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通報窓口、ただいま炎上中  作者: U3


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悪意のアルゴリズム

 東都テクノリンク本社ビル、地下2階。


 特命調査室の空気は、持ち込まれた大量の紙束と、サーバーの排熱、そして甘ったるいチョコレートの香りで飽和していた。




「……完全に『クロ』ね。それも、漆黒の」




 入坂すずが、マカロンを齧りながら、モニターに映し出された表計算ソフトの画面を指差した。


 彼女の指先は、フランス人形のように白く華奢だが、その瞳は獲物の急所を捉えた猛禽類のように鋭い。今日の彼女は、首元が大きく開いたニットを纏っており、鎖骨のラインが地下室の蛍光灯の下で艶めかしく浮き上がっている。その無防備さと知性のアンバランスさが、彼女という存在をより一層、危険なものに見せていた。




「手口は古典的よ。一件あたり5万円を超える交際費や会議費は、本来なら部長決裁が必要になる。でも、見て。同じ日付、同じ店舗での支払いが、2万5千円ずつ二枚の領収書に分割されているわ」




 すずが画面をスクロールすると、同様のパターンが滝のように流れた。




「いわゆる『分割発注』の手口ね。課長クラスの決裁権限である3万円以下に抑えることで、上長の承認フローをスキップしている。……しかも、これが特定のプロジェクトだけでなく、開発推進室が管轄する全案件で横断的に行われているわ」




 合渡悠作が、呆れたように眼鏡を外してレンズを拭いた。




「個人の着服ではありませんね。これは組織的な『仕組み』だ。裏金を作るためのシステムが、業務フローの中に完全に組み込まれている」




 彼の言葉通りだった。


 これは一人の悪党による犯罪ではない。組織全体が、呼吸をするように不正を行っている。




 私は、部屋の隅で小さくなっている若手社員――黨康介に向き直った。


 彼は、京滝室長に置いていかれてから、ずっとこの部屋で「参考人」として聴取を受けている。憔悴しきったその顔は、まるで幽霊のようだった。




「黨さん」




 私が声をかけると、彼はビクリと肩を震わせた。




「この分割処理、貴方がやったんですね?」




 彼は観念したように、力なく頷いた。




「……はい。僕が、京滝室長の指示でやりました」




「なぜ、こんなことを?」


「現場を……止めるわけにはいかなかったからです」




 黨は、搾り出すような声で語り始めた。




「開発現場の予算は、常にギリギリです。特にここ数年は、コストカットの嵐で、予備費なんて名ばかりのものしかありませんでした。でも、トラブルは起きます。仕様変更、バグの多発、納期遅延……。エンジニアたちは、毎日終電まで、いや、終電がなくなっても働き続けています」




 彼は涙目で、テーブルに置かれた領収書の山を見つめた。




「深夜2時にお腹を空かせている彼らに、温かいご飯を食べさせてあげたい。タクシーで家に帰してあげたい。怒り狂う協力会社の人に、せめて手土産の一つも持っていって謝りたい。……でも、正規の予算申請をしていたら、承認が下りるのに一週間かかります。そんなの、待ってられません」




 だから、裏金を作った。


 即座に使える現金を確保するために、架空の会議費や交通費を計上し、現金を捻出する。それは、現場のライフラインを維持するための、苦肉の策だったのだ。




「私利私欲のためじゃありません」




 黨の声が震えた。




「京滝室長も、僕も、一円だって懐に入れていない。全部、現場のために……みんなの寿命を延ばすために使ったんです。それでも、これは犯罪なんですか?」




 悲痛な問いかけだった。


 かつて広報として、会社の「見栄え」を守るために嘘をついた私には、彼を責める資格などないのかもしれない。


 だが、ここで情に流されれば、組織は腐敗していく一方だ。




「……動機が何であれ、不正は不正です」




 合渡が、静かに、しかし断固とした口調で言った。




「貴方がたが作ったその『仕組み』は、一時的な延命措置にはなったかもしれない。ですが、それは同時に、会社が現場の窮状を把握する機会を奪い、結果として過重労働を隠蔽することに加担したのです」




 黨は言葉を失い、うなだれた。




「ただし」




 合渡は続けた。




「私は、トカゲの尻尾切りのような真似はさせません」




「え?」




 顔を上げた黨に、合渡は万年筆を向けた。




「今回の件、貴方一人を犯人にして幕引きを図ろうとする動きがあれば、私が全力で阻止します。法的にも、倫理的にもね」




 合渡は立ち上がり、ホワイトボードにサラサラと図を描き始めた。




「問題の本質は、現場の実態と乖離した硬直的な予算制度にあります。我々が提言すべきは、貴方の懲戒解雇ではない。正式な『緊急対応予算枠』の新設、承認権限の移譲、そして何より、現場のリソース不足の解消です」




