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通報窓口、ただいま炎上中  作者: U3


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透明な檻の向こう側

 IPアドレスの逆探知結果が示した場所は、あまりにも意外で、そして不気味なほど「無防備」な場所だった。


 東都テクノリンク本社、総括管理本部・情報セキュリティ運用室。

 無機質な冷気が漂うこの部屋で、入坂すずはメインスクリーンに表示された文字列を睨みつけていた。


「……総務部・資料室。本気なの?」


 すずの声には、困惑の色が混じっていた。

 資料室。それは、デジタル化から取り残された紙媒体の契約書や、過去の稟議書の原本が眠る、埃っぽい書庫だ。最先端のサイバー攻撃の震源地としては、あまりにも似つかわしくない。


 運用室長の管尾守は、表情一つ変えずにキーボードを操作し、補足情報を画面に追加した。


「不思議ではありません。資料室には、検索用の共用端末が数台設置されています。それらは古い社内LANに直結しており、セキュリティ監視のエアポケットになりやすい」


 管尾は淡々と言った。


「そして、今回悪用された『窓口管理サブ』というID。……これは、メンテナンス業者が緊急時に使用するための共有アカウントです。特定の個人に紐付いていない」


「共有アカウント……」


 私は呻いた。


「つまり、このIPアドレスだけでは、誰がキーボードを叩いたかまでは特定できないということか」


「そういうことになります」


 管尾は眼鏡の位置を直すこともなく、冷徹な事実を突きつけた。


「資料室の端末から、共有IDを使ってアクセスされた。……システム上のログから分かるのはここまでです。これ以上、個人の特定を行うには、物理セキュリティの領域に踏み込む必要があります」


「物理セキュリティ?」


 合渡悠作が反応した。


「入退室記録ですね」


「ええ。該当する日時に、資料室に誰が出入りしたか。ICカードのログと、廊下の監視カメラ映像を照合すれば、端末の前に座っていた人間を絞り込めるでしょう」


 管尾はそこで言葉を切り、私たちを冷ややかに見渡した。


「ただし、そのデータを開示するには、私の権限だけでは足りません。総務本部長、あるいはリスク管理委員長――すなわち東鶴副社長の決裁が必要です」


 壁だ。

 システムという論理の壁を突破した先に待っていたのは、権限という政治の壁だった。

 犯人は、そこまで計算して「資料室」と「共有ID」を選んだのだ。アナログな死角と、権限の壁を利用した、完璧な隠蔽工作。


「……詰み、ということですか」


 私が問うと、管尾はわずかに首を横に振った。


「私は『手続きが必要だ』と言っただけです。……もし、貴方たちが法的な強制力を持つ『正式な保全要請』を持ってくるなら、私は規定に従って協力します。相手が副社長だろうと、関係ありません」


