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嘘をつく妹に惚れ薬を飲ましてみた

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/07/18

真実薬じゃなくて、惚れ薬だったら

 婚約破棄の言葉が告げられたのは、侯爵家の応接室だった。


「申し訳ないが、君との婚約は白紙に戻させてもらいたい」


 そう言ったのは、王都でも名の通った青年伯爵、カイル・エルバート。


 隣には、セレナの妹リディアが立っていた。潤んだ瞳で兄のように慕っていたカイルを見上げ、震える声で言う。


「……お姉さまに、酷いことをされたんです。わたし、ずっとカイル様のことをお慕いしていたのに、姉さまはそれを知っていて――」


 セレナ・ヴァルシュタインは、まっすぐリディアを見た。表情は変えない。けれど、長年の経験で分かっている。リディアは今、また嘘をついた。


 リディアはカイルに対し、ありもしない事を吹聴していたのだ。


 いわゆる風評被害である。


 父の前で泣いて叱責を逃れた時も、舞踏会で誤ってドレスを踏んだ相手を陥れた時も、あの子は一度も罪を認めたことがない。


 セレナは、淡々とした表情のまま頭を下げた。


「婚約の件、了承いたします。ご決断に異議はありません」


 感情は表に出さなかった。ただ、この場に長く留まっていても意味はない。それだけは確かだった。


 ◇


 その日の夕方、セレナは敷地内の離れへと足を運んだ。


 建物の扉を開けると、先に到着していたアネット・シュトレインが、ティーカップを片手に窓辺で足を組んでいた。


「おかえり、婚約破棄された可哀想な令嬢さん」


 いきなりの軽口に、セレナは思わず苦笑する。


「そういう言い方、やめてくれる?」

「でも事実でしょう?ほら、座って。ちょうど紅茶がいい具合に冷めかけてるわ」


 どこか他人事のような調子。けれどそれが心地よかった。重たい現実を引きずらずにいられる、数少ない人だ。


 親友としては、きっともっと真剣に心配したり、慰めたりするべきなのかもしれない。けれどアネットは、そういう型にはまった優しさを決して押しつけてこない。


 悲しいことを深刻なまま語らせない空気を作ってくれる。それが、セレナにとっては何よりの救いだった。


「……ありがとう、アネット。あなたの顔を見たら、少しだけ、楽になったわ」

「ん?それってつまり、私の顔が癒しってこと?」


 アネットは冗談めかして肩をすくめ、けれどその視線は、ちゃんとセレナの揺らぎを見逃さなかった。


「でも本当は、今にも泣き出しそうな顔してる。わかってるんだからね?」


 セレナはかすかに目を伏せた。けれどすぐに、顔を上げる。


「ありがとう、アネット」


 かすかに揺れた声だった。普段は凛として隙のないセレナが、こんなふうに誰かに頼るのは珍しい事だった。


 その声音に、アネットは少しだけ真顔になった。


「どういたしまして。泣くときは私の前だけにしなさい。でないと、あの調子に乗った小娘に“勝った”なんて思わせちゃうから」


 セレナはくすっと笑った。自然と肩の力が抜ける。


「……ほんと、あなたは変わらないわね」


「そりゃあね。あなたがどんなに崖っぷちに立たされようと、私だけは平常運転よ。――それが親友ってものでしょ?」


 アネットは得意げに胸を張ってみせる。


「……頼りにしてるわ」

「もちろん。そのつもりで、お茶もお菓子も倍用意してるの。涙の分、糖分で補ってもらわなきゃ」


