ファースト・コンタクト その3
何時間もかけてきたせいか想像が膨らんでしまい、意外と花火やたき火の跡で汚れた海を見てすこしげんなりとした。海に来るのは何度目だろうか。覚えてはいないが、両手で数えられる程度だと思う。
キャンプをしている輩もいなければ、夜の海を見にくる殊勝なアベックもいない。空ではすこし欠けた月が天上から降りようとし始めている。海は秒針を刻むように波が浜に打ち付け、音を立てては消えていった。
せっかくきたのだから海に入るくらいしていこうと思った。
幸いにも生き延びるための荷物の中にタオルは何枚か入っている。夏の海とはいえ夜は冷えるので、泳ぐとまでいくとさすがに気が引けるが、足をつけるくらいどうということはないだろう。
くつ下を脱ぎくつに突っ込んだ。
こんなことならサンダルできたほうが正解だったのではないかといまさら思う。くつを浜にほっぽり出すとズボンを膝までたくし上げ、海にざぶざぶとに入っっていった。予想外に冷たくて、やはり泳ぐのはむりと悟った。
波が足に行く手をさえぎられている。足の下で流水が砂を削り、くるぶしまで砂に埋もれた。波がやってきては砂を削りより深く足が埋もれていく。そんな光景が新鮮で、なんだか楽しくなり長い間足を砂に埋めて遊んだ。
何度波が行き来したころだろうか。覚えず、波はおさまり、あたり一面何も聞こえなくなった。
そのときふと、これから始まるはずの夏休みがこれで終わってしまうかのような錯覚を覚えた。いい年になってそんなセンチメンタルな気分になったことがすこし恥ずかしく、もう戻ろうと水平線に背を向けた。
そのときまで気づかなかったのだ。
あまりにもそれは予想外で、足に根でも生えたように動けなくなった。本当に、なぜそのときまでその存在に気づかなかったのだ、と一博は思う。それはすぐ数メートル後ろの浜から自分を見つめていたのだ。それ、というのはすこし語弊がある。一博のすぐ後ろにはひとりの少女が立ちすくんでいたのだ。
「――あ、」
口が回っていない。まず口を開くべきなのかもわからない。一博は石にされたかのように少女から目が離せないでいた。
面食らったのはなにも突然であったことだけではない。
なんせめちゃめちゃ美人だった。
栗色の肩にまでかかる髪にすこし幼さを残す顔立ち。年は一博よりもひとつかふたつ下であろうか。線が細く風でも吹いたものならば消えてしまいそうなほど儚げな表情。
一博はとっさに彼女は幽霊だ、などと思った。
第一さっきからぴくりともしないのだ。それに加えてなぜか少女は学校の制服を着ていた。
高校生であろうが中学生であろうがとっくに夏休みに入っている。そもそもこんな夜中にあの格好はあまりにも無用心で不自然だ。ついでに言うなら今はお盆の真っ最中。さらに時刻は午前二時、丑三つ時。お盆に姿を見せた水死の幽霊。
そう、女子高生の。
意味がわからないがなぜか妥当と感じてしまう。美人だが、それがゆえに気味の悪さが際立っていた。
「あの――」
と、言いかけたところで一博は気づいた。少女の目はちっとも自分を映してはいないことに。もっと、なにか遠くを見るような目で、もはや自分のことなど眼中にはないような様子だった。
はっ、と後ろを向いたもののそこには海しかない。
と、そのとき、
「なにしてるの」
びくっ、と一博は肩を震わせた。
それを見て少女は小首を傾げる。
「なにしてるの」
録音してある言葉をもう一度再生したかのように繰り返した。ビー玉みたいなくりくりとした瞳で、近所の子供にはなしかけるかのように聞いてきた。そこでやっと自分に対して聞いているのだという当たり前の事実に気づき、
「えっと、海――あ、そう、海を見に」
何を言っているのだ、と自分で思う。そんなことは見ればわかることではないか。しかし少女は、
「そう」
とだけ言うとこっちに向かって歩き始め、目と鼻の先で立ち止まり、一博を見上げた。
一博はうっ、と息を呑んだ。
顔立ちのせいでもっと小柄だと思ったが、意外とすらりとしており、身長はあった。ガラスでできたような澄んだ瞳がまっすぐに自分を見ている。むしろ「捕らえている」というほうがただしいかもしれない。事実、一博は少女に見つけられている約十秒間、時が止まったように感じた。
波はなおも静かで、風はしんとしている。
たぶんその間、呼吸も、心臓も、何もかもが静止していた。
少なくとも、一博にはそう感じられた。
永遠ともよべる十秒がすぎると少女は何も言わず、ましてや水の音も立てずに一博の脇を通り過ぎていった。
