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通報窓口、ただいま炎上中  作者: U3


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11/15

沈黙の旋盤

 大田区、蒲田。

 金属と油の匂いが染み付いたこの街に、冷たい雨が降り注いでいる。

 工場の操業音が遠く響く路地裏に、一軒の古びた喫茶店「旋」があった。

 紫煙で燻された壁、飴色に変色した革張りのソファ。そこは、昭和の時代から日本のものづくりを支えてきた男たちが、束の間の休息と愚痴を吐き出すための聖域だった。


 カラン、とドアベルが鳴る。

 私たちが入店すると、店内の湿度がふっと上がった気がした。


「……ここなら、社内の監視も届かないわね」


 入坂すずが、濡れたパーカーのフードを脱ぎながら呟いた。

 雨に濡れた亜麻色の髪が、頬に張り付いている。彼女が頭を振ると、水滴が飛び散り、薄暗い照明の下でダイヤモンドのように煌めいた。

 無造作にかき上げられた髪の隙間から覗く瞳は、雨に濡れた紫陽花のように深く、そして妖艶だ。彼女はこの古臭い喫茶店において、あまりにも異質で、息を呑むほど美しい「現代の魔女」だった。


「奥の席が空いています」


 合渡悠作が、完璧なエスコートで私たちを導く。彼のチャコールグレーのスーツは、この高い湿度の中でも折り目ひとつ乱れていない。


 私たちが席に着くと同時に、待ち人は現れた。

 右色精工社長、右色健太郎。

 55歳。グレーの作業着には、洗濯しても落ちない油の染みが地図のように広がっている。その背中は丸まり、長年の激務と心労が、彼から生気を奪っているように見えた。


「……わざわざ、こんなところまで呼び出してすまないね」


 右色社長の声は、錆びついた蝶番のように軋んでいた。


「会社じゃ、話せねえんだ。どこに『耳』があるか分からねえから」


 彼は怯えていた。

 東都テクノリンクという巨人の影に。


「構いません。お会いできて光栄です」


 私は頭を下げた。


「早速ですが、単刀直入に伺います。購買部の居也課長との取引について……貴社が受けている不当な圧力の実態を教えてください」


 右色社長は、震える手でタバコに火をつけた。紫煙が揺らぎ、彼の苦渋に満ちた表情を覆い隠す。

 長い沈黙の後、彼は重い口を開いた。


「……毎年、3月になると呼び出されるんだ。『契約更新の時期ですね』とな」


 彼は自嘲気味に笑った。


「そして、決まってこう言われる。『来期も契約したければ、分かっていますよね?』……それが、地獄の始まりだ」


 提示されるのは、前年比10%以上のコストダウン要求。

 材料費は高騰しているにも関わらず、単価は下げられる。

 拒否すれば、「他社に切り替える」と淡々と言い渡される。


「それだけじゃねえ。『品質改善協力費』だの『特別協賛金』だの、わけの分からねえ名目で、売上から天引きされる。……先月なんか、納品した後に『やっぱり要らなくなったから返品する、その分の違約金を払え』だぞ? 作らせておいて、金だけむしり取っていく。ヤクザのみかじめ料だって、もう少し可愛いもんだ」


 すずが、注文していたプリン・ア・ラ・モードのチェリーをスプーンで掬いながら、冷徹に指摘した。


「財務データと一致するわ。右色精工の利益率は、この3年間で急激に悪化している。……でも、不思議ね。これだけ搾取されているのに、どうして倒産していないの?」


 右色社長は、タバコを灰皿に押し付けた。


「俺の役員報酬をゼロにした。社員のボーナスも、もう2年出せてねえ。……さらに、俺の個人資産も担保に入れて借金をした。社員の生活を守るためには、それしかなかったんだ」


 悲痛な叫びだった。

 中小企業の経営者が、血を吐く思いで守ろうとしている「家族」。それを、居也のような男は嘲笑い、食い物にしているのだ。


「しかし」


 合渡が静かに切り込んだ。


「金銭的な問題だけなら、まだ分かります。我々が掴んだ情報では、もっと深刻な『責任転嫁』が行われている形跡がある」


 右色社長の肩が、ビクリと跳ねた。

 彼は周囲を警戒するように見回し、声を潜めた。


「……気づいていたのか」


 彼は、足元に置いていた油まみれの鞄から、分厚いクリアファイルを取り出した。

 テーブルの上に置かれたそのファイルは、まるで鉛のように重く感じられた。


「これを見てくれ」


 彼が開いたページには、無数のメールのプリントアウトと、手書きの検査記録が綴じられていた。


「ウチの部品は、出荷前の検査じゃ『合格』だったんだ。東都さんの図面通り、100分の1ミリの狂いもなく仕上げた。……なのに、出荷した翌日になると、居也さんから電話がかかってくる。『全数不良だ。どう責任を取るんだ』ってな」


「規格通りに作ったのに、不良品扱いされたのですか?」


 私が問うと、右色社長は首を横に振った。


「違う。……そもそも『図面が間違っていた』んだ」


 衝撃的な言葉だった。


「東都さんの設計ミスで、部品が組み付かなかった。本来なら設計変更をして、金型から作り直すべきだ。だが、それをやれば納期に間に合わないし、設計部門の責任になる。だから……」