 アネットは言いながら、ティーカップを口元に運ぶ。その余裕のある仕草に、セレナはそっと息を整えた。


 そして、少し声を落としながら問いかける。


「……それで、“例のもの”は?」


 アネットはにやりと笑った。まるでその言葉を待っていたかのように。


「ええ、もちろん。持ってきてるわよ。ちゃんと封印も未開封のまま。薬師の証明書も添えてあるから、誰が見たって言い逃れはできないわよ」


 そう言ってアネットは、傍らの小箱を開け、銀の留め具がついた小瓶をセレナの前に置いた。淡い琥珀色の液体が、瓶の中で静かに揺れている。


「“惚れ薬”よ。正しくは、執着増幅薬っていうもの。飲んだ者が心の中で最も強く欲しているものへ、抑えが利かなくなるものよ」

「欲となる対象者は人とは限らないの?」

「ええ。恋人へ走る者もいれば、金庫に抱きつく者もいる。権力を欲している者なら、身分の高い相手へ近づこうとするでしょうね」


 セレナは小瓶を見つめた。


「つまり、リディアが本当にカイル様を愛しているのなら、カイル様だけを求めるって訳ね」

「そういうこと。でも、私は違うと思っている」

「どうして?」

「リディア嬢は、カイル様を好きなのではない。あなたのものだから欲しかっただけよ」


 アネットは言い切った。

「それに、青年伯爵の妻になれば社交界でそれなりの立場を得られる。姉から婚約者を奪い、伯爵夫人になる。あの子が欲しいのは、その勝利ではなくて?」


 セレナにも心当たりがあった。

 幼い頃からリディアは、姉が持っているものを欲しがる癖があったのだ。


 セレナは、瓶に目を落としたまま答える


「私はとっくに覚悟を決めたわ。問題は、あの子に“飲む場”をどうやって用意するかよね」

「それも想定済み。明後日の社交茶会、ヴァンディール夫人の主催よ。王都の若手貴族が半分以上集まるし、何かあれば自然と話題にもなるし、逃げ場もない」


「……まさか、あなた、その場を利用するつもりで?」

「ええ、勿論そうよ?」


 アネットは悪戯っぽくウィンクしてみせた。


「本当に……あなたって人は」

「褒め言葉として受け取っておくわ。じゃ、計画を詰めましょう」


 机の上に書類と小瓶が並べられ、ふたりは椅子を引き寄せて向かい合う。


 窓の外では、夕陽が静かに沈みはじめていた。


 ◇


 数日後に開催されたヴァンディール夫人主催の社交茶会は、例年にも増して華やかだった。


 広々とした庭園に張られた天幕の下、貴族たちの笑い声とカップの触れ合う音が絶え間なく響いている。卓上には季節の果実を使った菓子が並べられ、銀のポットからは香り高い紅茶が注がれていた。


 花壇には初夏の花々が咲き誇り、噴水のきらめきが陽の光を反射する。絵画のように整えられたその庭園の中央に、ひとつだけ異なる気配があった。


 セレナ・ヴァルシュタインが姿を現したのは、ちょうど午後の陽が真上から傾きはじめたころだった。


 周囲の視線が、一斉に彼女へと集まる。


 淡いラベンダー色のドレスに髪は低くまとめられ、耳元には紫水晶のピアスがひとつ。装いに派手さはない。けれど、その佇まいには確かな気品があった。


 彼女の婚約破棄に関する噂はすでに広まっていた。


 その姿が庭園の入り口に現れた瞬間、談笑していた数人の令嬢たちがふと声を潜め、振り返る。


 セレナ・ヴァルシュタインの名は、この場にいる誰もが知っていた。名家の令嬢として、品位と冷静さをもって知られていた彼女が、今日の場に現れたという事実だけで、空気が張り詰める。