 鉄壁の門番は、味方ではない。だが、敵でもない。

 彼はただ、ルールという名の神に仕える忠実な下僕なのだ。その公平さが、今の私たちにとっては唯一の救いだった。


「……分かった。ありがとう、管尾室長」


 私は深く頭を下げた。


 すずは、去り際に管尾を一瞥し、ニヤリと笑った。


「アンタみたいな堅物、嫌いじゃないわよ。……次は、もっと面白いログを見せてあげる」


 総括管理本部を後にし、私たちは地下2階への帰路についた。

 エレベーターの中は重苦しい沈黙に包まれていた。

 敵の尻尾は掴んだ。だが、その本体を引きずり出すには、まだ武器が足りない。


 特命調査室の重いセキュリティドアを開ける。

 慣れ親しんだオイルの匂いと、すずが持ち込んだ甘い菓子の香りが混ざり合う、私たちの砦。

 だが、その安息は一瞬で破られた。


「……またか」


 私が呟くと同時に、すずが低い唸り声を上げた。

 私のデスクの上。

 昨日の茶封筒が置かれていたのと全く同じ場所に、今度は一枚のメモ用紙が貼り付けられていた。

 黄色い付箋紙。オフィスでよく見かける、ありふれた文房具だ。

 そこに、手書きの走り書きがあった。


『手続きを踏めば踏むほど、あなたが壊れます』


 丸みを帯びた、丁寧な文字。

 一見すると、親切な忠告のようにも見える。だが、その内容は明確な脅迫だった。

 私たちが管尾室長のもとへ行き、正規の手続きでログを入手しようとしたこと。それが、リアルタイムで筒抜けになっている。


「……見てるのね」


 すずが、部屋の隅にある監視カメラを睨みつけた。

 彼女は、デスクにあった高級チョコレートの箱を手に取り、苛立ちをぶつけるように乱暴に開けた。中からトリュフを一粒取り出し、口に放り込む。

 今日の彼女の服装は、白いオーバーサイズパーカーにショートパンツ。その無防備な太ももや華奢な首筋が、見えない視線に晒されていると思うと、虫唾が走るような不快感が込み上げてくる。


「映像はまたループしているはずよ。……この部屋にはもう、プライバシーなんて存在しないわ」


 すずは、チョコレートを噛み砕きながら、モニターに向かった。


「手続きを踏めば壊れる? ……上等じゃない。壊れるのがどっちか、試してみましょうか」


「ええ、その通りです」


 合渡が、付箋紙をピンセット代わりのペン先で慎重に剥がし、証拠品袋に入れた。


「相手が手続きを恐れているなら、我々はさらに強固な手続きで応戦するまでです」


 合渡は、持参していたブリーフケースからノートPCを取り出し、猛烈な勢いで文書を作成し始めた。


「管尾室長は『正式な要請』と言いました。ならば、法務部名義ではなく、私が個人的に契約している弁護士事務所の名義で、内容証明郵便による『証拠保全申入書』を作成します」


 彼の眼鏡が、冷たく光った。


「対象は、窓口管理サブの操作ログだけではありません。資料室の入退室記録、監視カメラ映像、そして当該時間帯に資料室にアクセスした全社員の業務日報。……これらを『訴訟準備のための重要証拠』として保全を求めます。これを拒否すれば、裁判所による証拠保全命令を申し立てる」


 法的全面戦争。

 合渡の本気だ。


「でも、それには時間がかかるわ」


 すずが、キーボードを叩く手を止めずに言った。


「郵便が届いて、法務が審査して、決裁が下りるまでに数日はかかる。その間に、敵はログを物理削除するか、資料室の端末ごと破壊するかもしれない」


「確かに。即効性が足りない」


 私が頷くと、すずはニヤリと笑った。

 その笑顔は、可憐な美少女のものではなく、獲物を罠にかける狩人のものだった。


「だから、別の手を打つわ」


 彼女はメインモニターに、複雑なコードを表示させた。


「向こうが『消す』ことに執着しているなら、それを逆手に取るのよ」


「逆手に取る?」


「ええ。……名付けて『運用テスト通報作戦』」


 すずは、楽しそうに解説を始めた。


「私がこれから、窓口システムにダミーの通報を入れるわ。内容は『役員の不正に関する決定的証拠データあり』みたいな、敵が絶対に無視できないやつね」


 彼女の指先が、空中でピアノを弾くように動く。


「ただし、この通報データには、特殊な『電子透かし』を埋め込んでおく。……このデータを開いたり、削除したりしようとすると、その操作を行った端末のMACアドレス、OSのバージョン、ブラウザのキャッシュ情報……ありとあらゆる痕跡を、強制的に私の個人サーバーへ送信するようにプログラムしてあるの」


 私は息を呑んだ。


「それは……ウイルスみたいなものか?」


「人聞きが悪いわね。あくまで『システムの動作検証用スクリプト』よ」


 すずは悪戯っぽく舌を出した。


「削除しようとした手が、ベッタリとインクで汚れるような仕掛け。……どう? 合渡さん、これなら法的にギリギリセーフでしょ?」


 合渡は、一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに口元を緩めた。


「……システムの脆弱性診断の一環、という名目であれば。ただし、取得する情報は端末情報に限り、個人情報は抜かないこと。それが条件です」


「交渉成立ね」


 すずはエンターキーに指をかけた。


「さあ、餌を撒くわよ。食いつきなさい、姿なき神様」


 カターン!


