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通報窓口、ただいま炎上中  作者: U3


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12/15

沈黙という名の檻

 雨は上がっていたが、東京の空は鉛色の雲に覆われたままだった。


 私たちは、濡れたアスファルトの匂いが立ち込める中、東都テクノリンク本社ビルの裏口から地下へと潜った。


 華やかなエントランスを通る気にはなれなかった。そこを行き交う社員たちの明るい表情が、先ほど見た右色社長の涙とあまりにも乖離していて、直視できる自信がなかったからだ。




 地下2階、特命調査室。


 重いセキュリティドアの電子ロックを解除し、中に入る。


 いつもなら、サーバーの排熱音と、微かなチョコレートの香りが私たちを迎えてくれる場所だ。


 だが、その瞬間に感じたのは、肌が粟立つような違和感だった。




「……誰か、いたわね」




 入坂すずが、低く呟いた。


 彼女は濡れたパーカーのフードを脱ぎ捨て、濡れた子犬が身震いするように、亜麻色の髪を振った。その髪から散った水滴が、薄暗い部屋の中で冷たく光る。


 彼女の嗅覚は、デジタルのバグだけでなく、物理的な異物に対しても敏感だ。彼女の聖域であるこの部屋の空気が、わずかに乱されていることを瞬時に察知していた。




「セキュリティシステムに異常はありませんでしたが……」




 合渡悠作が、警戒心を露わにして部屋を見渡す。彼の手は、懐のスマートフォン――いつでも警察に通報できる武器――にかかっていた。




 部屋の中は、私たちが最後に出た時と変わらないように見えた。


 モニターの電源は落ちており、書類の山もそのまま。


 だが、一点だけ。


 私のデスクの上に、存在してはならないものがあった。




 一通の、茶封筒。


 何の変哲もない、社内便で使われる安っぽい封筒だ。


 だが、そこには宛名も、差出人の名前もなかった。




「……触らないで」




 すずが鋭い声で制止する前に、私はそれに近づいていた。


 封筒の口は開いていた。


 中に入っていたのは、たった一枚の便箋。




 私は、震える指先でそれを取り出した。


 そこに印字されていたのは、以前プリンターから吐き出された脅迫状と同じ、無機質な明朝体の文字だった。




『黙っていれば、誰も傷つかない』




 短い一文。


 だが、その言葉が放つ重力は、私の心臓を押し潰すほどに重かった。


 脅しではない。「提案」を装った、悪魔の囁きだ。




「……ハッ、笑わせるわね」




 すずが、私の背後からその文字を覗き込み、氷のような冷笑を漏らした。


 彼女は自分のデスクに戻り、高級なベルギーチョコレートの箱を乱暴に開けた。糖分を脳に送り込まなければ、怒りで血管が切れそうだったのだろう。


 彼女はマカロンを一つ、口に放り込み、ガリリと噛み砕いた。その音は、まるで敵の骨を砕く音のように響いた。




「『誰も傷つかない』ですって? よくもまあ、そんな白々しい嘘を。……右色社長も、門廻くんも、新方課長も、もう十分に傷ついているじゃない」




 彼女の言う通りだ。


 この言葉の真意は、「権力者たちが傷つかない」という意味でしかない。


 弱者が血を流し、骨を砕かれ、それでも声を押し殺して耐えている状態を、彼らは「平和」と呼ぶのだ。




「入坂さん、監視カメラの映像は?」




 合渡が冷静に問うた。




「この部屋に入退室できるIDは限られています。誰がこれを置いたのか、記録が残っているはずだ」




 すずは、濡れた髪を拭こうともせず、猛烈な勢いでキーボードを叩いた。


 モニターが次々と点灯し、地下室に蒼白い光が満ちる。


 だが、数秒後、彼女は悔しげに机を叩いた。




「……ダメ。ループしてる」


「ループ?」


「私たちが外に出ていた2時間の間、監視カメラの映像が、昨日の同じ時間帯の映像に差し替えられているわ。……あまりにも完璧な編集。痕跡ひとつ残っていない」




 すずは、ギリギリと奥歯を噛み締めた。


 彼女の濡れた瞳が、モニターの光を反射して、鬼火のように揺らめいている。




「また『神』の仕業よ。システム管理者権限を使って、物理的な侵入の痕跡すら消し去った。……私の城を、ここまでコケにしてくれるなんて」




 姿なき敵。


 デジタル空間だけでなく、物理的にも私たちの喉元までナイフを突きつけてきている。


 この茶封筒は、単なる手紙ではない。「いつでもお前の息の根を止められる」という、死刑執行人からのメッセージだ。




 私は、手の中の便箋を握りしめた。


