「名など飾り」と見限られた私は、帳面を証に店と席を一つずつ奪還。全て私のもの、戻れと言われても断ります
「お預かりしております」
バルドはそう言って、沽券を伏せた。紙が卓へ触れる乾いた音のあと、オスカーの口もとで小さな笑いが弾けた。
「お父様に任せておけば間違いないよ。君は女主人ごっこなどせず、妻らしくしていればいい」
伏せられる寸前まで、セシリアの名は見えていた。実家から伴った店、貸家、家財。その名義はどれもセシリアのまま、ただ紙の表裏だけが変えられた。
親族たちは卓を囲み、バルドの語尾をなぞった。
「家のためにお預かりするのですものね」
「若い奥方には荷が重いでしょう。家のためですわ」
客間へ戻ると、窓際に置かれていた椅子が壁際へ移されていた。午後の光が届く場所には、親族から届いた飾り棚が収まっている。セシリアの椅子は、その脇で背を半分ほど隠していた。
夕食の席にセシリアの椅子はなかった。それでも翌朝には店へ出るよう言いつけられた。仕入れの帳面が乱れている、職人への支払いが遅れている、店番が役に立たない——バルドはそれらを家の者へ向ける声で並べ、最後だけ顎をセシリアへ振った。
「嫁の務めだ。家のために整えておけ」
「承知いたしました、お義父様」
三年のあいだ、セシリアは帳場に座った。夜明け前に届いた荷を数え、染めにむらのある布を戻し、職人ごとの支払日を帳面の余白へ書き直した。遅れていた銅貨が渡ると、職人の指から墨のついた受領紙が一枚ずつ離れた。
ヨナスは古びた算盤を帳場の右へ置き、必要なことだけを告げた。
「北の貸家、屋根の直しが要ります」
「二階の窓から先に。幼い子がいる部屋です」
「手配します」
セシリアが直した帳面を、バルドは客の前で自分の手柄として開いた。オスカーは売上の増えた頁だけを見て、妻の席には一度も腰を下ろさなかった。
「細かなことが好きなのは助かるよ。女は飾りか帳面くらいがちょうどいい」
セシリアが店番へ渡す賃金を数えているときだけ、オスカーの声は帳場まで届かなかった。彼は表の客と笑い、バルドは仕入れ先へ「わが家の店」と書き送った。名前のない働き手は便利である。婚家の言い分は、それだけだった。
月の終わり、セシリアは帳場の奥にある書棚を開けた。沽券の束は、婚家の帳面の下に押し込まれている。綴じ紐をほどくと、貸家、家財、店の順に、見覚えのある紙が現れた。
紙端には、三年分の指の脂が薄く残っていた。けれど記された文字は削られず、上書きもされていない。
セシリアは自分の名の頭を、人差し指でひとなでした。
(名など飾りだ。握ってしまえば、こちらの物だ)
扉の向こうで、バルドが客へ笑っていた。セシリアは三枚を元どおりに重ね、綴じ紐を結んだ。
「一つずつ、取り戻してまいります」
声は帳面の列から外へ出なかった。ヨナスは算盤を弾く手を止めず、ただ一粒だけ、戻す方向を違えた。
* * *
最初に卓へ置いたのは、北の貸家の沽券だった。
朝食を終えたばかりのバルドは、椅子から立とうともしなかった。オスカーは窓辺に寄り、親族たちは茶器を手にしたまま、セシリアが紙を開くのを眺めていた。
「何のつもりだ」
「北の貸家について、今後の差配を改めます」
「それなら店で聞こう。家の話を朝から持ち込むものではない」
「家賃の受取先も、修繕の手配も、来月からわたくしが行います」
バルドの指が肘掛けを二度叩いた。
「おまえに任せていたのは実務だけだ。貸家はこの家がお預かりしている」
「では、お義父様のお名前をお示しくださいませ」
セシリアは沽券を回さなかった。文字がバルドから読める向きに置き、自分の指だけを紙端から離した。
バルドの手が卓上へ伸びた。紙の半ばまで来たところで止まり、代わりに茶器を引き寄せる。受け皿と底が触れ、細い音を立てた。
「名の話などしていない。家のために使ってきたと言っているのだ」
