搾取の園
世界が、色を失っていく。
比喩ではない。物理的な現象として、私の目の前にあるモニター画面が、徐々に死につつあった。
東都テクノリンク本社、地下2階。特命調査室。
かつては企業の闇を暴くサーチライトの役割を果たしていたこの部屋は今、断末魔の静けさに包まれていた。
「……またひとつ、死んだわ」
入坂すずが、乾いた声で呟いた。
彼女の華奢な指先がキーボードを叩くたびに、カチッという硬質な音が響くが、画面上の反応は鈍い。
メインモニターに表示された管理コンソールのメニュー項目――『通報ログ検索』『アカウント権限設定』『アクセス履歴解析』――が、次々と鮮やかな緑色から、無機質な灰色へと変わっていく。
「『暫定移管』なんて綺麗な言葉を使っているけれど、実態はデジタルな強奪よ」
すずは、悔しげに唇を噛んだ。その唇は、熟れた果実のように赤く、不健康なほどの肌の白さと対照的だった。
今日の彼女は、大きめのパーカーに身を包んでいる。フードの隙間から覗く亜麻色の髪は乱れ、まるで嵐の中で雨宿りをする捨て猫のような儚さを漂わせているが、その瞳だけは、まだ死んでいない。燃え残った炭火のように、静かで熱い怒りを宿している。
「東鶴副社長の仕業ですね」
合渡悠作が、冷めた紅茶を啜りながら言った。彼は相変わらず完璧なスーツ姿だが、その眉間には深い皺が刻まれている。
「昨夜の貴方の『最後通告』に対する、彼女なりの回答でしょう。『ラインは止めた。だが、貴方たちの息の根も止める』という意思表示だ」
昨夜、私は工場の全ライン停止と引き換えに、マスコミへの内部告発を武器にして東鶴を脅した。
彼女は一時的に引いた。だが、それは敗北を認めたわけではなかった。
彼女は、私たちが持つ最大の武器――内部通報システムそのもの――を、管理者権限という神の力を使って、物理的に奪いに来たのだ。
ピロン。
その時、死にかけた端末から、頼りない通知音が鳴った。
灰色に染まりゆく画面の隅に、点滅するアイコン。
「……何だ?」
私が身を乗り出すと、すずが素早くマウスを操作した。
「バックドアからの信号じゃない。これは……正規のルート? でも、フィルタリングをすり抜けてる」
表示されたのは、短いテキストメッセージだった。
件名はなく、本文も乱れていた。まるで、沈没寸前の船から放たれたSOSのように。
『購買部が下請けを殺している。値下げ強要、違約金名目の減額、不良責任の押し付け。このままでは、今月末にまた一つ、町工場が潰れる』
短い文章の中に凝縮された、血の匂い。
私は息を呑んだ。
まだだ。まだ、この窓口は死んでいない。誰かが、最後の希望を託して、ここに声を投げ込んでいる。
「購買部……」
私が呟くと、合渡が即座に反応した。
「資材調達本部ですね。コストカッターとして悪名高い部署だ。……入坂さん、データは追えますか?」
「正規の検索機能はもう使えないわ」
すずは、引き出しから高カカオのチョコレートを取り出し、包み紙ごと握りつぶすように開けた。
「でも、経理システムの参照権限はまだ生きている。……キャッシュフローから逆探知するわ」
彼女の指が、再びキーボードの上で舞った。
それはピアノの演奏のようでもあり、時限爆弾の解体作業のようでもあった。
数分後。
彼女の手が止まり、画面に一枚の請求書データが表示された。
「……見つけた。これを見て」
そこに表示されていたのは、『株式会社 右色精工』という社名と、不自然な数字の羅列だった。
「右色精工。大田区にある従業員50名規模の金属加工メーカーよ。東都テクノリンクとは30年来の付き合いがある一次下請け」
すずが画面の一部を拡大する。
「先月の請求額は1,200万円。でも、実際に支払われたのは850万円。……差額の350万円が、『品質改善協力費』および『納期遅延違約金』という名目で天引きされている」
「350万円……」
私は絶句した。中小企業にとって、その金額がどれほどの重みを持つか。それは従業員の給与であり、明日の材料費であり、会社の命そのものだ。
「しかも、これだけじゃないわ。過去1年間、毎月のように同様の減額が行われている。利益率なんてゼロどころか、マイナスよ。……これ、完全に生かさず殺さずの『飼い殺し』だわ」
すずの声が震えていた。数字に強い彼女だからこそ、その数字の裏にある残酷な物語が見えてしまうのだ。
そこにあるのは、ビジネスではない。
経済的な拷問だ。
「行きましょう」
私は立ち上がった。
「システムが奪われる前に、現場を押さえる」
窓口の機能が灰色に染まりきる前に、私たちは地下室を飛び出した。
本社ビル15階、資材調達本部。
地下の澱んだ空気とも、工場の油の匂いとも違う、乾いた紙幣の匂いが漂うフロア。
ここには、機械の音も人の怒声もない。あるのは、電話の向こうの相手を追い詰める、静かで慇懃な話し声だけだ。
購買一課の課長席。
そこに座っていた男――居也恭一は、私たちの来訪に気づくと、驚くほど愛想の良い笑みを浮かべた。
「おや、噂の監査部の方々ですね。ようこそ、コストダウンの最前線へ」
42歳。小太りの体躯に、仕立ての良いスーツを纏っているが、ネクタイは爬虫類の鱗のような趣味の悪い柄だった。
汗ばんだ額をハンカチで拭いながら、彼は私たちに椅子を勧めた。その笑顔は、湿度が高く、まとわりつくような不快感を伴っていた。
「突然申し訳ありません、居也課長」
私は立ったまま、単刀直入に切り出した。
