第6話
体の汚れを落とし、着替え終わったところで、納屋の扉が静かに開いた。
差し込んだ光が、干し草の影を引き伸ばす。
逆光の中に立っていたのは、グラードだった。
「少し、話す」
それだけ言って、扉を閉める。
外の音が途切れ、空気が変わった。
納屋の中が静けさに包まれる。
グラードは壁にもたれ、俺を見た。
値踏みするような視線ではない。
昨夜とも、朝とも、違う目だった。
「混乱しているな」
断定だった。
「……していないと言えば、嘘になる」
少し間を置いて、そう答える。
グラードは小さく息を吐いた。
「だろうな」
それ以上は言わない。
急かす気配も、探る様子もない。
だから、俺の方から口を開いた。
「ここは……俺のいた世界じゃない」
言葉にしてみて、ようやく実感が伴う。
事実だ。否定しようがない。
「シンジュクだったか」
「……ああ」
「聞いたことがない」
それだけで済ませるように、グラードは続けた。
「だが、似た話は知っている」
俺の胸が、わずかに強く脈打った。
「俺みたいなのを、見たことがあるってことか」
グラードは、少しだけ視線を逸らす。
「初めてじゃない、というだけだ」
肯定でも否定でもない言い方。
「この世界じゃ、そういう連中を“迷い人”と呼ぶ」
言葉だけが、静かに落ちた。
「迷い……人」
意味は、直感的にわかる。
だが、それで納得できるほど、状況は単純じゃない。
「偶然だと思いたいなら、そう思っていろ」
グラードは淡々と続ける。
「理由があると思いたいなら、それでもいい」
「どちらにせよ――今のお前に答えはない」
断言だった。
「……じゃあ、あの森の獣は」
昨夜の光景が、脳裏に浮かぶ。
歪んだ体。濁った目。消える身体。
「人間の理屈で動かないものが、この世界にはいる」
「昨夜のは、その一つだ」
「名前は?」
問いかけると、グラードは首を振った。
「呼び名はある。だが、今は覚えなくていい」
「知ったところで、対処が変わるわけでもない」
それ以上、踏み込ませない口調。
納屋の外で、風が柵を揺らす音がした。
「……なぜ、俺を村に入れた」
「正確には、入れていない」
即答だった。
「ここは俺の家の裏だ。共同体の中ではあるが、中心じゃない」
「得体の知れん人間を、いきなり村の真ん中に置くわけにはいかん」
理屈は、理解できた。
「それと」
グラードは一拍置く。
「俺の家には、娘がいる」
短い言葉だったが、重みがあった。
「だから、お前は納屋だ。今はな」
俺は、黙って頷いた。
正しい判断だと思う。
もし立場が逆なら、俺も同じことをしただろう。
「……俺は、どうすればいい」
しばらく沈黙が流れたあと、グラードが口を開く。
「生きたければ、俺の言うことを聞け」
命令ではない。
忠告だった。
「ここは、優しい世界じゃない」
「だが――」
視線が、まっすぐこちらを捉える。
「何も知らずに死ぬほど、理不尽でもない」
その言葉が、胸に残った。
グラードは立ち上がり、扉に手をかける。
「今夜は、ここで休め」
「明日から、少しずつだ」
扉が開き、外の音が戻る。
「……一つだけ」
呼び止めると、グラードは振り返った。
「俺は、帰れるのか」
しばらく、彼は答えなかった。
やがて、低く言う。
「それを知りたければ――生き延びろ」
扉が閉まる。
納屋に、再び静けさが戻った。
答えは、何一つ得られていない。
それでも、不思議と心は落ち着いていた。
少なくとも――
ここで、死ぬ理由はない。
俺は干し草に背を預け、天井を見上げる。
この世界で、生きる。
その現実が、輪郭を持ち始めていた。




