帳尻合わせの魔術師帳
翌朝。
東都テクノリンク本社ビルの地下2階。
重いセキュリティドアを開けた瞬間、私の肌を刺したのは、いつも通りの低い室温と、いつもとは決定的に違う「敵意」の匂いだった。
複合機の排紙トレイには、昨夜吐き出された一枚の紙が、まだそのまま鎮座していた。
『次は、あなたの番です』
明朝体の無機質なフォント。だが、それは私の網膜に、まるで血で書かれた文字のように焼き付いていた。
「……おはよう、葛石さん。顔色が悪いわよ」
部屋の奥から、甘ったるいカカオの香りと共に声が飛んできた。
入坂すずだ。彼女はすでに自分のデスク――通称「コックピット」に座り、複数のモニターに囲まれていた。
今日の彼女は、淡いブルーのシャツに、少し大きめのカーディガンを羽織っている。その華奢な肩のラインと、無造作にかき上げられた亜麻色の髪のコントラストは、朝の光が届かないこの地下室において、あまりにも鮮烈な「生」の輝きを放っていた。
彼女がキーボードを叩くその指先は、まるでピアノの鍵盤を愛撫するかのように滑らかで、それでいて獲物を追い詰める猛禽類のように鋭い。彼女という存在自体が、この無機質な空間における最大のバグであり、同時に唯一の希望だった。
「顔色が悪いのは照明のせいだ。……何か動きはあったか?」
私は努めて冷静に問いかけながら、自分の席へと向かった。
すでに合渡悠作も出社していた。彼は完璧にプレスの効いたチャコールグレーのスーツに身を包み、まるで高級ホテルのラウンジにいるかのような優雅さで紅茶を飲んでいる。だが、その手元にある六法全書には、無数の付箋が貼られていた。臨戦態勢だ。
「脅迫状の送信元は、やはり海外の踏み台サーバーを経由していたわ。特定にはもう少し時間がかかる」
すずはモニターから目を離さずに言った。
「でも、その代わりに面白いものが見つかったわよ」
「面白いもの?」
「ええ。脅迫状が届いたのとほぼ同時刻、新たなタレ込みがあったの」
すずがエンターキーを叩くと、私の手元のモニターにメール画面が転送された。
『件名:開発推進室における経費運用の不正、およびスケープゴートの準備について』
私は息を呑んだ。
本文には、悲痛な叫びのような告発が綴られていた。
『開発推進室では、恒常的な予算の不正流用が慣習化しています。会議費、交通費、雑費……あらゆる名目で裏金が作られ、現場の赤字補填に使われています。このままでは、責任を押し付けられた若手が一人、トカゲの尻尾として切り捨てられます。助けてください』
「開発推進室……」
私がその部署名を口にすると、合渡が静かにカップを置いた。
「システム開発本部の心臓部ですね。各プロジェクトの進捗管理、予算配分、人員調整を一手に引き受ける調整部門。……そして、もっとも『泥』が溜まりやすい場所でもある」
すずが、飴玉を口の中で転がしながら、冷ややかな声で解説を加える。
「データを見て。第3四半期の経費精算ログを可視化したわ」
大型モニターに映し出されたグラフは、異様な形をしていた。
特定の時期――月末や決算期前――にだけ、会議費と交通費が異常なスパイクを描いている。
「深夜2時の『会議費』が、一件あたり5万円を超えているケースが複数。しかも、支払先は特定の飲食店に集中している。さらに『タクシー代』としての交通費請求が、物理的に移動不可能な距離と頻度で計上されているわ」
すずは長い睫毛を伏せ、まるで汚いものを見るような目でデータを睨んだ。
「美しい数字じゃないわね。無理やり辻褄を合わせた数字には、独特の歪みが出るの。まるで、コルセットで締め上げられた内臓みたいに」
彼女の比喩はいつもグロテスクで、的確だ。
「なるほど。裏金作り、あるいは横領の可能性が高い」
合渡が眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「そして、告発文にある『スケープゴート』という言葉。不正の責任を誰か一人に被せて、組織全体を守ろうとする動きがあるということでしょう」
私の脳裏に、昨日の谷車部長の件がよぎる。
