鏡の中の少年
チャイムが鳴る。えーっと、今日何回目のチャイムだっけ。
僕は記憶を辿り、指折り数える。
一限目の始まりと終わりで二回、六限目まであるから十二回。このチャイムは……一、二……十二回目か!
僕はパッと、保健室のベットから跳ね起きた。
「まだかな、まだかなぁ」
保健室からそう遠くはない玄関の鏡の前まで、トテチテと歩いていく。少し大きめに買ってしまった制服のせいで、裾が無駄に余っていて歩きにくいのだ。
「まだっかなぁ」
その玄関の鏡の向こうには鏡に映った玄関の光景……いや、こちらが鏡の中の世界だから逆か。その証拠に僕の世界には誰も居ないのに、鏡の向こう側では何人もの生徒が帰ったり、部活に向かっている。その通り行く生徒が一旦居なくなるタイミングがある。その時に彼女はやってくるのだ。
この誰も居ない空間で過ごす僕にとって、彼女の来訪は気を紛らわすことのできる唯一のものである。
「んー、あとどのくらいで来るかなぁ」
反転した時計を見る。針は逆になった三と六を指している。つまり三時三十分。彼女は恐らくあと五分か十分後に来るだろう。
……昔は夜な夜な、この中に生徒を引きずり込んで、暇つぶしに付き合ってもらっていたが、もう引きずり込む力なんて無いしなぁ。
僕はそっとため息をついた。玄関の鏡からそっと離れ、地面に座って待つ。この世界に汚れるなんて概念はない。この学校が建てられたころから、この鏡が設置されたころからあるこの世界はずっと綺麗なまま、汚れるということを知らない。例え玄関に座り込んだって、埃も砂も付かないのだ。
「鏡君~」
来た。
僕が先ほどまで覗いていた玄関の鏡が少し歪む。そこから、彼女の右手が出て、体と顔が出て、左足が出て、左手が出て、右足が出てきた。こちらの世界に超えてきた。
ちなみに鏡君というあだ名は、僕が『鏡の中の少年』という名前の七不思議であることからきている。
「管理人! 待ってたぞ!」
その声に手を振ってくれる彼女。僕は立ち上がって、彼女の元まで行った。
「いやぁ、やっぱりここは綺麗だね」
彼女は辺りを見回してしみじみと言う。
「まぁ、ここは自動的に綺麗になるからな。……ところで、あ、あの子は元気か?」
僕は、少し声が震えるのを感じる。頬に熱が集まるのが分かる。あぁ、もう! 冷静になれ!
彼女はきっと僕の気持ちに気づいているのだろう。ふふっと笑って、でもその笑みは決して不快になるものではなくて、寧ろ親に温かい笑みを投げかけられるような安心感があって。
「残念ながら、まだ君の気持ちには気づいていないようだよ」
その言葉に僕は今日もがっくりした。あの子は風のように速く、この鏡の前を通り過ぎる。別に話したことがあるわけでもない。それどころか、視線すら合わせたこともない。それなのに鏡の外を、僕と違って自由に駆けていくその姿に僕は。
「まぁ、そんな顔をしないでさ。人生長いんだから、気長に生きようよ」
「……そうだな。まぁ、僕の場合は人生じゃなくて、妖生だけどな」
「確かにっ。妖生はうんざりするほどに長いんだ。だからゆっくり生きようよ」
言い直した彼女の言葉に頷いた。でも、鏡の中に引きずり込むことができないってことは、もう僕らに残された時間はきっと。
「ね、鏡君。また近々、増築されるみたいだよ。この学校ってプールが無かったじゃん? でも、今度の夏休みでプールができるって話してたのを聞いたよ。この学校にもプールは反映されるのかな」
僕は少し考える。こちらの学校は基本的に向こうのことを何も反映しない。たとえば向こうの世界で机を動かしてもこちらでは何も起こらないし、その逆もしかりだ。この学校自身が自分が一番綺麗だと思っている時の姿がこの鏡の中の世界だ。外からばれないように、こっそりと学校自身が作った世界。僕はそこの唯一の住人。
「この学校がプールがある状態を気に入ったら、反映されるんじゃないかな」
「この学校次第……ねぇ。気に入ってくれるといいね」
気に入ってくれたらプールに入れるもんね。彼女はそう言って笑う。
「そう……だな」
いつか、七不思議みんなでわいわい話して、プールに入って、この学校で遊んでみたい。それはどんなに楽しいことだろう。いつかそんな未来が来ればいいのに。
「ん? なんか、考えてる顔をしちゃって~。鏡君にそんな顔は似合わないぞ」
そう言って、僕の頬をうりうりとこね回す。正直、痛い。
「ふぃふぁふぃ! ふぁふぁふぃふぇ!」
僕が涙ながらにそう言ったもんだから、彼女も少し悪かったという顔をして、素直に僕の頬を話してくれた。
ここに空というものはない。学校の外も空も全部、闇で覆われている。時間を教えてくれるものは時計しかない。まぁ、なぜか明るいから別に支障は無いのだが。
「そういや、まだ訊いてなかったなぁ。ねぇ、鏡君は何で風ちゃんのことが好きなの?」