「はい。どなたのお名前でしょう」
親族の一人が扇を開いた。
「まあ、一枚くらい。奥方に返して差し上げても、旦那様のお懐は痛みませんわ」
「そうですとも。旦那様がお許しになるなら」
許しという言葉だけが卓の上を渡った。そこへ添えられる名はなかった。
バルドは茶を飲み、空の器を置いた。
「好きにしろ。返してやる」
「ありがとうございます」
セシリアは礼をしなかった。沽券を二つに畳み、胸元の書類入れへ収めた。卓に残ったのは、紙を押さえようとしていたバルドの手だけだった。
その日のうちに、北の貸家から店へ修繕の相談が届いた。ヨナスが文面を読み上げると、セシリアは屋根板の数と職人の空く日を確かめ、返事を書いた。
「宛名は、こちらでよろしいですか」
ヨナスの指は、婚家の名を書きかけた位置で止まっていた。
「わたくしの名でお願いいたします」
墨の線が一つ、紙の上で行き先を変えた。
* * *
二枚目は、セシリアが持参した家財を記した沽券だった。
数日後の夕刻、セシリアは同じ卓へ紙を置いた。前回は椅子に沈んでいたバルドが、この日は肘を卓へ載せている。オスカーは沽券を見るなり鼻で笑った。
「今度は何だ。椅子や棚まで数え始めたのか」
「こちらに記された家財を、客間と店から新しい帳場へ移します」
「妻の物なら、うちの物だろう」
オスカーの笑いにつられ、親族の口もとが同じ形になった。バルドは息子を止めず、卓上の紙を顎で示した。
「家へ持ち込んだ時点で、家のために使うのが筋だ。それを今さら運び出すなど、嫁として恥を知れ」
「オスカー様のお名前は、どちらにございますか」
「そんなことを言っているんじゃない」
「では、お義父様のお名前でしょうか」
オスカーの指が紙の上を滑った。欄を一つずつ追う速さは、次第に落ちた。紙の端まで来ると、彼は父を見た。
「父上?」
バルドは答えず、卓の傷へ視線を落とした。オスカーの指先が、何も書かれていない余白を押さえた。
親族の一人が口を開いた。
「家のために——」
その先を継ぐ者はいなかった。扇が閉じられ、茶器が受け皿へ戻された。
「移すのは、帳場の机と椅子、書棚です」
セシリアは紙を自分の側へ引いた。
「客間の飾り棚には触れません。あれは皆様から婚家へ贈られたものでございますから」
壁際に追いやられた椅子だけが、セシリアとともに客間を出た。翌朝、ヨナスと職人が帳場の机を持ち上げると、床に四角く色の違う跡が現れた。
バルドは店の入口に立ち、運び出される書棚を見ていた。
「家の物を勝手に——」
声は荷車の車輪に遮られた。オスカーは父の隣にいたが、前のようには笑わなかった。
新しい帳場といっても、婚家の店とは別の空き部屋に机を入れただけだった。セシリアは運び込まれた机の脚を布で拭き、引き出しへ貸家の沽券と家財の沽券を並べた。ヨナスは二枚を同じ向きにそろえた。
「店の分は」
彼はそれだけを言った。
「明日の仕入れは、何件でしょう」
「五件です」
「職人への支払いは」
「十二人分。遅れはありません」
セシリアは引き出しを閉めた。ヨナスも、それ以上は尋ねなかった。
* * *
二枚の沽券が卓から消えると、婚家で呼ばれる名も変わった。
「嫁」と呼んでいた親族は「セシリア様」と言い直し、オスカーは店の支出を尋ねるたびに父の顔を見るようになった。バルドだけは「家のため」を繰り返したが、命令のあとには必ず、帳場から返事が来るのを待った。
残った一枚は店の沽券だった。
セシリアは閉店後、書棚から束を出した。綴じ紐をほどけば、紙の上に店の間口と奥行き、そして所有者の名が現れる。名は三年前と同じ濃さで残っていた。
外では、職人が明日の荷を運び込んでいた。若い店番が受取数を読み上げ、ヨナスが帳面と照らす。奥の作業場からは、木箱を閉じる槌の音が一定に続いていた。
セシリアの指が綴じ紐の上で止まった。
