六十三億分の一 その2
『民宿 あさくら』は海辺に位置するしがない宿屋で、不景気なご時勢家計が火の車なのは今に始まったことではない。創業は祖母の代であり、一昨年の代交代を経て今や三代目。昔にしては立派だったのであろう構えはもうなく、先月の雨漏りに始まり老朽化は進む一方である。
近代化に次ぐ流行というやつか、昨年目と鼻の先にホテルだのという田舎にも似合わぬ建物ができた。まったく迷惑きわまりないことであるが、部屋もきれいなら温泉つきで飯もうまいとの評判。少ない客もどんどん吸い取られ、今では残ったお得意様や年に数回の団体客でなんとか生きながらえている始末。
そんななか昨日、妙に顔色の優れない客が宿泊したいとあわられた。あまりにも血色が悪いものだから、すぐに布団をしき解熱剤を渡した。
宿泊していく年齢層と比べてやけに若い客だ、と思った。年は娘とほとんどかわらないだろう。そして、近所の高校生ならまずこんなところにはこない。
長年店を回してきた女将の朝倉俊子は経験上、この手の客と余り関わりにならないほうがいいと知っている。
十中八九家出だろう、と俊子は思う。イントネーションもこの辺りのものとはすこし違って聞こえた。
海に何を思い馳せてきたのか知らないが、この風邪を期に家に帰って欲しいものだ、と俊子は思う。
――きっと親御さんも心配していることだろう。
二子の母としての、率直な気持ちだった。
しかし、まずは風邪を治さなくてははじまらない。小皿に受けた味噌汁を味見すると満足げにうなずき、鍋のふちをカンカンと叩く。
せめて客は客としてしばしの療養をしていって欲しいものだ。余り関わりにならないほうがいいと知っていても、一女将としてそう思った。