ストレートすぎる質問に僕は、再び顔が真っ赤になる。口をパクパクさせてみるが声は出ない。
「バッ……バカっ!」
やっと出たその言葉に彼女が笑う。彼女にとって僕はからかいがいのあるおもちゃなのだろうか。
僕は一つため息をついた。顔はまだ赤いが、そういえば彼女にはまだ話していない。僕があの子を、廊下を駆ける少女を好きな理由。目の前で少し意地悪そうに微笑んでいる管理人は、この世界とあちらを行き来できる唯一の存在だ。正直なところ彼女の協力は欲しいし、僕は彼女のことを信頼している。そう簡単に他言はしないであろう。
僕は、彼女にあの子を好きになった理由を話そうと決意した。
「……どのくらい前だったかな。そう遠くない昔だと思う。僕らは言ってみれば同じような存在だから、会ってなくても存在するのは分かるだろう? だから僕がこの世界の住民になった時点で、あの子の存在は知っていた。時々、そこの鏡からあの子が走っていく姿も見ていたし」
流石に立ちっぱなしというのも足が痛いので、僕はまた地面に座る。彼女も躊躇なく地面に座った。
「その時は、元気な子だなぁだとか、足が速いなぁだとか、そのくらいにしか思わなかったんだ」
「ふむふむ」
彼女が真剣な顔で相槌を入れてくれる。聞き上手相手に話すと、こちらの気も楽になって話しやすくなるというものだ。
「でもある日、あの子がこっちを向いた。今まで、走ってる横顔しか見れなかったもんだから、初めて正面から見た顔に僕は……一目惚れってこういうことを言うのかって身をもって知ったよ。でも残念ながら、僕のことには気が付かないみたいだった。視線がこちらを向いたかなって思ったら、すぐに違う方に行っちゃったからな。視線を合わせたことも話したことも無いけど、それからずっとあの子のことが気になって、夜しか眠れない」
「夜しか寝れないのは普通だよ」
彼女の笑い声とともに突っ込みが返ってくる。僕の渾身のギャグがスルーされたらどうしようかと思った。
「それにしても、そんなことがあったんだねぇ。いやぁ、若いっていいなぁ。うらやましいなぁ」
しみじみと彼女が言う。いや、見た目の年齢は僕とほとんど変わらないんだけど。
「……今の話、あの子に言うなよ」
ボソッと呟いたその言葉に彼女はまたもや笑う。本当に笑顔がよく似合う管理人だ。
「言わないよ、安心してって。あー、もうこんな時間か」
彼女が反転した時計を見る。こんな話をしていたら、もう四時を少し過ぎた時間だ。
「もう行くのか?」
僕は普通に言ったつもりだったのだが、もの惜しげに聞こえたのか彼女はちょっと寂しげに笑う。
「もう行かなきゃ。今から食堂に行ってくるよ」
「そうか。……色々、抱え込むなよ」
いつもならここで素直にバイバイと言うのだが、僕が今日言った言葉は違う。その言葉に彼女は少し驚いた様子で、何も言わなかった。僕はそんな状態の彼女に更に言葉を重ねる。
「……抱え込みすぎるな。僕らの誰でもいいから、相談できる奴に相談しろ。僕はいつでもこの世界に居るから、いつでも相談に乗れるし」
七不思議の中には出現する時間が限定されているものも居る。しかしその点、僕はそのような時間制限は無いから気楽なものだ。
「……あーあ。鏡君って妙に勘が良いところがあるから嫌だなぁ」
「僕だって、何でこういうことを言ってるのか自分でも分かんない」
でも、でも最近の彼女は何だか元気がないのだ。笑顔が多すぎるのだ。
「でも、鏡君は一番影響受けてるんだから、薄々気が付いてるでしょ?」
その静かな問いに、じっと目を見られ言われたその問いに僕は答えることができなかった。
「……ま、この話はこれで一旦終わりね。また今度、気が向いた時でいいから私の相談に乗ってやってよ」
彼女はそう言った。今度は困ったような笑いは無かった。
「ん、いつでもいいよ。行ってらっしゃい」
「はーい」
彼女は立ち上がり、玄関の鏡に向かって歩く。僕もそれについていった。
「そう遠くない未来にこの校舎でみんなと会えるかもね」
独り言のように放たれたその言葉。僕はその意味を考える。
彼女は玄関の鏡に来た時と同じように再び手を伸ばし、鏡に触れた。一瞬間があって、カチャンと小さく何かが外れた音がする。
「毎回、お見送りありがとねー。んじゃ」
彼女に手を振りながら、僕はまだその意味を考えていた。
ここで七不思議みんなと会える。僕がついさっき願った未来がそう遠くないと、管理人である彼女から言われた。それは僕が願った未来のはずなのに、どうしようもなく怖くて、恐ろしくて、それに耐えられなくなった僕は思わず膝を抱えてしゃがみ込んだ。
漠然とした不安を抱きながら。
反転した時計は無情にも、一定の早さで時を刻んでいた。
誤字・脱字の指摘やアドバイスなどをいただければ、嬉しいです。
……このあとがきがテンプレ化している今日のこの頃。