「南の職人から、来月分を前倒しできないかと」
ヨナスは帳面を開いたまま告げた。
「奥方様が整えた支払いなら、材料を増やせるそうです」
「婚家の店への納入ですか」
ヨナスは答えず、頁の角をそろえた。店名を書く欄は空いている。
入口の鈴が鳴った。使いの者が一通の私信を差し出し、返事は明日でよいと言って去った。封には、セシリアが実家にいた頃から取引のあった老主の名が記されていた。
紙は厚く、文は短かった。
『どこで店をお開きになっても、同じようにお付き合いします』
その下には、次に必要な品の数だけが並んでいた。婚家への挨拶も、バルドへの伝言もない。
セシリアは文をもう一度読んだ。窓の外で槌の音が途切れ、荷を積み終えた職人たちが戸口で帽子を取った。
「明日も、同じ刻限に参ります」
「ええ。お待ちしております」
職人たちが帰ったあと、ヨナスは沽券の綴じ紐へ手を伸ばした。一度ほどき、端をそろえ、前より固く結び直す。その手が結び目の上で止まった。
「私信は、帳面に挟みますか」
「いいえ。こちらへ」
セシリアは胸元の書類入れを開いた。私信は二枚の沽券の上に重なった。
ヨナスは店の沽券を棚へ戻さなかった。紐を結んだ束を、セシリアの机の中央へ置いた。
* * *
翌朝、セシリアは店の沽券を一枚だけ持って広間へ入った。
バルドは朝食の席にいた。オスカーと親族もそろっていたが、誰の前にも茶は注がれていない。セシリアが紙を置くと、バルドの手が先に卓へ載った。
「それは店のものだ」
「店の沽券でございます」
「持ち出すことは許さん」
バルドの声は、貸家のときより一段高かった。セシリアは紙を開き、折り目を指で平らにした。
「持ち出すのではございません。わたくしの帳場へ置きます」
「同じことだ。店は家の商いだぞ」
「父上、名は」
オスカーがバルドの袖をつかんだ。前に沽券をなぞった指は、今度は紙へ伸びなかった。
「父上の名は、どこにあるんだ」
「黙っていろ。これは家の差配の話だ」
バルドは袖を振り払おうとしたが、布だけが引かれ、腕は動かなかった。親族の一人が「家のために」と口にし、隣を見た。隣の者は紙面から目をそらした。
セシリアは自分の名の頭を、人差し指でひとなでした。
紙を自分の側へ引く。バルドの手は端を押さえようとし、間に合わず卓板を擦った。
「待て」
初めて、バルドが椅子から立った。
「話が済んでいない。店をどうするつもりだ」
「開店前の荷を受け取ります。支払いを済ませ、職人へ次の数を渡します」
「そういうことではない! その沽券を持っていけば、こちらに何が残る」
セシリアは紙を二つに畳んだ。バルドの問いに答える名は、卓上のどこにもなかった。
「セシリア」
オスカーが妻の名を呼んだ。三年のあいだ、店では一度も使わなかった呼び方だった。
「君はこの家の妻だろう。店に残ればいい。今までどおり帳場を任せる」
セシリアは畳んだ沽券の角をそろえた。
オスカーは父の袖をつかんだまま口を閉じた。
「部屋も広いところへ移せばよい」
バルドは卓を回り込んだ。紙ではなくセシリアへ手を伸ばしかけ、店のある方角を見た。
「家の者として遇する。だから沽券はここへ置け。商いを止めるわけにはいかんのだ」
セシリアは書類入れへ紙を収めた。留め金の閉じる音が、誰の声より先に広間を渡った。
客間では、荷造りが終わっていた。衣装箱は一つ、書類箱は一つ。壁際にあった椅子は先に新しい帳場へ運んである。
ヨナスが廊下で待っていた。帽子を両手に持ち、セシリアの書類箱を見てから、広間の扉へ目を向けた。
「奥方様」
「もう、その呼び方は要りません」
「では、セシリア様」
彼は帽子の縁を握り直した。
「次の帳場にも、わたしの席を頂けますか」
セシリアは書類箱を持ち替えた。指に食い込んでいた取っ手の跡へ、少しずつ色が戻る。
「古い算盤の置き場所が必要ですわね」
