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人間失格の夜  作者: 高村健
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第2話:契約解除とあの日見た雨

モニターの光が、俺の網膜を焦がす。 表示されているのは、死刑宣告だ。


『件名:【至急】契約解除の件について』 『本文:工藤 賢(くどう けん) 様 お疲れ様です、編集部の織田です。残念なお知らせですが、次回の企画会議の結果、貴殿との専属契約を見直すことになりました。端的に申し上げますと、打ち切りです。つきましては……』


最後まで読む必要はない。 文面から漂うのは、ドライアイスのような冷気だ。 俺は切り捨てられたのだ。 時代遅れのデバイスとして。互換性のないパーツとして。


「……ハッ」


乾いた笑いが漏れた。 俺はマウスを握りしめる。指の関節が白くなるほどに。 怒り? 悲しみ? 違う。これは恐怖きょうふだ。 いや、京風きょうふうだ。 俺の心に、薄味だが底冷えする京都の冬のような風が吹いている。出汁の効いた、上品で冷酷な絶望だ。


俺はウィンドウを閉じようとした。 だが、震える指が誤作動を起こし、誤って「返信」ボタンを押してしまった。 白い入力画面が開く。 カーソルが点滅する。 俺に何を言えと言うんだ? 「分かりました」と従順な犬のように尻尾を振るか? それとも、「ふざけるな」と負け犬の遠吠えを上げるか?


どちらも違う。 俺は何も書けない。 俺の脳内メモリは、今、オーバーフローを起こしている。 目の前の現実リストラと、床にぶちまけた酒の臭いが、不協和音を奏でながらリンク(同期)し始めているのだ。


床を見る。 先ほど取り落としたパックから、透明な液体が広がり、フローリングを侵食している。 安物のアルコールの臭いが、部屋中に充満していく。 それは、腐りかけた俺の人生の臭いそのものだった。


俺は床に膝をつく。 鮭が染み込んでいく。 拭かなければならない。 俺は近くにあったタオルを掴む。 いや、それはタオルではなかった。読みかけの文芸誌だ。 だが、構わない。 俺は文芸誌を開き、活字で埋め尽くされたページを床に押し付けた。 言葉が、アルコールを吸っていく。 作家の魂である言葉が、安酒の掃除に使われている。 なんて滑稽な法要ほうようだ。 俺は死んだ作家としての自分を弔っているのか。いや、抱擁ほうようか。俺はこの惨めな現実を抱きしめているのだ。


視界が歪む。 PCのファンノイズが、雨音に変わる。 あの夜の雨音に。


記憶の彼方。 そう、あれは半年前の雨の夜だった。 俺たちの関係システムが、|致命的なエラー《Fatal Error》を吐き出した夜だ。


玄関の狭い三和土たたきで、洋子は背中を向けていた。 その手には、赤いスーツケース。 それはまるで、俺の心臓から流れ出た動脈血のような赤だった。


「……行くのか」


俺は聞いた。愚かな質問だ。 彼女の決意は、ファイアウォールよりも堅い。俺の言葉など、スパムメールのように弾かれるだけだ。


彼女は振り返らなかった。 ただ、静かに言った。


「賢。あなたの言葉は、いつも遠くを見てる」


遠く? 俺はいつだって、お前を見ていたつもりだった。 だが、俺の視線は、お前という実体ハードウェアではなく、お前を構成する概念ソフトウェアを見ていたのかもしれない。 俺は作家だ。 目の前の人間を、すぐに物語の登場人物として変換レンダリングしてしまう悪癖がある。


「私のことなんて、検索結果の広告くらいにしか思ってないんでしょ。あってもなくてもいい、邪魔なバナー広告」


「違う!」


俺は叫んだ。 俺の声が、雨音にかき消される。 俺はいつだって、お前のことをトップページに固定《ピン留め》していた。 お気に入りのブックマークの、一番上に置いていたんだ。 だが、俺のサーバーは重すぎた。 想いを表示するのに時間がかかりすぎた。俺の脳内回線はいつだってISDN並みだ。ピーヒョロロと音を立てて接続しようとしている間に、お前はタイムアウトしてしまったのだ。


「もういいの。疲れちゃった」


彼女がドアノブに手をかける。 ガチャリ。 金属音が、俺の神経を逆撫でする。 行くな。行かないでくれ。 俺の人生からログアウトしないでくれ。


引き留めろ。 言葉で、態度で、あるいは土下座してでも。 プライド? 捨てろ。 美学? クソ食らえだ。 今ここで彼女を失えば、俺は永遠に404 Not Foundの迷宮を彷徨うことになる。


