埃の中の執行人
東都テクノリンク本社、1階。
華やかなエントランスロビーの裏側、従業員専用通路の奥深くに、その部屋はひっそりと存在していた。
「総務部・資料室」。
鉄製の重い扉を開けると、そこには、現代のIT企業とは思えない光景が広がっていた。
匂いが、違う。
地下2階の特命調査室がオイルと電子機器の排熱の匂いだとすれば、ここはカビと古紙、そして停滞した時間の匂いが支配していた。
天井まで届くスチール棚が迷路のように立ち並び、そこには過去数十年にわたる稟議書、契約書、設計図面の原本が、茶色く変色した背表紙を晒して眠っている。ここは、東都テクノリンクの「記憶」の墓場だ。
私は、スマートフォンのライトを点灯させ、埃っぽい空気の中を進んだ。
午後6時を回り、資料室には人の気配はない。空調の音さえも遠く、自分の足音だけが静寂に吸い込まれていく。
「……共有端末は、3台」
管尾室長から聞いた情報を頼りに、閲覧コーナーへ向かう。
棚の隙間に設けられた狭いスペースに、旧型のデスクトップPCが3台、寂しげに並んでいた。どれも筐体が黄ばんでおり、キーボードには手垢が染み付いている。
これらは社内LANには繋がっているものの、インターネットへの接続は制限され、セキュリティソフトのアップデートも後回しにされている「エアポケット」だ。
私は、中央の端末の前に立った。
IPアドレスの末尾『.102』。
すずが特定した、犯行に使われた端末だ。
私はポケットからラテックスの手袋を取り出し、装着した。
デジタルなログは消せても、物理的な痕跡までは完全には消せない。人間は、そこに存在するだけで何らかの痕跡を残す生き物だ。
キーボードを見る。
使い込まれて文字が消えかけたキートップ。
特に『Enter』キーと、数字キーの『0』が摩耗している。経理処理や承認作業で多用されるキーだ。
だが、それだけでは何も語らない。
私は視線を落とし、デスクの下、PC本体の裏側、そして椅子の座面の下までライトを当てて調べた。
犯人は、ここで「窓口管理サブ」のアカウントを使い、ログを消し、私を陥れるための不正送金を承認した。
その作業には、それなりの時間がかかったはずだ。深夜の資料室。誰もいない密室。
緊張感と、背徳感。
そんな状況下で、人間が無意識にとってしまう行動は何か。
「……ん?」
端末のモニターの裏側。壁との隙間に、何かが挟まっているのが見えた。
私は慎重に手を伸ばし、ピンセットでそれを摘み出した。
それは、小さく折り畳まれた、銀紙の切れ端だった。
ガムの包み紙? いや、違う。
微かに、甘く、そして苦い香りが残っている。
「……チョコレートの、包み紙?」
一瞬、入坂すずの顔が脳裏をよぎったが、すぐに打ち消した。
これは、彼女が好むベルギー製の高級チョコの包み紙ではない。コンビニで売っている、カフェイン含有量の多い、眠気覚まし用の機能性チョコレートのものだ。
銀紙の端には、焦ったように引きちぎられた痕跡がある。
犯人は、ここで作業をしながら、焦燥感を紛らわせるためにこれを食べたのか。
さらに、キーボードの隙間。
『F12』キーと『PrintScreen』キーの間に、微細な繊維が挟まっていた。
私はスマホのマクロレンズでそれを拡大した。
淡い、ピンク色の繊維。
羊毛か、あるいはカシミヤか。
高級な素材だ。作業着や安物のスーツではない。
脳内でプロファイリングが走る。
深夜の資料室に忍び込み、カフェインで脳を叩き起こしながら、高級なニット、あるいはストールを身に纏ってキーボードを叩く人物。
東鶴襟華?
いや、彼女自らがこんな埃っぽい場所に来て、コンビニのチョコを齧るとは思えない。彼女なら、もっと優雅に、紅茶を飲みながら部下にやらせるはずだ。
だとしたら、実行犯は別にいる。
東鶴の懐刀であり、彼女の意向を汲んで汚れ仕事を請け負い、かつシステムに精通している人物。
そして、高級な衣服を身に着けるだけの地位にある者。
その時、廊下から微かな足音が聞こえた。
ヒタ、ヒタ、ヒタ……。
革靴の音ではない。音を殺して歩く、ラバーソールの音だ。
私は息を潜め、スチール棚の影に身を隠した。
足音は近づいてくる。
資料室の入り口で止まった。
カチャリ。
ドアノブが回される音。
誰かが、覗いている。
私がここにいることを知っていて、確認しに来たのか?
それとも、犯人が「忘れ物」を取りに来たのか?