一博は大きく息をついた。視界から少女が消え、やっと呼吸をすることが許された。心臓も順調に脈を打ち始める。そういえばあの少女はいつ靴を脱いだのだろう、とどうでもいいことが頭をよぎった瞬間、
心臓が大きく跳ねた。
ばっ、と背を向くと少女はすでに胸辺りまで海水に浸かっていた。
「え、ちょ、まって!」
じゃぼじゃぼと水を割っていくが少女は振り向きもしない。とっさに浮かんだワードは「自殺」という単語だった。逆に納得がいった。幽霊じゃなければ自殺をしにきた人間。ならばあの今にも消えそうな存在感にも納得がいくことだ。
納得がいったところで放っておけるわけがない。
水中を歩くのは至難の業だ。水というものは思いのほか重い。必死で海水をかきわけても思うようには進まない。
服は完全に水没し、少女の肩を掴むころには、一博は足がつくかつかないかのところだった。
肩を掴まれた少女は「突然なに?」とでも言いたげな表情でこちらを向くがそれどころではない。首根っこをひっ捕まえると岸に向けて泳ぎだした。
なんせ足元がぎりぎりなせいで踏ん張りがきかないのだ。
少女はあんのじょう流木かのごとく一博に身をまかせ、何もしようとはしていない。こんな身動きのとりにくい水の中で、ましてや服まで着た状態の中、気でも抜いたらものなら本気でふたりともおぼれてしまう。
実のところ、半分くらいおぼれかけていたかもしれない。
突然海に放り出された犬のように必死で泳いだ。
もう何十メートルも泳いだ気分でいた。波や比較するものがないためわからないが、おそらく実際は五メートルくらいのものだろう。一博はそこが腰くらいまでしか海水がないことに気がついた。
少女から手を離し、両足を踏みしめ、呼吸をととのえる。水の中を動くのがこんなにもハードだとは思わなかった。それだというのに後ろの少女は涼しい顔でこちらをおろし、こんなことを口走りやがった。
「――なんのよう?」
さすがにカチンときた。
「何のようじゃないだろ!」
もうすこしでおぼれるところだったんだぞ、と。それにも少女は小首をかしげるだけである。
今ので一博は確信したことがある。この少女は幽霊でもなければ自殺志願者でもない。たぶんもっと行くところまでイッている。
おそらく精神病院か何かから抜け出してきたに違いない。若いのに可哀想だ、と一博は思う。きっとテレビか何かで海を見たのだろう。海水浴をする楽しそうな光景を見て、自分も泳ぎたいとでも思ったのかもしれない。
そうして、こんな真夜中に病院を抜け出し海までやってきたのだ。
そう思うと、なんだか不憫に思えてきた。
「君、名前は?」
最悪警察にでも押し付ければなんとかしてくれそうではあるが、それは何だかかわいそうだ。少女はすこし思案をめぐらせたあと、
「なるみ」
と。
「ななせ、なるみ」
聞いたのは自分なのに、なぜかこの少女にも名前があるのだ、ということに驚いた。
「年はいくつ?」
「じゅうなな」
一博は同い年であるということに本気で驚いた。あとは何をたずねたものか、とずぶぬれで思案していると、今まで黙りこくっていた風が急に吹きつけてきた。
「と、とりあえず海から上がろうか」
はやくしないと風邪ひきそうだ、と一博はくだけた笑みでなるみを見た。
そいつがまずかった。
両者ともにずぶぬれであるということを理解したうえで直視してしまった。加えるならば、最初に胸元に目がいってしまったのも男の性であろうか。一博はとっさになるみから目を背ける。
――それは反則だと思う。
水に濡れた制服が肌に密着し、体の凹凸からブラの柄まではっきりと見えてしまった。高校三年生にもなってそんなことでドギマギしているというのも恥ずかしいが、なれていないのだからしようがない。ピンクであるという衝撃が体中を駆け巡ってどうにかなりそうだった。
煩悩ばかりが頭にちらついてなるみを気にする余裕がなかったが、黙って岸に向かう自分の後ろをちゃんとついてきている気配はあった。はやくあがらないとなるみもそうだが、自分も風邪をひいてしまいそうだ。なるみはひな鳥かのように一博の後ろをぴたりとついてきていた。
しかしまあ海にまで来て余計な拾い物をしたものだ、と一博は思う。まるで飼えもしない捨て猫を拾ったような気分だ。もとの場所に捨てるのはさすがにかわいそうだから、飼い主を見つけるしかない。
さて、どうしたものか。
実のところ、それに関してはさほど心配していない。名前もわかり会話が成立することもわかった。年齢もおなじくらい。意外と素直そうだし、きっと話せばわかってくれるだろう。
今はそんなことよりも、かばんの中に着替えが二着入っていたかどうかのほうが心配であった。