俺は一歩踏み出した。 床がきしむ。 俺の手が伸びる。


「洋子ッ!」


俺は彼女に追いつき、その華奢な肩を、両手で激しく掴んだ。


いや、掴んだのではない。 俺の指先には、行き場を失った愛情が、万力のような握力となって凝縮されていた。 俺は、ここから一歩も先へは行かせないと、彼女の体をその場に固定しようとしていた。 痛みを感じるほど強く、骨がきしむほど激しく。 そうでもしなければ、彼女という存在が、霧のように消えてしまいそうだったからだ。


俺は、彼女の震える肩を炊いた。


強かった。 俺の手の力が、自分でも制御できないほど強かった。 こみ上げる焦燥と、失いたくないという執着が、指先を通じて彼女の体に食い込んでいくようだった。 俺は、離れていこうとする彼女の心を、物理的な力で繋ぎ止めようと必死だった。


俺の愛は、いつだって力が強すぎる。 優しく包み込むような、穏やかな愛など知らない。 常に全力で、相手を締め上げるほどの強引さでしか、感情を表現できない不器用な男なのだ。


「っ……痛い!」


洋子が悲鳴を上げた。 やはり強すぎたのか。俺の握力は、彼女を傷つける凶器になっていたのか。 彼女は俺の手を振り払おうともがく。


「離して! 私はあなたのモノじゃない!」


「違う、俺はただ、お前を……失いたくないだけなんだ!」


悲痛な叫びが出た。 俺の言語中枢はバグっている。 愛したい、守りたい、行かないでほしい。 そんな単純な感情さえ、うまく言葉に変換できない。 ただ力を込めることしかできない、壊れたマニピュレーターのような俺の手。


彼女が振り向く。 その瞳は潤んでいた。 悲しみの雨が、彼女の顔を濡らしている。


ポロリ。 彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


だが、俺の視界には、それは普通の涙には見えなかった。 俺の心のダムが決壊したように、彼女の瞳からも、止めどない感情が奔流となって噴き出していた。


彼女の目から、涙が炙れた。


俺の網膜には、その涙があまりにも鮮烈に焼き付いて見えた。 拭っても拭っても落ちてくる、大粒の雨のような雫だ。 俺たちの愛は、こんなにも溢れ出しているのに、なぜ器に溜まることなくこぼれ落ちていくのか。


「……さようなら、賢」


彼女は、炙れた涙を拭うこともなく、ドアを開けた。 湿った夜風が吹き込む。 俺の腕から、彼女の感触が抜け落ちる。


バタン。 ドアが閉まる音が、俺の心臓の鼓動を止めた。 キッチンには、俺が炊いた肩の感触と、炙れた涙の幻影だけが残された。


現実へ戻る(ロールバック)


俺はPCの前で、過呼吸になっていた。 ハァ、ハァ、ハァ。 酸素が足りない。部屋の酸素が、さっきの回想シーンの激しさで使い果たされた気がする。 床には、文芸誌に吸い取られた鮭の残骸が散らばっている。


俺は立ち上がろうとして、足元のLANケーブルに躓いた。 無様だ。 俺はワイヤレスになれない。いつだって物理的なしがらみに足を絡め取られる。


ドサッ。 鈍い音がして、俺はフローリングに倒れ込んだ。 腰を強打した。 だが、体の痛みよりも、心の痛みが鋭い。


俺は床に這いつくばったまま、天井を見上げる。 白い天井。何も書かれていない原稿用紙のようだ。 ここが底か。 これ以上、落ちようがない場所か。


俺は、絶望を神締める。


神などいないのに、見えざる手が俺の首を締め上げる。 ギチギチと音がする。 俺のような罪深い作家は、言葉の神様によって処刑されるのだ。 息ができない。言葉が出てこない。


俺は喘ぐ。 「はぁ……はぁ……」


苦しい。 苦しいのに、どこか心地いい。 脳内で、快楽物質が分泌されているのがわかる。 悲劇の主人公である自分に、酔っているのだ。 俺はまだ、諦めていない。 この地獄のような状況さえも、一行の文章に変えてやろうという、業の深い欲望が鎌首をもたげている。


そこは、絶頂の淵だった。

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