 軽快な音が響き、罠は放たれた。

 電子の海に投じられた毒入りの餌。

 それが敵に届くまでの、息詰まるような沈黙。


 だが、その沈黙を破ったのは、敵の悲鳴ではなく、私のスマートフォンだった。


 ブーッ、ブーッ、ブーッ。


 無機質な振動音が、机の上で暴れる。

 画面に表示された発信元を見て、私の心臓が嫌な音を立てた。


 『人事部・労務課』


 嫌な予感しかしない。

 私は意を決して、通話ボタンを押した。


「……はい、監査部の葛石です」


『お疲れ様です。人事部の佐山です』


 電話の向こうの声は、事務的で、そして氷のように冷たかった。


『葛石次長。本日付で、貴殿に対する「事情聴取」の通知を発令しました。……件名は、システム開発本部および総務部における、経費の不正承認疑惑についてです』


 来た。

 脅迫メモにあった「壊れます」という予言の、第一段階だ。


「……不正承認? 私はやっていません。あれはIDを偽装されたものです」


 私が反論しようとすると、佐山は淡々と遮った。


『その弁明も含めて、懲罰委員会で聞くことになります。聴取は明日、午後14時。場所は第3会議室。……なお、調査の公平性を期すため、本日より貴殿の業務権限の一部を停止し、自宅待機を命じる可能性があります』


「待ってください! 今、重要な調査の最中で……」

『これは業務命令です。拒否すれば、それ自体が処分の対象となります』


 一方的な通告。

 通話が切れた後も、私はしばらくスマホを耳に当てたまま動けなかった。


「……人事部からね」


 すずが、静かに尋ねた。彼女の顔から、先ほどの楽しげな表情は消えていた。


「ああ。明日の午後、事情聴取だそうだ。……経費不正の件で」


 私は力なくスマホを置いた。


「いよいよ、本格的に潰しに来たな」


 外堀は埋まり、内堀まで埋められようとしている。

 私が「処分対象者」として自宅待機になれば、この部屋に入ることも、調査を指揮することもできなくなる。

 そうなれば、合渡とすずだけでは、組織的な圧力に抗しきれないかもしれない。


「……時間は、明日までか」


 合渡が、腕時計を見た。


「今から24時間以内に、決定的な証拠を掴み、逆に彼らを告発するしかない。……時間との勝負ですね」


 私は、デスクの上の脅迫メモを見つめた。


 『手続きを踏めば踏むほど、あなたが壊れます』


 確かに、私は壊れかけているかもしれない。

 社会的信用も、社内での立場も、砂の城のように崩れ去ろうとしている。

 だが。


「……壊れるなら、派手に壊れてやるさ」


 私は顔を上げた。


「すず、罠の監視を頼む。合渡さん、保全請求のドラフトを急いでくれ。俺は……」


 私は、壁に貼られた組織図を睨んだ。

 その頂点にいる東鶴襟華。そして、その足元にある総務部・資料室。


「俺は、最後の悪あがきをする。資料室へ行く」


「は?」


 すずが目を丸くした。


「ログもないのに? 危険すぎるわ」


「犯人は、資料室のアナログな環境を利用した。なら、アナログな痕跡が残っているかもしれない。……指紋、髪の毛、あるいはメモの切れ端。現場百回だ」


 泥臭い、昭和の刑事のような発想。

 だが、デジタルで追い詰められた今、活路はそこにしかない気がした。


「行ってくる。……俺が壊れる前に、奴らの化けの皮を剥いでやる」


 私はジャケットを掴み、部屋を飛び出した。

 背中で、すずが「バカね」と呟くのが聞こえた。だが、その声は微かに震えていた。


 透明な檻に閉じ込められた私たち。

 その檻を破るための、最後の24時間が始まった。

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