 かつての私なら、ここで膝を屈していただろう。


 広報部時代、私は「会社のため」という大義名分のもと、多くの不都合な真実を闇に葬ってきた。




 「ここで騒げば、社員全員が路頭に迷うぞ」


 「黙っていれば、株価は守られる」




 そう自分に言い聞かせ、沈黙という名の檻の中に、真実を閉じ込めてきた。


 その結果が、今のこの腐敗した組織だ。




 これ以上、沈黙してはならない。


 沈黙は、共犯だ。




「……葛石さん」




 合渡が、静かに私の名を呼んだ。


 彼は、いつの間にか紅茶を淹れていた。湯気の立つカップを私の前に置き、その理知的な瞳で私を見据える。




「敵は焦っていますね」


「焦っている?」


「ええ。これまでは、デジタルの世界から貴方を攻撃していました。IDの偽装、ログの改ざん……。ですが、今回はわざわざ物理的な接触を選んだ。リスクを冒してまで、貴方のデスクにこれを置いたのです」




 合渡は、優雅な手つきで眼鏡の位置を直した。




「それはつまり、私たちが持ち帰った『爆弾』――右色社長の証言とデータ――が、彼らにとって致命的であるという証明です。彼らは、法的な手段やシステムの隠蔽ではもう抑え込めないと悟り、直接的な恐怖で貴方を縛ろうとしている」




 なるほど。


 恐怖を感じているのは、私たちだけではない。


 雲の上にいる「女王」もまた、震えているのだ。




「なら、答えは一つね」




 すずが、椅子を回転させてこちらを向いた。


 彼女は、濡れて肌に張り付いたパーカーの袖をまくり上げ、不敵な笑みを浮かべた。その笑顔は、可憐な少女のものではなく、戦場に立つジャンヌ・ダルクのように勇ましく、そして残酷なまでに美しかった。




「この脅迫状、指紋鑑定に出しましょうか? ……まあ、手袋くらいはしてるでしょうけど、紙の繊維片や付着物から、侵入者のルートを特定できるかもしれない。科学捜査班ごっこも悪くないわ」




 彼女たちの強さに、救われる。


 私は、握りしめていた便箋を、ゴミ箱ではなく、証拠品袋へと丁寧に収めた。


 これは脅しではない。


 敵が残した、決定的な「敗北の予兆」だ。




「……沈黙はしない」




 私は、自分自身に誓うように言葉を吐き出した。




「『黙っていれば誰も傷つかない』? 違う。黙っていれば、傷ついた者たちの声が届かなくなるだけだ。……俺たちは、その声を拾うためにここにいる」




 私は、鞄の中から、右色社長から託された分厚いファイルを取り出した。


 油と涙が染み込んだ、重たい記録。


 これが、私たちの盾であり、剣だ。




「合渡さん、公正取引委員会への申告準備は?」


「すでにドラフトは完成しています」




 合渡は涼しい顔で答えた。




「あとは送信ボタンを押すだけですが……その前に、もう一つ、仕上げが必要ですね」




「仕上げ?」


「ええ。外部への告発と同時に、内部の『膿』を完全に摘出するための外科手術です。……東鶴副社長、そしてその背後にいるシステム管理者。彼らを一網打尽にするには、彼らが最も油断する瞬間――つまり、『私たちが屈服した』と思い込む瞬間を作り出す必要があります」




 合渡の眼鏡が、キラリと光った。策士の目だ。




「すず、例の『窓口管理サブ』のアカウント。……逆探知の準備はできているか?」




 私が問うと、すずはニヤリと笑い、チョコレートをもう一つ口に放り込んだ。




「愚問ね。罠は仕掛けてあるわ。次に彼らがその裏口を使えば、IPアドレスどころか、端末の個体識別番号、さらにはキーボードを叩く指紋まで抜いてやる勢いで追跡プログラムを走らせる」




 彼女の瞳には、天才ハッカーとしての矜持と、仲間を傷つけられた復讐心がメラメラと燃えていた。


 傷だらけになっても立ち上がり、権力者に牙を剥く。今の彼女は、まさにその体現者だった。




「よし」




 私は立ち上がった。


 恐怖は消えたわけではない。


 だが、この地下室には、恐怖を勇気に変える化学反応がある。




「この脅迫状への返事を書こうじゃないか」




 私は、合渡とすずを見渡した。




「『我々は沈黙しない。貴様らが悲鳴を上げるまで』とな」




 地下2階のエアコンが、低く唸り声を上げた。


 それは、これから始まる最終決戦への、静かなる序曲のようだった。




 私たちは動き出した。


 盾を守り、腐りきった仕組みそのものを破壊するために。


 ターゲットは、天空の城「オリンポス」。


 女王の玉座を、ひっくり返す時が来た。

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