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通報窓口、ただいま炎上中  作者: U3


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見えざる神の指先

 地下2階の特命調査室には、戦いのあとの独特な倦怠感が漂っていた。


 谷車剛造という「成果主義の怪物」を追い払ったものの、その結末は東鶴襟華という「美しき管理者」の手のひらで踊らされただけという、苦い余韻を残していた。




「……ま、次があるさ」




 俺、葛石は冷めかけたコーヒーを飲み干し、自分に言い聞かせるように呟いた。


 エアコンの低い唸り声だけが響くこの部屋は、東都テクノリンクという巨大企業の光が届かない、電子の墓場だ。だが、墓守には墓守の矜持がある。




「そうね。……次は、もっと甘い案件がいいわ」




 入坂すずが、新しいチョコレートの包みを開きながら言った。


 彼女は、25歳という年齢よりもずっと幼く見える。色素の薄いブラウンの髪が、無造作に頬にかかり、モニターのブルーライトを浴びて透き通るような白さを際立たせている。その横顔は、不機嫌なペルシャ猫のようでもあり、同時に、傷つくことを恐れる少女のようでもあった。


 彼女が口に含んだチョコレートの甘い香りが、淀んだ空気をわずかに和らげる。




「甘い案件か。例えば?」


「『社食のカレーが辛すぎる』とか、『部長のヅラがズレていて笑いを堪えるのが業務妨害だ』とか」




 すずは冗談めかして言ったが、その瞳は笑っていなかった。彼女はすでに、次の獲物を探してキーボードを叩き始めている。その指先は、ピアニストのように繊細で、しかし獲物を追い詰める猟犬のように速い。




 合渡悠作は、いつものように姿勢良く座り、万年筆の手入れをしていた。




「平和な案件など、このホットラインには届きませんよ。ここは欲望と欺瞞の掃き溜めですから」


「合渡さん、たまには夢を見させてよ」




 そんな軽口を叩き合っていた、その時だった。


 すずの手が、ピタリと止まった。




 カチ、カチ、カチ。


 彼女がマウスをクリックする音が、やけに乾いて響いた。




「……あれ?」




 すずの声色が変わった。


 先ほどまでの気怠げな甘さは消え失せ、張り詰めた緊張感が漂う。




「どうした?」


「ない」


「何が?」


「ログが……消えてる」




 すずは、信じられないものを見るようにモニターを凝視していた。




「さっきまで保留ボックスにあった、『品質保証部・検査データ改ざん疑惑』の通報メール。……ないわ。完全に消滅している」




 俺と合渡は顔を見合わせた。


 品質保証部のデータ改ざん。それは、メーカーである東都テクノリンクにとって、谷車のパワハラなど比較にならないほどの「核爆弾」だ。製品の安全性を根幹から揺るがす、絶対にあってはならない不正。


 それを、俺たちは次のターゲットとしてマークしていたはずだった。




「誤操作じゃないのか?」


「私の辞書に誤操作なんて言葉はないわ」




 すずは即座に否定し、猛烈な勢いでコマンドを打ち込み始めた。画面に緑色の文字列が滝のように流れる。




「サーバーのアクセスログ、バックアップログ、DBのトランザクション履歴……全部洗ってるけど、痕跡がない。まるで最初からそんなメールは存在しなかったみたいに、綺麗さっぱり消されてる」




 彼女の額に、脂汗が滲んでいた。




「こんなこと、不可能なのよ。このホットラインのサーバーは、監査部が物理的に隔離して管理している。外部からの侵入は理論上不可能だし、内部から削除するにしても、必ず操作ログが残る仕様になっているはずなのに」




 合渡が静かに立ち上がり、すずの背後に立った。




「物理的に隔離されているサーバーのデータを、痕跡を残さずに消去できる権限を持つ人間。……この会社に何人いますか?」




 すずは唇を噛んだ。




「システム管理者権限を持つのは、情報システム部のトップと、私たち監査部の特権IDだけ。……でも、root権限を使ったとしても、その使用履歴は残るわ。履歴ごと消せるのは……」