「だから、下請けの製造ミスということにした」


 すずが、彼の言葉を引き取った。彼女の瞳に、冷たい怒りの炎が宿る。


「『右色精工が勝手に規格外の部品を作った』というストーリーを捏造し、その尻拭いとしての修正作業を無償で強要した。……そして、その修正にかかる費用も、すべて違約金として請求した」


 右色社長は、悔し涙を滲ませて頷いた。


「『検査成績書を作り直せ』って言われたよ。『最初から不良品だったことにしろ』とな。……断れば、契約解除だ。50人の社員と、その家族を路頭に迷わせるわけにはいかねえ。俺は……俺は、自分の魂を売って、嘘のハンコを押したんだ」


 ファイルの中には、深夜2時、3時といった刻印がされたメールが残っていた。


『明日朝までに修正品を持ってこい』

『できないなら会社を畳め』

『成績書の数値、書き換えて再送してください』


 それは、ビジネスメールではない。

 奴隷に対する脅迫状だった。


「……なぜ、もっと早く声を上げなかったんですか」


 私が問うと、右色社長は力なく笑った。


「上げたさ。……半年前にな」


 空気が凍りついた。


「コンプライアンス・ホットラインに通報したんだよ。『匿名で守ります』って書いてあったから、信じてな。……でも、翌日、居也さんが店に飛んできた」


 右色社長の声が震える。


「『社長、面白いメールが届きましてね』って、俺が送った通報メールのコピーを見せられたよ。『こういうことをされると、お互いに不幸になりますよ』って、笑いながらな」


 筒抜けだったのだ。

 私たちが守るべき通報窓口は、半年前の時点で、すでに悪の手に落ちていた。

 右色社長の勇気ある告発は、握りつぶされただけではない。彼を脅すための武器として利用されたのだ。


「それ以来、俺は沈黙を誓った。……何をしても無駄だ。この国じゃ、下請けは親会社には逆らえねえんだって」


 右色社長は、顔を覆って泣いた。

 油に汚れた節くれだった指の間から、大人の男の慟哭が漏れる。


 私は、拳を握りしめた。

 許せない。

 居也も、東鶴も、そしてこの腐ったシステムを作った全ての人間が。


「……無駄ではありません」


 合渡の声が、静かに、しかし力強く響いた。

 彼は懐から一枚の名刺を取り出し、右色社長の前に置いた。


「私は東都テクノリンクのコンプライアンス担当ですが、同時に弁護士資格を持っています。……右色社長、貴方がお持ちのこの証拠、すべて私にお預けください」


 右色社長が顔を上げる。


「で、でも、また握りつぶされて……」


「させません」


 合渡は断言した。


「今回は、社内の通報窓口ではなく、私が代理人として『公正取引委員会』および『中小企業庁』への申告を行います。これは私個人と貴社との委任契約です。東都テクノリンクといえど、弁護士と依頼人の守秘義務には介入できない」


 それは、合渡が用意した最強の防壁だった。

 社内のシステムが信用できないなら、法の力を使って外部から守る。


「さらに」


 合渡は、六法全書を取り出すかのように、スマートフォンの画面を見せた。


「本日付で、私が法務名義で『取引先保護に関する特別措置命令』を発動します。調査完了までの間、右色精工との契約解除、および取引条件の不利益変更を一切凍結する。……もし居也課長が何か言ってきても、『弁護士を通してください』の一言で済みます」


 右色社長の目に、信じられないものを見るような色が浮かんだ。


「ほ、本当に……ウチを守ってくれるのか? こんな……油まみれの町工場を」


「油まみれだからこそ、です」


 私は、右色社長の手を握った。その手は硬く、温かかった。


「貴方が作った部品がなければ、私たちの製品は動かない。貴方は下請けじゃない。私たちの誇り高きパートナーです。……その誇りを、取り戻しましょう」


 すずが、食べ終えたプリンの皿を置き、ニヤリと笑った。


「それにね、社長。この証拠があれば、居也課長の首だけじゃ済まないわ。……彼に『設計ミス』を押し付けた開発部門、そしてそれを黙認した経営陣まで、一網打尽にできる」


 彼女は、右色社長が差し出したファイルを抱きしめた。


「最高の爆弾をありがとう。……これを使って、本社を火の海にしてあげる」


 右色社長は、何度も頷き、涙を拭った。

 その表情からは、諦めという名の曇りが消え、職人としての矜持が戻りつつあった。


 喫茶店を出ると、雨は小降りになっていた。

 雲の切れ間から、微かな光が差し込んでいる。


「……繋がりまたね」


 私が呟くと、合渡が頷いた。


「ええ。購買部のパワハラ、開発部の設計ミス隠蔽、品質保証部のデータ改ざん。……すべては一本の線で繋がっていた」


 そして、その線の先には、窓口を乗っ取った「女王」がいる。

 彼女が守ろうとした「会社」の正体。それは、弱者の犠牲の上に成り立つ砂上の楼閣だったのだ。


「帰りましょう、私たちの戦場へ」


 私は歩き出した。

 手の中には、右色社長から託された「沈黙の声」がある。

 もう、誰にも消させはしない。

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