「下請け法違反の疑義について確認に参りました。特定のサプライヤーに対し、不当な値下げと減額を強要しているという通報があります」
「不当? ははは、人聞きが悪い」
居也は、ハンカチで首筋を拭いながら笑った。
「我々は『交渉』をしているだけですよ。ビジネスですからね。安く仕入れて高く売る、それが商売の基本でしょう?」
「限度があります」
合渡が一歩前に出た。
「右色精工への支払いデータを確認しました。請求額の3割近い減額が常態化している。これは『下請代金支払遅延等防止法』における『買いたたき』、および『不当な経済上の利益の提供要請』に該当する可能性が高い」
法的根拠を突きつけられても、居也の笑顔は崩れなかった。
むしろ、憐れむような目で合渡を見た。
「法律、ですか。……合渡さん、貴方は現場をご存知ないようだ」
居也は、デスクの引き出しから分厚いファイルを取り出した。
「これをご覧ください。右色精工の右色社長からの『合意書』です」
パラリと開かれた書類。
そこには、『品質向上およびコスト競争力強化のため、協力費として以下の金額を負担することを承諾します』という文言と、右色社長の署名、そして社判が押されていた。
「ほらね? 彼らは納得して払っているんです。むしろ、『勉強させてくれてありがとうございます』と感謝されているくらいですよ」
居也は、ヌメッとした視線で私を見た。
「我々は、彼らに『改善』の機会を与えているんです。厳しい要求に応えることで、彼らの技術も上がる。これはWin-Winの関係なんですよ」
Win-Win。
その言葉が、これほど汚らしく響いたことはない。
圧倒的な力関係の差を利用し、相手に「合意」を強制する。それは、DV加害者が「相手も同意していた」と主張するのと何ら変わらない。
「品質改善費、というのは名目だけでしょう」
すずが、タブレットを居也の鼻先に突きつけた。
「右色精工の納入品データを見たわ。不良率は0.01%以下。東都の基準を遥かに超える高品質よ。……これ以上、何を改善しろと言うの?」
「おやおや、お嬢さん。数字だけじゃ分からないこともあるんですよ」
居也は、すずの美しい顔を舐めるように見た後、ニヤリと笑った。
「例えば……『誠意』とかね」
その瞬間、私は理解した。
この男にとって、サプライヤーはパートナーではない。
搾り取れるだけ搾り取り、乾いたら捨てる「雑巾」なのだ。
そして、この男を野放しにしているのは、東都テクノリンクという組織そのものだ。「コストダウン」という正義の御旗の下で、彼のような怪物が飼われている。
「……右色精工へ、ヒアリングに行きます」
私は静かに告げた。
「彼らが本当に『納得』しているのか、直接確かめさせていただきます」
居也の目が、すっと細められた。
爬虫類のような冷たい光が、一瞬だけ走る。
「……お勧めしませんね」
彼は、低い声で言った。
「彼らは今、忙しい。本社からの急な仕様変更に対応するために、不眠不休で働いている。……監査部の皆さんが行って、作業の手を止めさせたら、それこそ納期遅延になりますよ? そうなれば、また違約金を請求せざるを得なくなる」
脅しだ。
私たちが行けば、右色精工がさらに苦しむことになるぞ、という陰湿な牽制。
私は拳を握りしめた。
ここで引けば、右色精工は遠からず潰れる。
だが、強引に踏み込めば、彼らを人質に取られる。
「……葛石さん」
隣ですずが、私の袖を掴んだ。
彼女の瞳が、何かを訴えかけていた。
私は頷いた。
「ご忠告、痛み入ります」
私は努めて冷静に言った。
「ですが、我々にも監査の義務がある。……失礼する」
私たちは、逃げるようにして購買部を後にした。
背中で、居也の湿った笑い声が聞こえた気がした。
本社ビルを出ると、外は冷たい雨が降っていた。
アスファルトを叩く雨音が、私たちの焦燥感を煽る。
「……あんな奴、殴り飛ばせばよかったのよ」
すずが、傘も差さずに空を睨みつけた。雨粒が彼女の頬を濡らし、涙のように伝い落ちる。
「『誠意』ですって? ただのカツアゲじゃない」
「ええ。ですが、書類上の不備はありませんでした」
合渡が、悔しげに言った。
「合意書にハンコがある以上、法的に『強要』を立証するのは難しい。……外堀は完璧に埋められています」
書類上の合意。
それが、弱者が生き残るために支払った「血税」だとしても、紙の上では「正当な取引」として処理される。
この会社のシステムは、そうやって弱者の血を吸い上げて回っているのだ。
「……だからこそ、会いに行くんだ」
私は、雨に濡れる東京の街を見つめた。
ここから遠く離れた、大田区の工場街。そこには、書類やデータには残らない「真実」があるはずだ。
「納得なんてしていない。ただ、逆らえないだけだ」
私は、かつて自分が広報で守ってきた「虚構」の裏側を思った。
華やかな新製品発表会。そのスポットライトの影で、どれだけの人間が泣いていたのか。
知らなかったでは済まされない。
私は、その罪を背負って、ここに来たのだから。
「行くぞ。右色精工へ」
私が言うと、二人は無言で頷いた。
「タクシーを拾います」合渡が手を挙げた。
「ナビは私がやるわ。……最短ルートで」すずが端末を取り出す。
雨は強くなっていた。
だが、私たちの足取りは迷わなかった。
システムが奪われ、権限が失われようとも、まだ私たちには足がある。目がある。そして、怒りがある。
向かう先は、搾取の園の最下層。
そこで待つ「沈黙の巨人」の声を聞くために、私たちは走り出した。