 彼女は言葉を詰まらせ、青ざめた顔で俺たちを見た。




「……『神』だけよ」




「神?」


「システムの設計段階から組み込まれた、あらゆるセキュリティを無視できるマスターキーを持つ存在。そんなものが実在するなんて都市伝説だと思っていたけれど」




 背筋が寒くなった。


 見えない敵。それも、この地下室の堅牢な壁をすり抜け、俺たちの目の前で証拠を握り潰せるほどの力を持った何者か。




 その時。




 ウィィィィィィン……。




 静まり返った部屋の隅で、突然、複合機が起動音を上げた。


 誰も操作していないはずのプリンターが、深夜の墓場で目覚めた死者のように、低い唸りを上げ始める。




「な、なんだ?」




 俺は反射的に身構えた。


 給紙トレイからA4用紙が一枚吸い込まれ、ドラムが回転する音が響く。


 印刷データが送られた形跡など、どこにもなかったはずだ。




 シュッ。


 一枚の紙が、排紙トレイに吐き出された。




 俺たちは、吸い寄せられるようにその紙に近づいた。


 真っ白な紙の中央に、明朝体のフォントで、たった一行。




『次は、あなたの番です』




 その文字を見た瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは、東鶴襟華の美しい微笑みだった。




『会社というのは法廷ではないの。政治とバランスで動く生き物なのよ』




 まさか。


 いや、彼女ならやりかねない。彼女にとって「改革」とは、自身の権力基盤を固めるための手段でしかない。もし、品質保証部の不正が、彼女の派閥にとって不都合な真実だったとしたら?




「……宣戦布告ですね」




 合渡が、その紙を指先で摘み上げた。汚いものに触れるように。




「我々の動きは、筒抜けだということです。谷車部長の件は泳がされていたに過ぎない」




 すずが、ガタガタと震え出した。恐怖からではない。怒りからだ。


 彼女は自分の領域であるデジタル空間を、土足で踏み荒らされたことに激昂していた。




「許さない……」




 彼女はギリギリと奥歯を噛み締めた。




「私の城に幽霊を入れるなんて。絶対に引きずり出してやる。たとえ相手が神様でも、引きずり下ろして、データの藻屑にしてやるわ」




 彼女は髪を荒々しくかき上げ、再びキーボードに向かった。


 その横顔には、狂気的で妖艶な殺意が宿っていた。


 もはや彼女は「少女」ではない。復讐を誓う「魔女」だ。




「葛石さん」




 すずが、モニターから目を離さずに俺を呼んだ。




「プリンターのネットワークログを解析する。送信元を特定するまで、私はここを一歩も動かない。……コーヒー、もう一杯淹れてくれる?」




 俺は苦笑した。


 脅迫状が届いた直後に、コーヒーの催促とは。


 だが、それが彼女なりの戦闘態勢なのだと分かる。




「ああ、分かった。とびきり濃いやつをな」


「合渡さんは、品質保証部の周辺を洗ってください」




 すずは次々と指示を飛ばす。




「データが消されたってことは、そこに『本丸』があるってことよ。消された事実そのものが、最大の証拠になる」




「承知しました」




 合渡もまた、不敵な笑みを浮かべて眼鏡を光らせた。




「姿の見えない幽霊を法廷に引きずり出すのは骨が折れますが……やりがいのある仕事です」




 俺は給湯室へ向かいながら、背中の震えが止まるのを感じていた。


 恐怖は消えていない。むしろ増している。


 だが、この地下室には、最強の相棒たちがいる。




 窓口内部に敵がいる。


 それはつまり、俺たちの背中を守る壁など、最初から存在しなかったということだ。


 全方位が敵。


 上等じゃないか。




 俺はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。


 ボコボコと沸き立つ黒い液体が、これから始まる泥沼の戦いを予感させていた。


 地下2階の戦いは、ここからが本番だ。

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