侯爵家の朝
### 2-2 侯爵家の朝
アンナに手伝ってもらって身支度を整え、朝食の席へと向かう。廊下を歩きながら、ミユキはこの屋敷の広さに改めて驚く。高い天井、壁一面に飾られた歴代当主の肖像画、磨き上げられた大理石の床。どこを見ても、名門貴族の格式を感じさせる造りだ。
前世の部屋とは大違いである。マンションとは名ばかりの格安の我が家は、狭いダイニングに付属キッチンも料理するのもやっとの広さだった。
広い食堂に入ると、既に家族が揃っていた。
大きな窓からは朝の柔らかな光が差し込み、白いテーブルクロスの上には銀の食器が整然と並んでいる。焼きたてのパンの香り、淹れたてのハーブティーの湯気。テーブルの中央には、色とりどりの果物が盛られた大皿と、温かい料理を載せた銀のプレートが並んでいた。
「おはよう、ミユキ」
柔らかな声で母カタリーナが微笑む。明るい銀髪を優雅にまとめた美しい女性だ。ミユキの髪色は、この母から受け継いだものらしい。三十八歳とは思えないほど若々しく、温和な笑顔の中に凛とした芯の強さを感じさせる。
「おはようございます、お母様」
ミユキが席に着こうとした瞬間——
「ミユキ!」
姉のソフィアが椅子から立ち上がり、駆け寄ってきた。
「もう大丈夫なの? 三日も寝込んでいたから、お姉様すごく心配したのよ」
両手でミユキの手を握り、心配そうに顔を覗き込む。
ソフィアは十七歳。社交界でも評判の美人で、治癒魔法に優れた才能を持つ。母よりも明るい銀髪が特徴的で、その髪は朝日を受けて柔らかく輝いている。青い瞳には、妹への本物の心配が滲んでいた。
「ご、ごめんなさい、お姉様。もう大丈夫です」
ミユキは申し訳なさそうに答えた。ミユキ・フォン・ヴェルナーの記憶が教えてくれる——この姉は、三日間ずっと部屋の前で心配していた。何度も様子を見に来て、治癒魔法で少しでも楽にしようと手を尽くしてくれた。
「本当に? 顔色はまだ少し青いわよ。無理しないでね」
ソフィアがミユキの頬に優しく手を当てる。その温かさに、ミユキは胸が熱くなった。
兄のフリードリヒも安堵の表情を浮かべる。十五歳の騎士見習いで、将来の侯爵後継者だ。濃紺の髪は父譲りで、瞳は母譲りの青色。まだ若さの残る顔立ちだが、すでに騎士としての凛々しさを備え始めている。
「よかった。急に熱を出して倒れるから、何事かと思ったぞ。今日は無理するなよ」
その声には、普段の明るさの裏に安堵が隠れていた。
「うん……ありがとう、お兄様」
『前世の兄さんには似ていないけれど、こっちのお兄様も優しそう』
前世の美幸にとって十五歳というのは年の離れた弟のような年齢である。立派に振る舞おうと背伸びしている姿を、どうにも微笑ましく感じてしまう。
ミユキがようやく席に着くと、食卓の上座にいた父エルヴィンが、普段は厳格な表情を少しだけ緩めた。
「元気になったようで何よりだ」
四十二歳の辺境防衛を担う侯爵は、いつもなら部下に指示を出すような厳格な口調なのである、が——今日は違っていた。
「だが、今日は無理をせず、体調を最優先にしなさい」
その声には、娘を気遣う優しさが前面に出ている。濃紺の髪に深い青紫の瞳——ミユキの瞳の色は父から受け継いだものだ。
いつもなら「侯爵家の娘として恥じぬよう」と厳しい言葉が飛んでくるはずなのに。
「アルノルト先生の授業、今日は休んでもいいのよ? まだ本調子じゃないでしょう」
母カタリーナが心配そうに言う。
その時——
ミユキは気づいた。母の瞳が、ほんの一瞬だけ、自分を不思議そうに見つめたことに。
何かを感じたのだろうか。熱が下がった途端、娘の雰囲気が少し変わったような……。違和感。言葉にならない違和感を。
でも、それはほんの一瞬だけのこと。母はすぐにいつもの優しい表情に戻る。
「いえ、大丈夫です。せっかく良くなったんですから」
ミユキは微笑んで答えた。
ミユキ・フォン・ヴェルナーの記憶が教えてくれる——この家族がどれだけ自分を心配してくれていたか。三日間、誰もが心配して、何度も様子を見に来てくれた。
メイドたちが静かに朝食を運んでくる。湯気の立つスープ、焼きたてのクロワッサン、薄くスライスされたハム、チーズ、新鮮な果物。どれも丁寧に盛り付けられている。
「召し上がれ、ミユキ。今日は消化の良いものを多めに用意させました」
母が優しく促す。
ミユキは静かにスプーンを手に取った。温かなスープの香りが鼻をくすぐる。口に運ぶと、繊細な味わいが広がった。
温かな朝食の時間。
前世では一人暮らしで、コンビニ弁当ばかりだった美幸にとって、家族との食事は新鮮だった。いや、新鮮すぎた。
姉が心配そうに見守り、兄が冗談を言って和ませようとし、父が厳格な中にも娘への愛情を隠さず、母が優しく気を配る。
これが、家族。
ミユキ・フォン・ヴェルナーにとっては当たり前の日常。
でも、志藤美幸にとっては——失っていたもの。
両親を早くに亡くし、学生時代は兄の隼人と二人きりだった。レース活動で世界を転戦する兄とは生活が合わず、就職して独り暮らしを始め、そして、最後は、何も伝えられずに突然死に別れてしまった。
二つの記憶が混ざり合う中で、温かさが胸に染み渡る。
いつの間にか、目頭が熱くなっていた。俯いて、涙を隠す。
「ミユキ? どうしたの?」
ソフィアが心配そうに声をかけた。
「な、何でもないです。ただ……美味しくて」
顔を上げると、家族全員が優しい笑顔でミユキを見つめていた。