 セレナはその視線をひとつも拾わず、まっすぐに庭の中心へと向かう。


 誰もが視線を向け、誰もが声をかけられずにいる。


 そこにいるだけで、彼女は舞台の空気を変えていた。


 噴水のそば、白いテーブルの前に、リディア・ヴァルシュタインがいた。


 淡いピンクのドレスに身を包み、柔らかな笑みを浮かべながら、数人の令嬢たちと談笑している。視線は周囲を柔らかく撫で、声の調子は可憐さを装っていた。


 けれど、セレナが一歩ずつ距離を詰めていくにつれ、その声がほんのわずかに揺れる。


 やがて芝の上に立つ足音がすぐそばで止まり、リディアが顔を上げた。


「まあ……お姉さま。いらっしゃったんですね」


 驚いたように言うその声に、作られた柔らかさが漂っている。


 セレナは静かに微笑み、丁寧に一礼した。


「ごきげんよう、リディア。少しだけ、お時間をいただいてもかまわないかしら?」


 その一言で、辺りの空気がふっと張りつめた。


 集まっていた令嬢たちが、ひそやかに視線を交わす。何かが始まる気配を感じ取って、自然と言葉を飲み込んでいく。


 リディアは一瞬だけ眉尻を揺らしたが、すぐに笑顔を作り直した。


「ええ、もちろん。こんなふうにお話しするのは久しぶりですものね。……そこの君、飲み物をお願いできる?」


 そばに控えていた使用人の少女が、恭しく頭を下げて紅茶の補充に向かう。


 リディアは、空いた手でスカートの裾を整えながら、涼やかに笑った。


「座って。お姉さまも、どうぞ。立ち話は品がないものね」


 セレナは一礼しながらテーブルについた。視線を下げると、すでに使われたティーカップと空になったポットが並んでいる。


「ごめんなさいね、紅茶が切れてしまっていて。すぐに新しいものを用意させるわ」


 リディアはそう言いながら、周囲に気を配るふうに目線を巡らせた。ちょうど近くを通った若い令嬢が目に入ったらしく、柔らかく笑みを向けて声をかける。


「まあ、そのお帽子とっても素敵ね。どこの仕立てかしら?」


 その一瞬――リディアの顔が完全に横を向いた。


 セレナは、指先だけで静かに動いた。


 膝の上の扇子の陰に隠された小瓶から、あらかじめリディアのカップに注がれていたわずかな紅茶へ、ほんの一滴、透明な液体を垂らす。


 指先に重みの感覚が伝わるより先に、瓶は懐へと戻す。


 リディアは新しく運ばれてきたポットを受け取ると、自らセレナのカップへ紅茶を注いだ。


 細い湯気とともに、芳醇な香りが立ちのぼる。


「はい、どうぞ」


 何も知らないリディアは、いかにも姉を気遣っているかのような笑みを浮かべ、セレナの前へカップを差し出した。


「あら、ご親切にどうも?」


 セレナもまた、穏やかな笑みを返した。


 リディアから差し出された紅茶に口を付ける。


 熱すぎない紅茶が舌の上を滑り、喉をゆっくりと通り抜けていった。セレナが自然な仕草でカップを置くと、リディアも満足したように自分の紅茶へ手を伸ばす。


「せっかく来てくださったのですもの。お姉さまにも、今日のお茶を楽しんでいただきたいわ」

「ええ。あなたも冷めないうちに飲んだ方がいいわよ」

「そうですね」


 リディアは何の疑いもなく、惚れ薬の落とされたカップを持ち上げた。


 紅茶の表面へ軽く息を吹きかけてから、ゆっくりと一口飲む。


 セレナは自分のカップへ視線を落としたまま、その瞬間を見届けていた。


 味に違和感はなかったらしい。


 リディアはもう一口紅茶を飲むと、何事もなかったようにカップを受け皿へ戻した。


 惚れ薬の特徴は、お酒を飲んだ時のように顔が赤くなることである。そして、判断能力が低くなる成分がお酒より強めに入っているのだ。


 お酒が一切提供されていない今晩は、彼女が惚れ薬を盛られたなど、一目で分かってしまうのだ。


 しばらくして、リディアの頬がほんのりと赤みを帯び始めた。


「リディア? 少し顔が赤いわよ」


 セレナが何気ない口調で声をかけると、リディアは自分の頬へ手を当てた。


「そうでしょうか……?今日は少し暑いから、そのせいかもしれません」


 そう笑ってみせるが、その瞳はどこかぼんやりとしている。