門廻という若者が潰されかけた、あの光景。
また同じことが繰り返されようとしているのか。
「……行きましょう」
私は立ち上がった。
「脅迫状の犯人探しも重要だが、目の前で潰されようとしている人間がいるなら、そっちが優先だ」
すずが、ふっと小さく笑った。その笑顔は、少女のような無邪気さと、共犯者としての妖艶さが同居する、彼女特有のものだった。
「いいわね。毒を食らわば皿まで。……開発推進室の帳簿、丸裸にしてあげる」
本社ビル18階、開発推進室。
エレベーターを降りた瞬間、そこには独特の空気が漂っていた。
谷車がいた第3開発部のような、ピリピリとした恐怖支配の空気ではない。もっと重く、湿った、澱んだ空気だ。
床には書類の束が積み上げられ、ホワイトボードには殴り書きのスケジュールと、真っ赤な「遅延」の文字が踊っている。電話の呼び出し音が鳴り止まず、社員たちは皆、死んだ魚のような目でモニターに向かっていた。
ここは戦場だ。それも、華々しい前線ではなく、補給路が断たれかけた泥沼の撤退戦の現場。
「おや、監査部の方々ですね。……お待ちしておりましたよ」
部屋の奥から、一人の男が現れた。
京滝慎策。開発推進室長。
48歳という年齢以上に、その風貌は枯れていた。グレーのスーツは上質だが着古されており、袖口は無造作にまくり上げられている。白髪混じりの短髪に、深い皺が刻まれた顔。
だが、その目は死んでいなかった。半眼で眠そうに見えるその瞳の奥には、すべてを見透かすような冷徹な光――老練な勝負師の光――が宿っていた。
「突然の訪問で申し訳ありません、京滝室長」
私は形式的な挨拶をした。
「本日は、経費運用の定期確認と、監査フォローアップのために伺いました」
「フォローアップ、ですか」
京滝は、口の端だけで笑った。その笑みには、温度がなかった。
「谷車の一件で、上層部もナーバスになっているようですね。……まあ、いいでしょう。立ち話もなんです、こちらへ」
通されたのは、書類の山に埋もれた狭い会議スペースだった。
テーブルの上には、飲みかけの栄養ドリンクの空き瓶と、灰皿代わりの空き缶が置かれている。
合渡が、一瞬だけ眉をひそめたのを私は見逃さなかった。潔癖な彼にとって、この空間は拷問に近いだろう。
「単刀直入に伺います」
合渡は座ることなく、立ったまま切り出した。
「貴方の部署の経費処理において、不自然な支出が散見されます。特に深夜帯の飲食費と、高額な交通費について。これらは業務上の必要性があってのものですか?」
京滝は、胸ポケットから使い古された革の手帳を取り出し、パラパラとめくった。その手帳は、彼の手垢と脂で黒光りしており、まるで彼の人生そのもののように重苦しい存在感を放っていた。
「必要性、ですか」
京滝は、掠れた声で言った。
「もちろん、すべて必要経費ですよ。我々の仕事は、この巨大な開発本部の『調整』です。昼間は会議、夜はトラブル対応。終電? そんなものは都市伝説ですよ。タクシーで帰れれば御の字、大概は近くのカプセルホテルか、この床で仮眠です」
「深夜2時の寿司デリバリーも、業務ですか?」
すずが、タブレットを突きつけるように問いかけた。彼女の美しい顔には、明らかな嫌悪感が浮かんでいる。
「一件5万円。一人で食べたとは言わせないわよ」
「ああ、それは協力会社のエンジニアへの差し入れです」
京滝は悪びれもせずに答えた。
「彼らは不眠不休でバグを直してくれている。缶コーヒー一本で『頑張れ』とは言えませんよ。……少なくとも、人間の血が通っていればね」
「領収書の但し書きは『会議費』になっていますが」
「食事をしながら打ち合わせをした。何か問題が?」
のらりくらり。
京滝の言葉には、嘘をついているという後ろめたさが一切ない。むしろ、「お前たちに現場の何が分かる」という、静かな傲慢さが滲み出ていた。
「では、原本を確認させていただけますか」
私は踏み込んだ。
「経理システム上のデータではなく、領収書の原本、および参加者リスト、具体的な打ち合わせ内容の記録を」
