母カタリーナとの刺繍の時間
### 2-10 母カタリーナとの刺繍の時間
領地巡回の翌日。
午後の柔らかな日差しが、母の私室に差し込んでいた。
カタリーナが娘たちに刺繍を教える時間——これはヴェルナー家の女性たちにとって、特別な時間だった。
ミユキ、ソフィア、そしてカタリーナの三人が、窓際の明るい場所に座っている。
それぞれの手には刺繍枠。白い布に、色とりどりの糸で模様を描いていく。
「ミユキ、その針の入れ方、上手になったわね」
ソフィアが感心したように言う。
「ありがとう、お姉様」
ミユキは集中して、丁寧に針を進める。
前世では、こんな細かい手作業は苦手だった。
でも、今は違う。
一針一針、丁寧に——まるでプログラムのデバッグのように、慎重に、確実に。
『一つ一つの処理を確実に……そうすれば、美しい模様になる』
プログラマーの集中力が、刺繍にも活きていた。
カタリーナが優しく微笑む。
「上手よ、ミユキ。以前は苦手だと言っていたのに」
「集中力がついたのかも」
ミユキは照れくさそうに答えた。
静かな午後の時間。
針を動かす音、時折交わされる会話、窓の外から聞こえる鳥のさえずり。
穏やかで、温かな時間。
ミユキは、この時間がとても心地よかった。
『前世では、母と過ごす時間なんて……』
そんな思いが、ふと胸をよぎる。だからこそ、この温かな時間が、とても貴重に感じられた。
「お母様」
ミユキがふと、口を開いた。
「はい?」
「……刺繍、もっと教えてください」
カタリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、もちろんよ」
そして、カタリーナはミユキの隣に座り、手を取って丁寧に教え始めた。
「この部分はね、こうやって針を入れるとより綺麗に見えるの」
「はい……」
母の手は温かく、優しかった。
ソフィアも興味深そうに見守っている。
「ミユキ、集中してるときの表情、真剣ね」
「そう?」
「うん。なんだか、お父様に似てるわ」ソフィアがくすくすと笑った。「仕事してるときのお父様、ああいう顔してる」
カタリーナも笑った。
「本当ね。エルヴィンそっくりだわ」
ミユキは少し恥ずかしくなった。
「そんな……」
だが、内心では嬉しかった。
『父に似てる、か……』
◇
刺繍を続けながら、カタリーナがふと話題を変えた。
「ミユキ、昨日の領地巡回、どうだった?」
「はい。とても勉強になりました」
「そう。エルヴィンも嬉しそうだったわよ」
「え……本当ですか?」
ミユキは驚いた。
父エルヴィンは普段、感情をあまり表に出さない。昨日も厳格な態度を崩さなかった。
カタリーナは優しく微笑んだ。
「ええ。昨夜、私に話してくれたの。『ミユキが領地のことを真剣に考えていた。立派な娘だ』って」
「お父様が……そんなことを」
ミユキは胸が温かくなった。
父は口下手だが、ちゃんと見ていてくれたのだ。
「それに」カタリーナは続けた。「アルノルト先生からも報告を受けたわ。もう教えることがないほど、魔法理論を理解しているって」
「それは……」
「無理はしないでね」カタリーナの声は優しかった。「あなたが頑張っているのは、よくわかるわ。でも、体調を崩したばかりなのだから」
ミユキは頷いた。
「はい。気をつけます」
カタリーナはミユキの頭を優しく撫でた。
「あなたは私の大切な娘。何かあったら、いつでも話してね」
「……はい」
ミユキは、涙が出そうになるのを堪えた。
『お母さん……』
カタリーナの優しさが、心に染みる。
◇
ソフィアが、ふと立ち上がった。
「ちょっとお茶を淹れてくるわね。三人で飲みましょう」
「ありがとう、ソフィア」
ソフィアが部屋を出て行く。
残されたミユキとカタリーナ。
二人だけの時間。
カタリーナは、刺繍の手を止めずに、静かに言った。
「ミユキ」
「はい?」
「あなたは……最近、よく頑張っているわね」
ミユキは少しドキリとした。
だが、カタリーナの声は責めるようなものではなく、ただ穏やかで優しかった。
「熱が下がってから、毎日遅くまで勉強して。魔法の本を読んで。領地のことまで考えて」
「……はい」
「でもね」カタリーナは微笑んだ。「それがあなたの『やりたいこと』なら、お母様は応援するわ」
ミユキは驚いて顔を上げた。
「お母様……」
「ただ」カタリーナは続けた。「無理だけはしないでね。困ったことがあったら、一人で抱え込まないで。家族に頼ってもいいのよ」
その言葉に、ミユキの心が揺れた。
『お母様は……何も問い詰めない。ただ、見守ってくれてる』
「ありがとうございます、お母様」
ミユキは心を込めて言った。
「私……頑張ります。でも、困ったときは、ちゃんと相談します」
カタリーナは満足そうに頷いた。
「それでいいのよ」
そして、再び刺繍を始める。
母と娘、二人の穏やかな時間が流れていく。
◇
しばらくして、ソフィアがお茶を持って戻ってきた。
「お待たせ! マルタに頼んで、美味しいクッキーも持ってきてもらったわ」
三人でお茶を飲みながら、他愛もない話をする。
ソフィアの社交界での出来事。
フリードリヒの訓練での失敗談。
カタリーナの若い頃の思い出話。
ミユキは、この時間がとても愛おしかった。
『この家族と過ごす時間……大切にしたい』
窓の外では、夕日が屋敷の庭を優しく照らしている。
穏やかな午後の光の中で、母と娘たちの笑い声が響いていた。




