子どものこころ
『きみの……』
歌はわたしの耳から
胸のもっとも深いところまで届く。
鼓動は苦しいほどに高まってくる。
みぎにひだりに揺れる声の
やわらかな呼びかけに答えるように。
春の終わりを告げる艶めいた風を
思わずに胸一杯に吸いこみ、
誰もいない夜の歩道を歩く。
かつて父と母と姉と
不意に泊まったホテルの前で立ち止まり、
母の窮屈と父の限界を思う。
朝の一杯の粥に写る
ひとときだけの
穏やかにありふれかった母の……
激しくも叶わなかった父の……
ただ子どもであったわたしと姉の……
『溜め息……』
歌はわたしの耳から
胸のもっとも深いところまで届く。
たまらない思いを抱えてついていた。
夜七時の階段の二段目に座って、
甘えられず頭を抱えていた。
若葉のころに梢を見上げて、
こんなに美しいのは悲しいからだと、
いつも疲れていたわたしの
混ざりたかった少年の群れ。
名前を付けられた赤の
あまりにも多様な夕暮れに
こころ締め付けられた帰り道は、
どこへ本当は帰りたかったのだろう。
かなしみは星の夜に降って来て、
いなくなった面影を思い出させる。
無邪気であたたかい光は……
鋭くも優しい光は……
届いてきたちいさな光は……
『夢……』
歌はわたしの耳から
胸のもっとも深いところまで届く。
いつかきっと何もかもが
大丈夫になると、
祈るように信じていた
子どものこころ。
*
ずいぶんと私小説的な詩です。
この詩は、ある曲(複数)を聞きながら書きました。『きみの』『溜め息』『夢』はどれも実際の歌詞に出てくる言葉です。
ある日、母が急に家へ帰らなかったのです。あるホテルに泊まっているからと電話がかかって来たのでしょう。父とわたしと姉は迎えに行ったのですが、結局四人でそこへ泊まりました。翌朝の朝食に茶粥が出たのでした。今思い出すと、両親はどんな思いでそれを口にしたのでしょうか。チェックアウトの時は迫り、戻りたくない日常へ引き戻される最後の食事のような……
子どものころ、名前と実際のものとに関連がなかなか見いだせませんでした。例えば、動かない写真を指して『犬』と言われても、まったく現実感がなくて戸惑っていました。色に対しても、『赤』と呼ばれる色のあまりにも多様なことに打ちのめされていました。
最後から三連目の四行目に出てくる「ちいさな光」は、わたしの生まれてすぐに亡くなってしまった弟のことです。今でもいたらいいなと思うことがあります。
お読み頂いてありがとうございます。