心臓の音が、静寂な部屋にドラムのように響く。
数秒の沈黙の後、足音は遠ざかっていった。
私は大きく息を吐き出した。
やはり、監視されている。
『手続きを踏めば踏むほど、あなたが壊れます』という警告は、ハッタリではない。
だが、収穫はあった。
私は銀紙と繊維片を証拠品袋に収め、資料室を後にした。
埃の中に残された微かな「指紋」。
これを地下室の天才に届ければ、必ず道は開ける。
地下2階、特命調査室。
戻ってきた私を迎えたのは、張り詰めた緊張感と、モニターの冷たい光だった。
「……おかえりなさい。生きて戻ってこれたみたいね」
入坂すずが、ゲーミングチェアを回転させてこちらを向いた。
その表情には、安堵の色が浮かんでいる。
彼女は、白いオーバーサイズパーカーの袖を捲り上げ、その華奢な腕を組んでいた。モニターのブルーライトに照らされた横顔は、25歳という年齢よりも幼く、まるでガラス細工のように繊細に見える。だが、その瞳の奥には、決して折れない芯の強さが宿っていた。
机の上には、開封されたばかりのチョコレートの箱と、飲み干された栄養ドリンクの空き瓶。彼女もまた、戦っていたのだ。
「ああ、なんとかね。……これを見てくれ」
私は証拠品袋を彼女に渡した。
「資料室の端末で見つけた。機能性チョコの包み紙と、ピンク色の繊維片だ」
すずは、目を丸くして袋を受け取り、すぐにデスク上のデジタル顕微鏡にセットした。
モニターに拡大された繊維の画像が映し出される。
「……カシミヤね。それも、最高級の」
すずが即座に分析する。
「繊維の撚り方が特徴的だわ。これ、イタリアの『ロロ・ピアーナ』あたりの生地じゃないかしら。……こんな高い服を着て、埃まみれの資料室でPCをいじるなんて、随分と酔狂な犯人ね」
「あるいは、着替える暇もなかったか」
合渡悠作が、冷静に指摘した。
「緊急の呼び出しを受けて、私服のまま駆けつけた。……犯行時刻は深夜3時です。自宅で寝ていたところを叩き起こされ、コートの下にパジャマ代わりの高級ニットを着ていた、という線も考えられます」
「なるほどね。……で、こっちは?」
すずが、銀紙の切れ端をピンセットで摘み上げた。
「コンビニで売ってる『眠眠打破チョコ』。……東鶴副社長の趣味じゃないわね。彼女なら、ピエール・エルメかゴディバしか口にしないわ」
「つまり、実行犯は東鶴本人ではない」
私は結論づけた。
「だが、彼女に極めて近く、そして深夜の呼び出しに応じるだけの忠誠心、あるいは弱みを握られている人物だ」
人物像が、少しずつ絞られていく。
だが、まだ「誰か」までは特定できない。
「……葛石さん」
合渡が、手元の書類をトントンと揃えて立ち上がった。
「物理的な証拠探しはここまでです。これ以上は、犯人が尻尾を出してくれないと詰められない」
「ああ。分かっている」
私は時計を見た。午後9時。
明日の事情聴取――私の「処刑」が予定されている時刻まで、あと17時間。
「明日の聴取、私が同席します」
合渡が、銀縁眼鏡を指で押し上げ、断言した。
「人事部は『個人の非違行為に関する調査』という名目で、弁護士の同席を拒否するでしょう。ですが、私は弁護士としてではなく、『コンプライアンス統括部の担当者』として同席を求めます。……内部通報制度の運用に関する疑義が生じている以上、コンプライアンス部門には調査に立ち会う正当な権限がある」
それは、彼が用意した最強の法的ロジックだった。
人事部といえど、コンプライアンス部の介入を無下には断れない。
「聴取の場を、逆に『尋問の場』に変えます」
合渡の瞳が、冷たく光った。
「人事部長、そして背後にいる東鶴副社長に対し、貴方の潔白を証明し、逆に彼らの不正を突きつける。……そのためには、今夜中に『決定的な証拠』が必要です」
「任せて」
すずが、ニヤリと笑った。
彼女は、メインモニターに複雑なネットワーク図を表示させた。
中央には、真っ赤に点滅する「罠」のアイコン。
「運用テスト通報の準備は完了しているわ。……内容は『東鶴副社長の裏金口座に関する決定的証拠データ』。ファイル名は『Secret_Evidence.zip』。……どう? 釣り針としては最高でしょ?」
あまりにも露骨で、危険な餌。
だが、今の彼らは焦っている。
私が明日の聴取で何を喋るか、どんな隠し玉を持っているか、疑心暗鬼になっているはずだ。
もし、こんなファイルが通報窓口に届いていたら?
彼らは、リスクを冒してでも確認し、削除せずにはいられないだろう。
「このファイルに触れた瞬間、スクリプトが発動する」
すずの声が、熱を帯びる。
「接続元のIP、MACアドレス、ブラウザの指紋、そしてキーボードの打鍵パターン……。犯人のデジタルな指紋を、根こそぎ引っこ抜いてやるわ」
「いつ、仕掛ける?」
「今よ。……敵が最も油断し、かつ焦燥に駆られる時間帯。深夜の静寂が訪れる前」
すずは、エンターキーに白く細い指を置いた。
その指先は微かに震えていた。恐怖からではない。
狩人の興奮からだ。
「……葛石さん、合渡さん。準備はいい?」
私は頷いた。
合渡も、静かに頷いた。
「行け、すず。……俺たちの未来を釣り上げてくれ」
カターンッ!
軽快な打鍵音が、地下室に響き渡った。
デジタルの海に投じられた一滴の毒。
波紋は、見えないケーブルを伝って、本社のサーバーへ、そして犯人の手元へと広がっていく。
私たちは、モニターの前で息を潜めた。
ここからは、忍耐の勝負だ。
犯人が餌に気づき、手を伸ばすその瞬間まで。
地下2階の空調が、低く唸り続けている。
それは、嵐の前の静けさというには、あまりにも重苦しく、そして熱を帯びた沈黙だった。
明日の午後2時。それが私の終わりの時間か、それとも反撃の始まりの時間か。
全ては、今夜の漁果にかかっている。
私は、資料室で拾ったピンク色の繊維片を握りしめた。
犯人よ、動け。
その高価な服を冷や汗で濡らしながら、もう一度、禁断の果実に手を伸ばせ。
モニターのカーソルが、チカチカと点滅を繰り返している。
それは、私たちの鼓動と同期しているようだった。




