六十三億分の一 その1
人生に一度くらい、自分の力だけで行けるところまで行ってみたいのだ。海に向けて原付を走らせ、田舎道を駆け抜けた。本当なら、そのあと海辺の民宿にでも泊まって、うまいもんでも食って、温泉に入るつもりだった。
ああ、どこでなにを間違えたのだろうか。もしかしたら間違いはもっと前にあったのかもしれない。
海まで行こうだとか、考えるよりずっと前に自分はおかしくなってしまっていて、たまたまそれがそのときに重なっただけ。そういう可能性もないわけではない。
――ならば、あれは夢だったのだろうか。
全部が夢、だとはさすがに思わない。かばんにねじ込んだ生徒手帳は紛れもない、不確かだが確かな証拠。
ただ、どこまでが本当でどこまでが夢なのか。
そもそも自分ははたして海に出向いていたのだろうか。かばんの中には着替えたはずの服も、なるみに渡したはずの服も、いずれももとのまま入っていた。
わからない。事実は見ず知らずの人物の生徒手帳と、目覚めたところがコインランドリーであったという、このふたつ。
――やはり頭がおかしくなってしまったのだろうか。
それはとてつもなく恐ろしいことだ。自分が見てきたと思い込んでいる「事実」をすべて「妄想」という言葉でかたずけてしまうという完全な否定。自分はまともだ、という確固たる自信が逆に不安を増徴させていく。だが、仮に異常者とするならばその人の言う「まとも」なんて、糞ほどにも役に立たないだろう。
――体調は最悪だというのに、脳みそばかり回転する。はやく眠ってしまいたいというのに、周期的に不安の波が心臓を揺さぶる。
気づけばカーテンの隙間から光がさしている。ほとんど眠れぬうち朝を迎えてしまったようだ。
客間を改造してつくったと思しき畳張りの一室。あるものはというと、バカでかいブラウン管のテレビと机に置かれた湯沸しポットくらい。こんな部屋にとまるのは中学の研修旅行のとき以来だ、と一博は改めて思った。
件の事件のあと、一博は本来の予定通り民宿を探した。予定とひとつ違うことといえば、条件にあの海辺から近い民宿であるということ。
一博が民宿に現れたときの顔はそうとう酷いものだったらしい。チェックインを済ませると、女将さんはすぐ部屋に布団をしいてくれて、薬まで持ってきてくれた。
薬を飲むと崩れるように布団になだれ込み、うまいもんも食わず、温泉にも入らず、あまり眠ることもできなかったが、ずっと目を瞑っていた。
眠れなかったのは事実だが、昨日の事を思えばすこしはマシになったとは思う。それにすこしはお腹もすくようになってきな。なにせ丸一日何も食べていない。すこしくらいは腹に入れないと本気で倒れかねない。
もぞもぞと布団から抜け出すと、一博は朝食を求めおぼつかない足取りで部屋を出ていった。