分から言葉を発さない二人の性分もあり、全く会話がない。今までなら食事の席のたび、食の合間を縫ってよくお喋りするもう一人がいたのだが、静かな食卓を囲んでいると、何かが足りない実感を嫌でも感じてしまうものである。
「――ごちそうさま。やっぱりファインの料理は美味しいな」
「ふふ、そうですか? ありがとうございます」
量が少なく先に食べ終えたファインが微笑みを返してくれて、嫌な沈黙がようやく晴れた。食べ終わった食器を重ね、後で宿に返すために持って行きやすい形にして、トレイに乗せる二人。この部屋を出る際にでも、つまり宿を出る際にでも、主人のもとへ持っていく形にすればいい。ひとまず食後に息をつく。
「体の方は大丈夫なのか?」
「はい、このとおり。あれからもう3日も経ちましたし、元気に動ける程度にはなりましたよ」
ぐっぐっと拳を胸の前で握り、回復済みを主張するファイン。今日からはもう背負って貰わなくても全然平気ですよ、とでも言いたげに。まあクラウドへの治癒魔術を惜しみなく注いでくれていたファインだが、一方で自分への治癒も欠かしてはいないだろうし、一日前より二日前より元気になっているのは事実だろう。3日前に打ちつけまくった体、恐らくまだ痛む部分は残っているだろうけど、態度でこう示せる以上は随分ましになっているはずだ。実際、昨日あたりに同じ質問をしても、力なく笑って平気ですと言うばっかりだったし、それと比べれば今日の表情には活力も戻っている。
「あ、そうだクラウドさん。おでこ、貸して下さい」
「いいっていいって、こんなのもう治ってるし……」
「駄目ですよ、跡が残ったらどうするんですか」
立ち上がってクラウドのそばへ行き、ずずいと近付いてくるファインに、クラウドは目を伏せるようにして頭を差し出す。これは昨日寝る前にもやられたことなのだが、後ずさって逃げようとしてもファインは詰め寄ってくるから、自分から額を差し出した方が懸命だ。座って重心を後ろに傾けたクラウドに、胸と胸を近づけるように膝立ちのファインが距離を詰めてきたのは心臓に悪かったんだから。心配してのファインはそんな意識なかったのだが、あの体勢で女の子に密着されそうになったのは、クラウドにとって息遣いに困る展開だった。
昨日のことを思い出して、口をもごもごさせるクラウドの額に手を添えると、治癒の魔術を行使するファイン。先日重装戦士に頭突きされて割れた傷跡は、クラウド自身の傷の治りの早さもあってもう塞がっているが、放置すれば傷跡として残るだろう。顔に傷が残ることは、女の子にとっては見過ごせない一大事。でこに傷ぐらい残っても別に、という男の子の価値観とはちょっとすれ違う。
「うーん、やっぱりこのまま放っておくと跡が残りそうですね……」
「別にいいよ、傷跡ぐらい。そんなナルシストじゃないぞ、俺」
「ダーメです。クラウドさん、せっかく綺麗なお顔してるんですから、跡なんか残しちゃ絶対後悔しますよ」
「きれ……いやいや、あの……」
「いいですからじっとしていて下さい。今晩にもまた、治療しますよ?」
年と比べてちょっと童顔なのは認めるが、綺麗な顔なんて言われたのは初めてで、慣れない褒め言葉にクラウドも言葉を失う。客観的に見て、良くも悪くも普通の顔立ちのクラウドなのだが、ファインにはそうじゃなく見えているということなのだろうか。もっとも、親しくなってきた相手の顔が、初対面の時より魅力的に見えるというのはよくある話だが。
ぽう、と小さな光を伴う優しい治癒魔術をしばらく行使し、ファインはふぅと息をつく。それが終わった合図だと知るクラウドは、やっと終わったかと溜め息だ。心配してくれるのは嬉しいけど、寝たままで治癒の魔術をかけられるのは慣れてきた一方、座り合って正面から治癒されるのは今でも変な気分。まして相手が同じ年頃、しかも可愛らしい女の子の息遣いまで聞こえてくる距離感っていうのは、胸がとくとく弾んでしまって複雑なものである。
「体の方は大丈夫ですか?」
「あーうん大丈夫。もう行こう、あんまりゆっくりするのもアレだし」
逃げるように立ち上がり、二人ぶんの食器を乗せたトレイを持つクラウド。ちょっとでも大丈夫でない素振りを見せたら、またしつこく治癒魔術をかけられそうだ。気持ちは嬉しいけど、今ので変な気分になってしまったクラウドにとって、その展開はあんまり繰り返したくない。見せたくない顔っていうのが、男の子にだってあるものだ。
後ろからついてくるファインと一緒に、宿の主人に食器を返しに行き、やがて宿から出て行く二人。少し曇り気味だった昨日までと違い、今日は快晴だ。昨日までは、寝て起きて歩きだせばすぐ、クラウドがひょいっとファインを背負っていたのだが、今日はファインも軽い足取りで歩いているようで、クラウドも今までどおりの提案まで時間をかけている。元気だったら歩けばいいよ、という気持ちにはなれないのだが、彼女の方もおんぶされてばかりで心苦しい、という空気は醸し出し始めていた頃で、クラウドとしてもある程度空気を読んでいる。
「……あの、クラウドさん」
「ん……?」
ただ、会話が無い。しばらく歩き続けて、ファインの方から口を開いてくれて、やっと外での第一声を二人が発し合う。クラウドも口が上手な方でないから、何とか一人足りないこの空気を自分で緩和したいと思っていても、上手いこと話せずにいた中でのことだ。
