008 打ち合わせ2
そうだろうな。まだ若いし、社会の荒波をくぐって、失敗して、成功して、人に傷つき、人に励まされ、そのなかでたどりつくのが、やっぱりふつうだよな。
とにかく人と関わってきた人が書くものだよな、自己啓発って。
どう見ても人生経験豊富とはいえない、コミュ障に近い気すらする。
洞察力のほうが大事という意味じゃなくて、経験は1割で、ほぼ頭の中で考えて綴ったということか。だとしたらミスリード? みたいなもんじゃないかな。読者はきっと裏切られたと思うぞ……。
でも「はじめに」にもどこにも、私は豊富な経験がありますとは書いていない。
ということは、待てよ、9割想像で書けちゃうなら、なんだって書けちゃうのでは。恋愛ものを書くのができないっていうなら、残りの1割がそもそもないってこと?
それで怒ってたのかもしれない。
しかし、確認しずらい。
もうこれは撤退しよう。
提案したけど著者が無理ですと言ってましたと会社に報告すれば一応ミッション完了になるかな。ならないかな。できる方向を探すべきか。
「すみません、難しいですかったですかね。そういうことでしたら……」
とりあえず沈黙しないように口をひらいたが、いい言葉ではなかった。メガネを直そう。
「な、なんですか!? ばばばっ、バカにしてるんですか!」
先生は顔を真っ赤にして早口に言った。
それはもう初心な女学生のようにすら見える。
やばいやばい。想定外の反応。
いや、大人な対応ができそうにないのはうすうす勘づいていたけど。
早く帰りたい。
メガネをくいくいくいくいくいっ。
「いえ、そうではないですが、あらためて申し上げると、自分が考えていたのは、読者対象は先生と同世代くらいの女性で、関心ごとが高い事柄で……」
「関心ごとってなんですか」
詰められてる、詰められているー。
くいくいくいくい(以下略)
「恋愛……いや、運勢とか、毎日いいことが起きる習慣術とか」
「すみません。スピリチュアル寄りは無理です。絶対に嫌です。……それに、そういうものは発信力のある、顔の見える著者が好まれていると思います」
なにかスイッチでも入ったようだ。さっきとは別人みたいにキリッとした人物になっている。
そうなんですよ。著者ご本人がSNSや動画やってて、書籍にもでっかくご本人のビジュアルが出ているのが多いんですよ。でも、それを言ったらおしまいじゃないですか。
「私は経験が少なくても誰よりも多くのものが引き出せると思っています。それから、経験だけたくさんすればいいとも思っていません。とくに恋愛は過去にとらわれがちで、客観性が不足した意見が多いように思います。属人性に頼らないのを逆に強みにすることもできるかもしれません」
あれ、前向き? でもやっぱり経験じゃないのかな? 先生、申し訳ないけどものすごく経験が少ないのを認めているようなものだし。
「あなたは経験9割派みたいですね?」
これは洞察力? 心理学? 答えずらい質問ばかりだ。なぜこんな意地悪を。
「どちらかというと、経験は大事かなと。とくに恋愛、というか人間関係は……」
「それは、具体的に、どういう部分で? もし読者が本を買う動機がたったひとりに愛されたいというものなら、何度も別れを経験している人のほうが説得力があるのでしょうか。それともひとりしか経験のない人の意見のほうが有用なのでしょうか?」
「た、たた、たた、たしかにそうですね。どちらも参考になりそうです。むずかしいです」
理屈で恋愛する人なんかいるのかよ。降参。
「では、もうひとつ。経験に裏打ちされた内容にしか価値がないとします。では読者がそれ読んでも役に立たないと思いませんか。あーだこーだいうけど、結局、経験しなければ無駄だよ、とあなたは言いながら本をつくっているのですか?」
こわいこわい。だから降参だって。
ここで怒らせて帰ったら、社に戻れない。なんとか穏便に終わって、企画もなかったことにする、それがベストだ。
「本には人間の一生を左右する力があります。そうじゃなきゃ、とっくの昔に廃れているでしょう」
先生はその言葉を俺の顔を見ずに言った。
そうだ。
そういうセリフ。何度か聞いたことがある。先輩や、業界の人もからも(だいたい酔っ払ってたけど)。出版だけじゃない、クリエイティブにかかわる人で同じようなことを言っているのは知っている。
だけど、いまは〈知っている〉だけだ。言われてはじめて思った。自分はそれは〈きれいごと〉と思っていることに。その前に商売、いやもっというと売り上げだ。ノルマだ。それが最優先事項だ。売れなきゃ、人に読まれない、自分達の仕事も成り立たない。
あんたが売れてる作家なら、なにもかも捻じ曲げて土下座でもするよ。
そんな気持ちでいたのかもしれない。
「私は人の人生を変えるかもしれない、と思って文章を書いています。あなたたちの仕事とは見ているところが違います」
そういうのかんべんしてよ。
「ちょっと待ってください。そんな、それは版元だって同じです」
「版元? あなたではなくて?」
だめだ、そうじゃない。だけど、考えがまとまらない。
その前提はあっても売れるのは大事? そうだ、それだな。じゃあなんで売れるのか、それがいまいちばんわからないんだ。情熱を傾けたからって結果が出るとは限らない。でも会社に貢献しないと仕事として続けられない。もう実際、タイムリミットかもしれないんだ。
だから。
「長谷川さん、わたしの担当なんでしょう?」
「えっ?」
だから、担当って言葉の意味重いんすよ。できたら連絡窓口くらいにしてほしいです。
「はい。もちろん」
思ってもいない自分の返答。
長い沈黙があった。
「私、雨女なんです」
先生は、詰問口調から一転して、少し前の印象に戻った。そして、唐突にそんなことを言う。
「自分の意思で決めた会合の予定は高確率で雨に降られるんです」
「それで雨宮というペーンネームにしました。薫は本名です」
「へっ?……」
「本姓は長谷川です。私も、長谷川薫なんです。あなたとお会いした理由はそれしかありません。私と同じ名前の人がどんな考えを持っているか、興味があっただけです」