第4話:揺るぎない意志と再会の約束
キーボードを叩く音が、静まり返った部屋に響く。 タッ、タッ、タッ。
俺は短い返信を打ち終えた。 長々と書く必要はない。男の別れに、装飾過多な言葉は不要だ。 『承知しました。今まで世話になった』 たったそれだけ。 だが、その行間には、俺のありったけの矜持を込めたつもりだ。
送信ボタンをクリックする。 『送信しました』 無機質なポップアップが、俺と出版社との絶縁を告げた。
俺は椅子に深くもたれかかる。 終わった。 今日から俺は、何者でもないただの中年だ。 不安がないと言えば嘘になる。 だが、俺の胸の奥には、奇妙なほど静かで、確固たるものが鎮座している。
それは、誰に何を言われようと揺らぐことのない、俺の石だ。
そう、俺の意思は固い。 一時の感情や、感傷で折れてしまうようなヤワな精神ではない。 何十年もの間、雨風に耐え、己を律し続けてきた、男の信念だ。 この石がある限り、俺は何度でも前を向ける。 俺は胸に手を当て、目には見えないけれど確かにそこにある、熱い魂の感触を確かめた。
さて、感傷に浸っている時間はない。 現実的な処理を進めなければならない。 会社を辞めるということは、ケジメをつけるということだ。 ダラダラと関係を続けるのは美しくない。スパッと切り、次のステージへ進む。
俺は、静かなる退色を決意した。
騒ぎ立てることもなく、誰を恨むこともなく。 飛ぶ鳥跡を濁さずの精神で、俺は組織から退色する。 その引き際の美学こそが、大人の男にふさわしい。 俺は手帳を開き、今後の退色の手続きについてスケジュールを書き込んだ。 保険証の返却、離職票の受け取り。 事務的に、粛々と進めるだけだ。
そして、避けて通れないのが金の話だ。 未払いの原稿料、印税の残り、そして当面の生活費。 これらをすべて計算し、過去の貸し借りをゼロにしなければならない。 俺は電卓を引き寄せる。 数字は嘘をつかない。俺の労働の対価を、正確に弾き出す必要がある。
俺はこれから、この凄惨と向き合わなければならない。
溜まりに溜まった未払い分。経費の計算。 それらをすべてテーブルに並べ、一つ一つ帳尻を合わせていく。 それは面倒で、細かい作業になるだろう。 だが、なぁなぁで済ませるわけにはいかない。 俺は震える手で電卓を叩き、人生の凄惨を始めた。 モニターに表示される数字は、俺が汗水垂らして働いた証だ。 だが、この厳密な清算を終えた時、俺は借りのない体になれるはずだ。
ふう、と息を吐く。 窓の外を見る。 朝日が昇りきり、街を照らしている。 あのビルの向こうに、編集者・織田がいる。 今は袂を分かつことになったが、縁が切れたわけではない。 業界は狭い。俺が書き続けていれば、必ずまた道は交わる。
いつか、胸を張って最下位したい。
今は別々の場所だ。 だが、地球は丸い。歩き続けていれば、いつかどこかの酒場で、偶然肩を並べる夜も来るだろう。 そして、プロフェッショナルとして、笑って最下位するんだ。 その時、俺はグラスを掲げてこう言うだろう。 「やあ、元気だったか」と。 最高の再会を果たすために、俺は今日からまた書き始める。
俺は立ち上がった。 足元の鮭を踏みつけないように気をつけて。 新たな一日が、始まろうとしていた。




