見守る母と老執事
### 2-6 見守る母と老執事
ヴェルナー侯爵邸シルバーエッジ館、夜の静けさが廊下を包む時刻。
侯爵夫人であるカタリーナ・フォン・ヴェルナーは、私室の窓辺に立って夜空を見上げていた。二つの月が優雅に輝いている。美しい光景だが、今夜の彼女の心は穏やかではなかった。
『ミユキ……』
愛娘の変化——それは母親の直感が告げる、言葉にできない違和感。
原因不明の高熱から目覚めた時、娘の雰囲気が変わった。いや、変わったというより……まるで別人のような。そんな印象を受けた瞬間があった。
だが、娘は確かに愛する我が娘だ。記憶もある。家族への愛情も変わらない。むしろ以前より素直に感情を表現するようになった。
それでも——母親の直感は、何かが起きたのだと囁き続ける。
コンコン。
扉を叩く音。
「夫人、お呼びでしょうか」
落ち着いた男性の声。執事セバスチャン・グレイだ。
「ええ、入って」
扉が静かに開き、白髪混じりの銀髪を整えた老執事が姿を現す。いつも通り、完璧な執事の装いで、一分の隙もない立ち振る舞い。
だが、カタリーナはこの老執事の表情を読み取ることができる。三十年以上この家に仕えている彼の、僅かな表情の変化を。
「セバスチャン」カタリーナは窓から視線を外さずに言った。「あなたもお気づきでしょう? ミユキの変化に」
沈黙。
それは肯定の沈黙だった。
数秒時間をおいてから「……はい」と、セバスチャンは静かに答えた。「熱が下がった直後から、別人のような……いえ、魂が変わったような印象を受けております」
カタリーナは振り向いた。老執事の灰色の瞳が、まっすぐに彼女を見つめている。
「魂が……変わった?」
「言葉にするのは難しいのですが」セバスチャンは慎重に言葉を選ぶ。「私には僅かながら魔力感知の能力がございます。人の魔力の流れや質を感じ取ることができる」
「それは……元騎士団の副団長だった頃の名残ね」
「はい。お嬢様の魔力の質は以前と変わりません。ですが、その……深層に、何か異質なものが混ざっているような感覚を受けます」
カタリーナは息を呑んだ。
「異質……ですって? それは……、危険なもの?」
「いえ」セバスチャンは即座に否定した。「危険なものではありません。むしろ……温かく、優しいものです。そして、強い意志を感じます」
カタリーナは胸に手を当てた。
「実は私も……感じていたの。母親の直感、というのかしら。あの子は確かに私の娘。でも、何かが……加わった。そんな感じがする」
二人は顔を見合わせた。
長い沈黙の後、カタリーナが口を開く。
「でも、あの子に危害はない。あなたもそう感じているのでしょう?」
「その通りです」セバスチャンは頷いた。「むしろ、お嬢様は良い方向に変化しておられます」
「魔法の勉強に急に熱心になったわ」
「家庭教師のアルノルト先生も驚いておられました。一度説明を聞けば、すぐに応用問題まで解いてしまうと」
「使用人たちにも優しくなった。以前は少し距離を置いていたのに、今は積極的に話しかけている」
「厨房のヘルガも、『お嬢様が料理に興味を持つどころか、新しい料理を教えてくださった』と喜んでおりました」
二人の会話は、愛する家族への温かな観察に満ちていた。
カタリーナは再び夜空を見上げた。二つの月が、まるで見守るように輝いている。
「セバスチャン」彼女は静かに、しかし確固とした意志を込めて言った。「理由は問いません。何が起きたのか、私には分からない。でも、今のあの子が私の娘であることに変わりはない」
「……」
「ただ……見守りたいのです。あの子が幸せに、安全に成長できるように」
セバスチャンは深く頭を下げた。
「私も同じ思いです、夫人」
そして顔を上げ、灰色の瞳に決意を宿して言った。
「お嬢様を陰ながらお守りいたします。これは執事としての務めであり……」
彼は少しだけ、表情を和らげた。
「かつて王国騎士団に仕えた者としての、誓いでもあります」
カタリーナは微笑んだ。
「ありがとう、セバスチャン。あなたがいてくれて、本当に良かった」
「恐れ入ります」
二人は連携してミユキを見守ることを、言葉にせずとも確認し合った。
カタリーナは母として、娘の心の変化を温かく受け入れる。
セバスチャンは執事として、そして元騎士として、令嬢の安全を守る。
それぞれの立場から、ミユキが安全に成長できるよう配慮する——それが二人の決意だった。
「では、失礼いたします」
セバスチャンが部屋を出ようとした時、カタリーナが声をかけた。
「セバスチャン、一つだけ」
「はい?」
「もし……もし、あの子が何か困難に直面した時は、必ず私に知らせてちょうだい」
セバスチャンは振り返り、深く頭を下げた。
「承知いたしました、夫人」
扉が静かに閉まる。
再び一人になったカタリーナは、窓辺に戻った。
『ミユキ……あなたに何があったのかは分からない。でも、お母様はいつでもあなたの味方よ』
彼女の瞳には、母としての深い愛情が宿っていた。
◇
執事室に戻ったセバスチャンは、一人椅子に座って考えていた。
彼は若い頃、王国騎士団の副団長として数々の戦場を経験した。魔物との戦い、反乱軍との衝突。その中で磨いた特殊な能力——魔力感知。
人の魔力の流れを読み取り、敵の動きを予測する。それは戦場で生き残るための技術だった。
そして今、その能力が一つの可能性を示唆している。
『転生勇者の伝説……。異世界からの転生者が悪しき魔王を討伐したという……』
だが、セバスチャンはその推測を追求しなかった。あまりに荒唐無稽であることと、そして……
なにより——それは関係ないからだ。
彼女がどこから来たのか、何者であったのか。そんなことは問題ではない。
今、彼女はミユキ・フォン・ヴェルナー。ヴェルナー侯爵家の愛すべき令嬢。
それだけで十分だった。
「お嬢様、私はあなたをお守りします。それが、私がこの家に仕える理由なのですから」
セバスチャンは静かに誓った。
老執事の灰色の瞳に、静かな決意の光が宿っていた。




