聖域なき緊急停止
警告音が、鼓膜を劈くように鳴り響いている。
東都テクノリンク本社工場、第2製造ライン。
そこは、鉄と油、そして労働者たちの脂汗の匂いが混じり合う、この巨大企業の心臓部だ。
停止したベルトコンベアの前で、一人の男が立ち尽くしていた。
「……鴨飛田さん、ですね?」
私が声をかけると、その男――生産管理部主任の鴨飛田悟は、ビクリと肩を震わせて振り返った。
30代後半だろうか。作業着は油汚れと洗濯の繰り返しで色が褪せ、首から下げたPHSは傷だらけだ。その風貌は、本社ビルの洗練された社員たちとは対極にある、現場の最前線で泥を啜ってきた男のものだった。
「あんたたちが……監査部の?」
鴨飛田の声は嗄れていた。その目は充血し、極度の緊張と疲労で焦点が定まっていない。
彼の足元には、真っ赤な文字で修正された工程表のバインダーが落ちていた。
「どうしてラインを止めたんですか? 本社への報告なしに止めれば、始末書では済みませんよ」
合渡悠作が、冷静に、しかし威圧感を含ませずに尋ねる。
鴨飛田は、震える手で作業着のポケットからタバコの箱を取り出そうとして、ここが禁煙の工場内だと気づき、虚しく手を下ろした。
「……止めなきゃ、出荷されちまうんだよ」
彼は吐き捨てるように言った。
「このロットの『TX-900』……新方課長の検査データじゃ合格になってる。でもな、俺たちは知ってるんだ。この部品の強度が、基準値を下回ってることを」
追いついてきた新方課長が、青ざめた顔で鴨飛田に詰め寄った。
「鴨飛田くん! 何を言っているんだ! システム上はオールグリーンだぞ! これ以上騒ぎを大きくしたら、君だってタダじゃ……」
「うるさい!」
鴨飛田が叫んだ。その剣幕に、新方がたじろぐ。
「システム? ああ、そうだな。システムはいつだって完璧だ。……俺たちが寝てる間に、勝手に数字を書き換えてくれるんだからな!」
その言葉に、入坂すずが反応した。
彼女はこの騒音と油の匂いが充満する工場にあって、場違いなほど可憐な存在だったが、その瞳だけは冷徹な光を放っていた。
「……どういうこと? 寝ている間に書き換わる?」
鴨飛田は、観念したようにその場に座り込んだ。
「俺も最初は目を疑ったよ。昼間の検査では『不合格』だったロットが、翌朝の出荷直前になると、いつの間にか『合格』に変わってるんだ。誰が操作したわけでもない。ログを見ても、操作者の欄は空欄か、あるいは『システム自動処理』になってる」
彼は頭を抱えた。
「納期は絶対だ。部品が足りなかろうが、不良が出ようが、本社は『出せ』と言ってくる。……だから、誰かが裏で魔法を使ってるんだよ。俺たち現場の人間には触れない、特権IDを使ってな」
すずが、マカロンの欠片を口に放り込みながら、タブレットを高速で操作し始めた。
「……やっぱりね。サーバー側のバッチ処理よ」
彼女の美しい顔に、氷のような笑みが浮かぶ。
「深夜3時。工場が稼働を停止している時間帯に、特定のスクリプトが走っている。検査データベースのNGフラグを、一括でOKに書き換えるプログラム。……これ、開発推進室の裏金工作の時に見つけた『幽霊』と同じ手口だわ」
「使用アカウントは?」
私が問うと、すずは画面を私たちに向けた。
『User: admin_window_sub 』
「……『窓口管理サブ』?」
私は絶句した。
それは、私たち内部監査部が管理しているはずの、通報窓口システムのサブアカウントだ。本来はメンテナンス用に使われるもので、強い権限を持っている。
「繋がったわ」
すずの声が、工場の騒音を切り裂いて響いた。
「以前、品質保証部の通報ログを消去したのも。葛石さんに濡れ衣を着せるために不正送金を承認したのも。そして今、この工場の不良品データを改ざんしているのも。……すべて、この『窓口管理サブ』のアカウントが使われている」