 それは、法務とコンプライアンスのプロフェッショナルとしての、彼なりの正義の形だった。


 ただ悪を裁くのではなく、悪が生まれる土壌を改良する。


 黨の目に、わずかに光が戻ったように見えた。




「さて、と」




 すずが、キーボードを叩く手を止めた。




「美談で終わらせたいところだけど、そうもいかないみたいよ」




 彼女の声色が、急速に冷えた。


 モニターには、先ほどまでの経費データとは異なる、黒い背景に緑色の文字が流れるログ画面が表示されている。




「黨くんの話は分かったわ。現場のための必要悪。……でもね、このデータの中に、明らかに『現場のため』じゃないノイズが混じっているの」




「ノイズ?」


「ええ。裏金運用のドサクサに紛れて、もっと巨額の資金が動いている形跡があるわ」




 すずは画面の一部を拡大した。




「見て。承認フローのログ。開発推進室の経費承認を行っているIDの中に、存在しないはずのアカウントが含まれている」




 画面には『Approver: admin_shadow_03』という文字列が表示されていた。




「人事データベースと照合したけど、こんな社員番号は存在しない。しかも、このIDによる承認が行われているのは、決まって深夜3時から4時の間。人間が寝静まった時間帯に、自動プログラムのように機械的に承認を行っている」




 背筋が寒くなった。


 黨がやっていたような、アナログな領収書の操作ではない。


 システムそのものに介入し、幽霊のように承認を行う何者か。




「さらに不可解なのは」




 すずの声が低くなる。




「この『admin_shadow_03』のアクセス元IPアドレス。……偽装されているけど、辿っていくと、ある意外な場所に繋がったわ」




「どこだ?」


「『内部監査部・窓口管理サブシステム』。……つまり、ここよ」




 私と合渡は息を呑んだ。


 ここ? この特命調査室のサーバーを経由しているということか?


 


「どういうことだ、入坂」


「誰かが、私たちの足元にバックドアを仕掛けていたってこと。私たちが不正を監視するためのシステムを逆利用して、自分たちの不正承認の隠れ蓑にしていたのよ。……舐められたものね」




 すずは、口にくわえていたマカロンを噛み砕いた。その音は、骨を砕く音のように響いた。


 彼女のプライドである「聖域」が汚されたのだ。その怒りは計り知れない。




「京滝室長のレベルじゃないわね。もっと上の、システム全体の権限を持つ人間……例の『神』の仕業よ」




 その時だった。


 私のスマートフォンの通知音が鳴った。


 黨を帰した後、一息つこうと給湯室へ向かいかけた足を止める。




「……葛石さん、デスクを見て」




 すずが鋭く言った。




 私のデスクの上。


 パソコンのキーボードの上に、一通の茶封筒が置かれていた。


 差出人の名前はない。


 ついさっきまで、そこには何もなかったはずだ。この部屋には私たち3人と黨しかいなかった。一体いつの間に?




「……触らないで」




 すずが制止する前に、私は封筒を手に取ってしまっていた。


 中から出てきたのは、一枚の写真――いや、スクリーンショットを印刷した紙だった。




 そこに写っていたのは、経費精算システムの承認画面。


 承認者の欄には、はっきりとこう記されていた。




 『承認者:葛石 徹(内部監査部)』


 『承認日時:202X年10月15日 03:12:45』




 金額は、300万円。


 名目は『システム保守・緊急対応費』。




「な……なんだこれは」




 私は震える手でその紙を見つめた。


 身に覚えがない。その日、その時間、私は自宅で泥のように眠っていたはずだ。


 だが、ログは、私が巨額の不正支出を承認したことを示している。




「ハメられたわね」




 すずが、私の手から紙を奪い取り、目を細めた。




「あんたのアカウントが乗っ取られた……いや、違う。IDを偽装されたんだわ。昨日の脅迫状、『次はあなたの番です』っていうのは、物理的な攻撃じゃなくて、社会的抹殺の予告だったってわけ」




 血の気が引いていくのが分かった。


 内部監査部の人間が、不正経理に関与していたとなれば、私は即刻懲戒解雇だ。それどころか、開発推進室の不正の首謀者に仕立て上げられる可能性すらある。




「……京滝室長の仕業か?」


「いいえ」




 合渡が静かに否定した。




「彼は現場を守るためには手を汚しますが、これほど高度なサイバー工作を行う技術も動機もない。これは、もっと冷徹で、感情のない悪意によるものです」




 合渡は、私の肩に手を置いた。その手は温かく、力強かった。




「葛石さん、狼狽えないでください。これが敵の狙いです。貴方を動揺させ、孤立させること」




「でも、証拠が……」


「デジタルデータなんて、いくらでも捏造できる。それを証明するのが、私の仕事よ」




 すずが不敵に笑った。その瞳には、恐怖ではなく、強敵に出会った歓喜の色が混じっていた。




「私の目の前で、私の相棒を犯人扱いするなんて、いい度胸じゃない。……全部暴いてやるわ。この300万円がどこに消えたのか、そして誰が『葛石徹』の皮を被ったのか」




 彼女はキーボードを叩き始めた。その速度は、これまで見たどの時よりも速く、激しかった。


 カチャカチャカチャッ、という打鍵音が、まるでマシンガンの発射音のように地下室に響き渡る。




「戦争よ」




 すずが呟いた。




「見えない『神様』対、地下室の『悪魔』たち。……どっちが勝つか、賭けましょうか」




 私は、自分の手の中にある捏造された証拠を握りつぶした。


 恐怖はある。だが、不思議と絶望はなかった。


 この地下室には、最強の弁護士と、最強のハッカーがいる。そして私は、彼らが背中を預けてくれる「相棒」なのだ。




「ああ、受けて立つさ」




 私はゴミ箱に紙屑を投げ捨てた。




「俺をハメたことを、地獄の底で後悔させてやる」




 地下2階のエアコンが、低く唸り声を上げた。


 それは、これから始まる逆襲の狼煙のように聞こえた。

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