 視線はセレナと周囲の令嬢たちの間を行き来している。何かを言いたそうに唇を動かしては、わずかに残った理性で飲み込んでいるようだった。


「無理をしない方がいいわ。少し休んだら?」


 セレナが穏やかに勧める。


 その気遣うような口調が、リディアの癇に障ったらしい。


「私は気に食わなかったのよ!」


 いきなり響いた大声に、その場にいた者たちが一斉に振り返った。


 リディア自身も、口から飛び出した言葉に驚いたようだった。慌てて口元を押さえるが、もう遅い。


「リディア?」

「違うの、今のは……」


 取り繕おうとしたものの、薬によって鈍った判断力は、彼女に黙ることを許さなかった。


「大体ね、私はカイル様のことなんて何とも思ってないわよ!彼なんてただの伯爵でしょう?」


 セレナも、さすがにそこまで言い切るとは思っていなかった。


 リディアは立ち上がり、苛立ったように扇子を卓上へ投げ出した。


「お姉さまの婚約者だったから欲しかっただけ! いつも澄ました顔をして、何でも持っているお姉さまから奪えたら、きっと気分がいいと思ったのよ!」

「では、カイル様をお慕いしているという話は?」


 セレナが静かに尋ねる。


「そんなの嘘に決まってるでしょう!」


 リディアは鼻で笑った。


「少し泣いて、頼りになるのはカイル様だけですって言ったら、すぐに信じたわ。あんなに簡単に騙されるなんて、思わなかったもの!」


 誰かが恐る恐る問いかけた。


「それでは、セレナ様に酷いことをされたという話も……」

「そんなの全部嘘よ!」


 リディアは声高に言い放った。


「お姉さまだけは私が失敗しても庇ってくれた。でも、それが気に食わなかったのよ!」


 胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すように、言葉が次々とあふれていく。


「いつも正しくて、優しくて、誰からも褒められて! その隣にいる私は、何をしてもお姉さまより劣っていると言われる!」


 リディアはセレナを睨みつけた。


「だから一つくらい、奪ってやりたかったの! お姉さまが大切にしているものを取れば、私の方が上だって証明できると思ったのよ!」

「カイル様でなくてもよかったのね」

「そうよ!お姉さまのものなら何でもよかったわ。ドレスでも宝石でも友人でも、何だって! 今回はたまたま、それがカイル様だっただけよ!」


 その中で、アネット・シュトレインは涼しい顔で一歩前へ出る。


「うんうん、ほんとに驚きだわ。まさか“姉の婚約者が欲しい”ってだけでここまでの大仕事をやってのけるなんて、私、感動すらしてきたわ」


 掌を合わせてうっとりと見上げてみせる。わざとらしい演技に、数人の令嬢たちがくすくすと笑い始めた。


 そこから先のアネットは、もはや完全に“暴走モード”だった。


 リディアの虚飾を一枚ずつ剥がすように、次々と暴言すれすれの皮肉を繰り出し、惚れ薬に縛られた彼女を言葉で転がし、踏みつけて、時折わざと持ち上げては落とす。


 社交界でもここまで洗練された公開処刑はない――と令嬢たちが言ってしまうほどに。


 アネットは終始にこやかだったが、その目の奥には微塵の情けもなかった。


 そして――あの日を境に、リディア・ヴァルシュタインの姿を社交の場で見かけることは、ぱたりと途絶えた。


 あれほど人懐こい笑顔で令嬢たちに愛嬌を振りまいていた彼女は、大恥と自白の余波により、姿を隠すように屋敷に籠もったのだ。


 “涙の妹令嬢”から“一族の面汚し”へ――その転落ぶりは、王都でも語り草となった。


 しばらくのあいだ、ヴァルシュタイン家の招待状には“妹の同伴なし”と注釈が添えられるのが、半ば当然となっていたという。


 そして、件の一部始終を黙って見ていた元婚約者――カイル・エルバートにも、当然ながら流れ弾が飛んだ。


「彼は男としては心持たない人である」


 そんなささやきが、舞踏会の片隅や喫茶室の裏手で交わされるのに、さして時間はかからなかったのだった。

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