戦慄が走った。
灯台下暗し、などというレベルではない。
私たちの足元――正義の砦であるはずの内部通報システムそのものが、巨大な不正の「通路」として悪用されていたのだ。
東鶴副社長が「窓口の権限を寄越せ」と言ってきた理由が、ようやく腑に落ちた。彼女にとって、このバックドアこそが、会社を意のままに操るための魔法の杖だったのだ。
「……鴨飛田さん」
私は、座り込む彼の前に膝をつき、視線を合わせた。
「貴方ですね? 一度消された通報を、もう一度送ってくれたのは」
鴨飛田は、驚いたように顔を上げた。
「……ああ。一度目は、正規のフォームから送った。でも、翌日には綺麗さっぱり消えていた。俺は怖くなったよ。会社そのものが、俺の口を塞ごうとしているみたいで」
彼は汚れた手で顔を覆った。
「でも、新方課長が……あんなにやつれていくのを見て、もう限界だった。だから、昔かじった知識を使って、工場の在庫管理システムの裏口から、監査部のDBに直接メッセージをねじ込んだんだ。『今度は消さないでくれ』って祈りながら」
「届きましたよ。しっかりと」
私は彼の手を握った。その手はゴツゴツとしていて、油と鉄の匂いがした。それは、この会社を支えてきた現場の誇りの匂いだった。
「貴方の勇気が、私たちをここまで導いてくれた。……もう、一人で戦わなくていい」
鴨飛田の目から、涙が溢れ出した。大人の男の、堰を切ったような号泣が、停止したラインに響き渡る。
新方課長もまた、眼鏡を外して涙を拭っていた。
「合渡さん」
私は立ち上がり、相棒を見た。
「法的根拠は?」
「十分すぎます」
合渡は眼鏡を光らせ、完璧な口調で答えた。
「製造物責任法および、会社法における善管注意義務違反。さらに、電磁的公正証書原本不実記録罪。……これだけの証拠があれば、社長だろうが神様だろうが、首根っこを掴んで引きずり下ろせます」
「すず」
「言われなくてもやってるわ」
すずは、ニヤリと笑った。その笑顔は、最高に凶悪で、最高に頼もしかった。
「現在、この『窓口管理サブ』のアクセスログ、および改ざん前後のデータベースの差分を、私の個人サーバーと、ついでに警視庁サイバー犯罪対策課の通報フォームの下書きに転送中。……消せるものなら消してみなさいよ」
準備は整った。
あとは、引金を引くだけだ。
「新方課長、鴨飛田さん。……これから、少し派手なことになりますが、覚悟はいいですか?」
二人の男は、顔を見合わせ、そして力強く頷いた。
彼らの目には、もう怯えはなかった。
「葛石さん、どうするつもりですか?」
合渡が尋ねる。
私は、工場の天井を見上げた。
その遥か上空、本社ビルの最上階で、優雅に紅茶を飲んでいるであろう「女王」の顔を思い浮かべる。
「緊急会議だ」
私は宣言した。
「品質保証部、生産管理部、開発本部、そしてリスク管理委員会を招集する。……議題は、『全出荷ラインの無期限停止』について」
それは、東都テクノリンクという巨艦を、強制的に座礁させるような暴挙だ。
株価は暴落し、損害額は数十億にのぼるだろう。
だが、腐った血液が全身に回るのを止めるには、心臓を止めて手術するしかない。
「聖域なき緊急停止。……これより、オペを開始する」
私の言葉と同時に、すずがエンターキーを叩いた。
工場内のすべてのモニター、そして本社ビルの全社員のPC画面に、真っ赤な緊急招集の通知が一斉にポップアップした。
【緊急重要】内部監査部より通達。重大な品質不正の疑義により、全製品の出荷を凍結する。関係役員は直ちに大会議室へ集合されたし。
サイレンは鳴り止まない。
だが、それはもう悲鳴ではない。
反撃のファンファーレだ。