「サニーのことなんですけど……なんだか、二度と会えないっていう気はしないんですよ」
「……え?」
敢えてここ数日、自分からその名前を口にすることをしてこなかったクラウドに、ファインの方からその話題が飛び出した。何年来もの親友とあんな形での別離、しかも親友の生死不明という現状、思い出させてファインを沈めさせてはいけないと思っていた閉塞感が、不意の形で破られる。
「昨日、クラウドさんにサニーのことを聞いて考えたんですけど……本当、無理に前向きに考えるとかじゃなくって、そんな気がしてるんです。いつかまた、会えるんじゃないかって」
「…………」
「どうしてそう思えるのかは、私にもわからないんですけど……でも、漠然と信じられてしまうんです」
サニーはファインとクラウドを守るため、重装戦士を崖から突き落とし、しかし炎に焼かれて崖下へと落ちていった。確かに、それを聞いた時にはショックだった。思わず涙ぐんできた目を隠すことも出来ず、クラウドをうろたえさせたのは、ファインにとっても申し訳なかった思い出だ。覚悟を決めて聞きます、という前置きの上で、クラウドに心配させてしまったんだから。クラウドだって、そうなるのを見越した上で、作り話を一度作ってきてくれたんだろうし。
ただ、あれから時間が経って色々考えてみると、冷静な頭ではいくつか想い馳せられる。サニーって確かに強いけど、そんな力技であんな大男を、崖下に突き落とすような戦い方を出来たタイプだったかな、とか。応用力と機知に富むサニーのことだから、ここ一番では過去に無い機転を利かせることもありそうだが、あんまりそういう彼女って、今まで見てきたファインのサニー像とは一致しない。それに、ファインも一度、重装戦士の吐く炎には身を包まれたが、サニーだって天人だし、水の守りの魔力は使えるはずだ。まさかその炎で即死ということもあるかもしれないが、無策でそれを浴びる彼女というのも、少し考えにくい。希望的観測ではなく、極めて冷静に理詰めで考え、炎を耐えたサニーが崖下でなんとか落下の衝撃も弱め、生きていてくれることは、充分に期待できることである。
サニーとの付き合いが長いファインだが、それでも彼女の全部を知っているわけではないことぐらい、親しければ親しいほどよくわかる。何度も自分の想像を超えた頭と体で、手を引き続けてくれた姉のような存在なのだ。気付けば目の前からいなくなっていた、生死も不明、だからもう会えない、と断ずるには、ファインの想うお姉ちゃんは小さくない。どうか生きてくれていますように、なんて祈るように想うのではなく、きっと生きていてくれているよね、と、信じる形で願う想いは、冷静になればなるほど自然と沸き上がってきている。
「……ちょっと都合よく、考え過ぎなんでしょうか」
確かめるように問うファイン。サニーとの付き合いがファインほど長くないクラウドには、同じ想いでサニーの生存を願うことが出来ない。どうか無事でいてくれますように、と、闇の底で跪いて祈るような心地でいるのは、ファインよりもクラウドの方こそだ。
だけど、ファインがこう言うんだったら。クラウド目線では知りきっていないサニーを、自分より長く見続けてきたファインの言葉に照らされるかのように、クラウドの心にも一筋の光が差す。
「……いや、大丈夫だろ。あいつ、殺したって死ななそうなイメージどっかにあるもん」
「ふふ、何ですかそれ。サニーが聞いたら怒りますよ?」
元気で、快活で、ちょっと感情的な所もあるけど人情家で。神様に嫌われそうなイメージの無い、サニーの人物像を思い返すクラウドが小さく笑えば、ファインも微笑みかけてくれる。自然と二人の心が接点を持ち、ここにいないもう一人の友達の存在を、形なきままにして無としては認識しない。同じ空の下、どこかで生きている彼女のイメージが、極めて抽象的ながらも不思議と共有できていた。
「あー……告げ口は勘弁してくれよ。あいつ、絡みだしたらしつこいし」
「あはは、わかりました。今のは二人だけの秘密にしておきましょうね」
自然と、無意識に、再会できた時に向けての約束まで果たせた。もしも会えたら、という接頭句も抜かしてだ。ほんのついさっきまで、ファインの前でサニーの名前は禁句だとさえ決めていたクラウドだったのに、それが随分前のことに感じるほど、今のクラウドの心模様は反転している。彼をそうさせたのはファインの迷いのない言葉であり、それは物理的に今日までファインを支えてきたクラウドに対し、今日はファインが精神的にクラウドを支えたと言っても過言ではない。
交わし合う言葉はそう多くないものの、前向きな足を小さな人里で並んで進めていく二人。いつしかクラウドの頭からも、ファインを背負うことも抜け落ちている。それは、心も体も立ち直ったファインの姿を見て、自分の足で歩きたがる彼女の性格を、今日は最も意識できたから。それを許容することが出来なかった昨日までよりも、今日のクラウドには余裕が出来たということだ。連日、気を張り詰めてばかりのクラウドに背負われていたファインもまた、並んで歩くクラウドと笑い合える今日は、昨日までよりずっと明るい笑顔である。
ファインの母、聖女スノウの待つホウライ地方への西向きの旅。太陽が沈むその方角、日が落ちるにはまだ早い。光溢れる真昼快晴の日差しは、今なお苦境を逸しきれていない中の二人を、元気付けて背を押すかのように輝いていた。