その瞬間、京滝の手が止まった。
彼はゆっくりと手帳を閉じ、その表紙を親指で撫でた。
「……葛石さん。貴方も元広報だ。現場の『あや』というものを知っているはずだ」
京滝の声のトーンが落ちた。それは説得ではなく、脅しに近い響きを持っていた。
「我々はモノを作っている。納期という絶対の神様のために、泥水を啜って働いている人間がいる。……綺麗な水だけで、魚が育つと思いますか?」
「それは不正を正当化する理由にはなりません」
合渡が即座に反論する。
「不正な会計処理は、長期的には会社の信用を損ない、結果として現場を殺すことになる。貴方がやっていることは、延命治療に見せかけた毒の投与です」
「毒、か」
京滝は自嘲気味に笑った。
「毒でも薬でも、今この瞬間の痛みを止められるなら、現場はそれを求めますよ。……原本の照合? 構いませんが、今は決算前の繁忙期だ。過去の書類を掘り返すのに、どれだけの人手と時間がかかるか」
「時間は作ります。人手なら私たちがやります」
私が言うと、京滝は初めて私を真っ直ぐに見た。
その目は、深く、暗い。底なし沼のように、すべてを呑み込む目だった。
「……分かりました。担当者に準備させましょう。ただし、数日は待っていただきたい。彼らも手一杯なんでね」
京滝は、部屋の隅でパソコンに向かっていた若手社員に声をかけた。
「おい、黨。監査部の方々がお見えだ。過去3ヶ月分の経費書類、倉庫から出しとけ」
指名された若手社員――黨康介が、弾かれたように立ち上がった。
痩せこけた頬、目の下の濃い隈。安っぽいスーツは皺だらけで、ワイシャツの袖口にはインクの染みがついている。
彼は、怯えたような目で私たちを見た後、すがるような視線を京滝に向けた。
「え、あ、はい……し、室長。でも、あれは……」
「聞こえなかったか? 出しておけと言ってるんだ」
京滝の声は穏やかだったが、そこには絶対的な命令が含まれていた。
「すべて、ありのままをな」
黨と呼ばれた青年は、青ざめた顔で小さく頷いた。
その様子を見て、私は直感した。
この若者こそが、告発文にあった「スケープゴート」――これから切り捨てられようとしている生贄なのだと。
「……数日も待てません」
すずが、冷たく言い放った。彼女は黨の方を見ている。
「データの改ざんや隠蔽をするには十分な時間だもの。今すぐ、ここで見せてもらうわ」
「お嬢さん、現場を止める気ですか?」
京滝が、初めて苛立ちを露わにした。
「私が止めたら、来月の新製品リリースはどうなる? 違約金は誰が払う? あんたたち監査部が、その責任を取れるのか?」
威圧。
「利益」と「納期」という、企業における最強の盾を使った防御。
だが、その盾の裏側に、どれだけの腐臭が漂っているかを、私たちは知っている。
「責任なら、不正を放置した人間が取るべきです」
私は京滝の目を真っ直ぐに見据えた。
「たとえ現場が止まったとしても、腐った土台の上に城は建たない。……我々は引き下がりませんよ、京滝室長」
京滝は、数秒間、私を睨みつけた後、ふっと力を抜いた。
それは降伏ではなく、面倒な子供をあしらう大人の態度だった。
「……勝手にしなさい。ただし、私の部下たちの邪魔だけはするな」
彼はそう言い捨てると、黨に目配せをして部屋を出て行った。
残されたのは、書類の山と、震える若手社員――黨康介だけだった。
私は黨に向き直った。
彼は、まるで処刑台に立たされた囚人のように、小刻みに震えている。
彼が抱えているのは、単なる領収書の束ではない。この開発推進室の、いや、東都テクノリンクという巨大メーカーの「暗部」そのものなのだ。
「黨さん、ですね」
私はできるだけ声を柔らかくして言った。
「貴方を責めに来たわけじゃありません。……話を、聞かせてくれませんか?」
黨は、泣きそうな顔で私たちを見た。
その瞳には、絶望と、ほんの僅かな救済への渇望が揺れていた。
この若者を救い出すこと。それが、見えざる「神」への最初の一撃になるはずだ。
地下室の戦いは、泥沼の消耗戦へと突入しようとしていた。




