第3話:夜明けの返信と生存証明
深夜3時。丑三つ時だ。 草木も眠る時間だが、俺のPCのファンだけがジェット機のような轟音を立てている。離陸するつもりか? 俺を置いて、どこへ飛び立つつもりだ。
俺は床に転がったまま、天井のシミを見つめていた。 腰が痛い。 さっきの転倒で、古びた蝶番のような俺の関節が悲鳴を上げている。
ドン! 突然、壁が鳴った。 隣の住人だ。俺のうめき声がうるさかったらしい。 壁の薄いワンルームマンション。ここではプライバシーなんてものは、薄皮一枚の餃子の皮のようなものだ。
「……うるさい」
俺は壁に向かって小声で毒づく。 これが、現代におけるコミュニケーションだ。 壁越しの威嚇。顔の見えない他者との摩擦。 俺は、この壁ドンという暴力的なメッセージに対して、誠意を持って変身しなければならない。
俺はゆっくりと立ち上がる。 見ていろ。俺はただの無気力な中年ではない。 社会の理不尽に対して、明確な意思を持って対応する男だ。 俺は壁に向かって深く一礼した。 「すいませんでした」 小市民的な謝罪。 だが、俺の魂は屈していない。これは戦術的撤退だ。俺なりの、プライドをかけた変身なのだ。 売られた喧嘩に対して、大人の余裕でレスポンスを返す。それが流儀だ。
足元がふらつく。 床には、こぼれた鮭が広がっている。 部屋中が、安っぽいアルコールの臭いで満たされている。 俺はそれを跨いで、デスクへと向かう。
窓の外が白み始めていた。 夜が明ける。 無神経な太陽が、ビルの隙間から顔を出し、俺の情けない影を床に焼き付ける。 チュンチュン。 雀が鳴いている。 いや、あれは雀ではない。俺の脳内で鳴り響く、締め切りアラートだ。 あるいは、俺の人生の終了を告げるホイッスルか。
俺はゾンビのように椅子に座る。 関節がバキバキと音を立てる。 まるで廃車寸前のロボットだ。 油が切れている。俺の人生には、潤滑油という名の愛想笑いが足りなかった。 だから、こうして摩擦熱で焼き付いてしまったのだ。
PCのモニターを見る。 スリープモードが解除され、パッと画面が明るくなる。 その光が、俺の網膜を焼く。ブルーライト・カット眼鏡なんて持っていない。俺はいつだって生身で光を受け止める。
画面には、まだあのメールが表示されている。 『契約解除の件について』 カーソルが点滅している。 俺を急かしている。 何か書け、と。 最後の言葉を遺せ、と。
書かなければならない。 この痛みも、苦しみも、すべてテキストデータに変換して、サーバーにアップロードしなければならない。 それが、俺の生存照明だ。
俺はここにいる。 薄暗い部屋の片隅で、誰にも知られずに息をしている。 その事実を、論理的に、客観的に、提示しなければならない。 数学の難問を解くように、俺という人間が存在する根拠を叩きつけるのだ。 誰も否定できない、確固たる事実の積み重ね。 俺の照明が論理的に破綻しない限り、俺は作家として生きている。
俺はキーボードに手を置く。 指が震えている。 アルコールのせいか、武者震いか。 編集者・織田への返事を書く。 媚びるつもりはない。泣きつくつもりもない。 俺は、俺の流儀で、この理不尽な通告に対する回答をするだけだ。
カチャ、カチャ、カチャ。
俺は打ち込む。 問われたことに対して、正面から答えを返す。 逃げも隠れもしない。 イエスかノーか。あるいは、そのどちらでもない第三の選択肢か。 俺の解凍は、的確でなければならない。 曖昧さがあってはいけない。議論の余地を与えないような、鋭利な結論でなければならない。
『拝啓 織田様』
書き出しは礼儀正しく。 だが、その下にはマグマのような感情が渦巻いている。 俺はこれから、お前たちが切り捨てようとした「時代遅れ」の男が、どれほどの牙を隠し持っていたかを見せつけてやる。
俺は指を走らせる。 思考よりも速く。 誤字? 知ったことか。 校正? クソ食らえだ。 今の俺に必要なのは、正確さではない。 速度だ。 思考が論理の檻に閉じ込められてしまう前に、生のまま叩きつける速度だ。
さあ、受け取れ。 これが、工藤賢という人間の、魂の解凍だ。