「右側であれば、ほかには」
「空けておきます」
ヨナスは帽子をかぶり、書類箱の重い方を持った。
店番が二人、帳場の戸口で待っていた。職人から預かった注文票を手にしている。セシリアが外へ出ると、彼らは婚家の広間ではなく、荷車の隣へ並んだ。
バルドは玄関まで追ってきた。
「店の者まで連れていくつもりか」
ヨナスは振り返らなかった。店番たちは注文票の宛名を確かめ、荷車へ積んだ。
「明日の荷は、どちらへ」
セシリアは新しい帳場の方角を示した。
「同じ刻限に、そちらへお願いいたします」
車輪が動き出すと、婚家の前に積まれていた空箱だけが残った。
* * *
新しい店の帳場には、右側にヨナスの古い算盤が置かれた。
貸家の家賃が最初の仕入れへ回り、家財の机と書棚が仕事場を整えた。老主から届いた品には、セシリア個人宛ての納品書が添えられていた。店番たちはその名を上にして綴じ、職人たちは同じ帳場で次の支払日を聞いた。
婚家の店へ、三度目の荷車が来た。
バルドが門へ出ると、仕入れ先は注文票を開いた。セシリアの確認も、前の代金もない。
「家の店だ。荷を下ろせ」
荷車は門前で向きを変えた。門が閉じたあと、空になった帳場には、机の脚が残した四角い跡だけがあった。
四度目の朝、バルドはその空いた帳場を背にして新しい店へ来た。
仕立てのよい上着を着ていたが、裾には道の泥がついていた。供の者もオスカーも連れていない。入口の鈴が鳴ると、ヨナスは算盤から顔を上げ、客へするのと同じ礼をした。
「ご用件を承ります」
「セシリアを呼べ」
「店主は帳面を確認中です」
バルドの口が動き、閉じた。かつてなら、ヨナスへ向けた声はもっと大きかった。
セシリアは奥の机で、職人への支払いを数えていた。銅貨を十枚ずつ重ね、帳面の数字と合わせてから、ようやく顔を上げた。
「お義父様。何かご注文でしょうか」
「家へ戻れ」
バルドは帳場の中へ一歩入った。ヨナスが何も言わず、その一歩分だけ算盤を手前へ引いた。
「店が回っていない。おまえが勝手に人も品も動かしたせいだ。名など戻せばよい。また一緒に店をやろう」
バルドの視線はセシリアの顔を通り過ぎ、背後の書棚へ移った。老主から届いた品、職人ごとに分けた支払袋、店番の予定表。彼が見ているあいだにも、戸口で次の荷が受け渡された。
セシリアは銅貨を数える手を止めた。
「戻すも何も、この沽券の名は、はじめから書き換わってはおりませんのよ」
バルドの手が帳場の縁をつかんだ。指の間で、古い木目が白くなった。
「ならば、あの店も家も、おまえの名のままでよい。それでいいだろう。使うのはこちらでも変わらん。ヨナスも戻せ。仕入れ先には、おまえから話を通せば済む」
「ヨナス」
セシリアが呼ぶと、彼は算盤の一粒を弾いた。
「今月分の支払いは」
「すべて本日中に終わります」
「次の荷は」
「老主より、明朝届きます」
バルドは店の奥を見た。空いている椅子は一脚もなかった。
「家のためだぞ、セシリア」
「一つずつ、取り戻してまいります」
セシリアは銅貨の続きを数えた。十枚目を支払袋へ入れ、綴じ紐を結ぶ。バルドの手が帳場から離れても、誰もその袋を婚家の側へ動かさなかった。
入口の鈴が、もう一度鳴った。次の取引先が入ってくると、ヨナスは扉を広く開けた。
「お帰りでしたら、こちらでございます」
バルドは振り返り、店先に積まれた荷を見た。セシリアには何も言わず、泥のついた裾を戸口へ向けた。
翌朝、セシリアは三枚の沽券を新しい綴じ紐でまとめた。貸家、家財、店。最初の一枚を開き、自分の名の頭を、人差し指でひとなでる。
ヨナスが壁へ金具を打ち、店番が踏み台を支えた。沽券は名の見える向きで、帳場の正面に掛けられた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




