第0話
終電間近のホームは、奇妙に静かだった。
人がいないわけではない。ただ、それぞれが自分の世界に沈み込んでいて、互いに関心を持っていない。その無関心の層が、音を吸い込んでいるように感じられた。
白線の内側に立ち、電光掲示板を見上げる。
次の電車は、数分後。
スマートフォンの画面を落とし、無意識に息を吐いた。
今日は長かった。頭はまだ仕事の続きを処理しようとしているが、もう切り替える気力はない。
――明日も、同じだ。
そう考えて、少しだけ眉をひそめる。
良いとも悪いとも思わない。ただ、そういう日々を選んで、ここに立っている。
足元で、微かに振動が走った。
電車の接近を告げる音ではない。もっと不規則で、嫌な揺れ方だ。
視線を落とす。
その瞬間、視界の端で、誰かがよろめくのが見えた。
――危ない。
そう思ったのと、体が動いたのは、ほとんど同時だった。反射に近い。
だが、伸ばした手は、相手に届かなかった。
代わりに、強い衝撃が背中に走る。
押された、という感覚はなかった。ただ、足場が消えた。
重力が、方向を変えた。
世界が、反転する。
音が消え、光が滲み、思考が引き延ばされる。
時間の経過が、異様に長く感じる。
――落ちている。
その事実を理解した瞬間、奇妙な冷静さが訪れた。
ああ、こういう時、人は本当に色々考えるんだな。
仕事のこと。
未送信のメール。
返しそびれた連絡。
家族。
どうでもいいようで、どうでもよくない断片。
でも、どれも掴めなかった。
掴めるはずがない。指先に、何もないのだから。
視界が暗転する。
――終わる。
そう思った瞬間、衝撃は来なかった。
代わりに、奇妙な「抜ける」感覚があった。床に叩きつけられるはずの身体が、途中で支点を失ったような、不自然な浮遊。
次の瞬間、肺に冷たい空気が流れ込む。
咳き込み、息を吸い、反射的に身を丸めた。
硬い。
だが、コンクリートではない。
湿った土の感触が、背中越しに伝わってくる。
鼻腔を刺す匂い。鉄や油ではなく、土と草と、微かに焦げたような臭い。
耳鳴りが、ゆっくりと引いていく。
――生きている。
まず、その事実だけが、はっきりと分かった。
次に感じたのは、空だ。
近い。
距離の問題ではない。ただ、圧がある。
夜空なのに、星の配置が、どこかおかしい。見覚えがあるようで、何かが違う。
体を起こそうとして、腕に力が入らない。
筋肉が拒否しているというより、指示が通らない感覚だった。
「……は?」
声が出た。
自分の声だと理解するまで、わずかに時間がかかる。
周囲を見渡す。
舗装はない。線路も、ホームも、影もない。
代わりに、背の高い草と、黒く連なる木々。
風に揺れる葉の音が、やけに大きく聞こえる。
ここは、どこだ。
思考が動き出す。
事故。錯覚。救助前の意識障害。
どれも、決定打にならない。
立ち上がろうとして、膝が笑う。
視界が一瞬、白く弾けた。
――落ち着け。
そう自分に言い聞かせる声だけは、いつも通りだった。
ポケットに手を入れる。
スマートフォンがある。財布も、鍵も、全部ある。
画面を点ける。
圏外。
もう一度確認する。
同じ表示。
時間は、落ちた直後で止まっている。
「……夢じゃないな」
呟いてから、気づく。
夢かどうかを疑うには、感覚が生々しすぎた。
知らない場所、水も食料もない。
こういう時はその場に留まるべきだと聞いたことがある。
だが、心から湧き上がってくる不安に押される形で、俺は歩き始めた。
どこに向かっているのか、どこに向かうべきかはわからない。
ただ、その場でじっとしていることはできなかった。




