第2話
男の背中は、森の闇に溶け込むように進んでいく。
足取りは速いが、無駄がない。こちらを気にする素振りもなく、ただ一定の距離を保って歩いている。
追いつこうとして、ふと気づいた。
足音が静かだ。枝を踏む位置も、落ち葉の重なりを避けるように選んでいる。
――慣れている。
森という環境に、そして危険に。
しばらく無言のまま歩いたあと、男が口を開いた。
「さっきのは、まだ小さい方だ」
振り返らずに言う。
「群れから外れた個体だろう。運が悪かったな」
軽い言い方だったが、内容は軽くない。
あの異様な獣が、“小さい方”。
「……あれは、何なんですか」
喉が乾いたまま、そう尋ねた。
男は少しだけ間を置いてから答える。
「この辺じゃ、忌み物扱いだ。名はあるが……今は言わん」
理由を説明する気はない、という声音だった。
森を抜けかけたところで、視界が開ける。
簡素な木造の小屋が、ぽつんと建っていた。見張り用だろう。村の外れに置かれた、最低限の建物。
男は立ち止まり、振り返る。
「今日は、ここだ」
小屋を顎で示す。
「村までは近いが、夜だ。得体の知れん人間を連れて入るわけにはいかん」
それが当然だとでも言うような口調。
「ここで一晩過ごせ。俺は周囲を見てくる」
そう言ってから、俺の全身を改めて見た。
視線は、スーツ、靴、そして俺の腰回りへ。
「……武器は持っていないな」
「はい」
「なら、念のためだ」
男は小屋の中に入り、たいまつに火を点ける。
その明かりの中で、俺に向き直った。
「持ち物を出せ」
一瞬、躊躇したが、逆らう理由はなかった。
ポケットから、財布とスマートフォン、鍵を取り出して地面に置く。
男の視線が、黒い板状の物体に留まる。
「それは?」
「……道具です。通信とか、情報を見るための」
男は黙って手を伸ばし、慎重にそれを手に取る。
裏表を確認し、軽く振る。
「刃はない。魔力も感じん」
返されたスマートフォンを受け取る。
「ここでは不用意に使うな」
「わかりました」
返事をした直後、画面が反応して小さく操作音が鳴った。
ピッ。
空気が、一瞬で張り詰めた。
男の剣先が、音よりも早くこちらを向いていた。
「……すみません」
自然に出たのは、その言葉だった。
男は数秒、動かなかった。
やがて剣を下ろし、深く息を吐く。
「故意でないならいい。だが、次はない」
それだけ言うと、小屋の外へ出る。
「朝まで戻らん。何かあれば、叫べ。だが――」
一拍。
「叫ぶ前に、死ぬな」
冗談ではなかった。
足音が遠ざかり、森の音だけが戻る。
小屋の中に、一人きりになる。
たいまつの火が揺れ、影が壁を這う。
外では、時折、獣とも風ともつかない音がする。
俺は壁に背を預け、膝を抱えた。
眠れるはずがなかった。
スマートフォンを手に取る。
画面は暗いまま。電池残量は、もう心許ない。
役に立たない道具。
だが、捨てる気にはなれなかった。
――帰れるのか。
その問いだけが、頭の中で何度も反響する。
答えは出ない。
たいまつが、パチリと音を立てた。
夜は、長かった。




