032 自費出版(1)
あれから俺の仕事は日常を取り戻していた。
相変わらず企画会議はきつかったが、適当に「置きにいく」企画は出さなくなった。
市場を追っかける、売れっ子を追っかける、ほかのやつがやればいい。
その競争からは一旦降りよう。
世の中や自分の関心ごとをできるだけ落とし込むようにしている。
どうせひっかからないのなら、そのほうがいい。
それから与えられた仕事はきっちり集中してこなす。これは元々得意だ。スケジュール管理、外部とのコミュニケーション。明確な仕事であれば柔軟的対応も余裕でかませる。
あの面倒な編集長代理の仕事も完璧にこなしてやろうという意欲が湧いてくる。
「長谷川さん、この間のゲラ、クライアント確認まわしてますか?」
「はい。まわしてます」
「だったらなんで報告しないの? 向こうから連絡ないんだけど! 僕のクライアントなんだから、いい加減なことしないでくれる!?」
新田の口ぶりは準備していたかのような攻撃の色。この先制攻撃に、議論が好きではない人間や、経歴の浅い人間はイニシアチブをとられてしまう。だが、落ち着いてよく聞いてみれば、一方的で身勝手なのはわかるし、だからこそどうにだって反論できる。
「報告というか、新田さんにも◯月◯日にccつけてメールしてますよ。あ、いま返信来てますね。ご多忙だったみたいで」
「……あ、そう。ならいいです」
新田は見下している相手は雑に一行目からキレてかかるやつだから、出鼻をくじかれると次がない。
俺とのやりとりをみんんなどう見ているのだろう。
そんなことも気にしているようだった。
何が面白いのかわからないが、こいつのは全部パフォーマンスだ。
《人生には潮目があります。まったく同じことをしていても絶望を感じたり、希望を感じたりします。よくないときに潮目を待つのもいいでしょう》
雨宮先生の本にあった言葉だ。読んだ時にはまったく響かなかったが、いまは違う。
(潮目が変わったのかな)
〈いっしょに、がんばりましょう〉
直接もらった言葉のほうが何度も反芻される。
そんなことを思っていたら、先生からメールが来ていた。
〈長谷川さま
こんにちわ。
じつは私たちの企画のことではないのですが、ご相談したいことがあります。
お時間をとっていただけないでしょうか。
企画というほどのものではないのですが。〉
先生にしては歯切れが悪い感じだ。なんだろう。
〈雨宮先生
お世話になります。
ご連絡ありがとうございます。
もちろん、お聞かせください。オンラインでよろしいでしょうか?
ご都合おきかせください〉
〈長谷川さま
すみません、できましたら、資料を見ていただきながら
お願いしたいのです。なので、お会いしてでもよろしいでしょうか?〉
すぐに返事が来る。
なんだろう? やっぱり歯切れが悪い。
こんな感じなら電話かチャットのほうが早い。
いや、むしろ、すぐ会って話せばいいじゃないか。
同じアパートに住んでいるんだし。
とはいえ、それはありえないことはわかっている。
編集者と著者が同じ建物に住んでいることはフツーじゃない。
〈雨宮先生
了解しました。
日時や場所はお任せします。
ご指定ください〉
どうせ吉祥寺か三鷹駅、あるいは調布駅周辺だろう。
いつでも大丈夫だ。むしろ負担が少なくて助かる。
〈長谷川さま
すみません。
それでは長谷川さんのご都合で結構ですので
私の部屋に来ていただけますか〉
は!?
へ!?
部屋!?
※ ※ ※
そんな時に限って、打ち合わせや色校正の受け渡しやら、出たり入ったりが多く、ちゃんと時間が空いているのは夜遅くだけという状態だった。しかも新田の仕事が佳境だ。自分にイニシアチブがない状況だ。
いちかばちか、〈ご迷惑でなければ土日でもいいですか?〉と先生に提案すると、
〈お休みの日に恐縮ですが、担当さんがもしよろしければ私のほうはかまいません〉
ということだったので、土曜の午後にしてもらった。
仕事ではない、とは思っていないが、休日出勤の申請はしていない。
いろいろと面倒なので。
そして先生に会うこと、話すことは俺にとって面倒なことでははなくなったので。
午後3時。約束の時間に俺は階段を降りて、「大家」というプレートのついた101号室の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。
玄関が開かれるまでのその間、1秒もなかったと思うが、異様に緊張してしまった。
自分からここを訪れるのははじめてだ。
ガチャリとドアが開く。
ごくり……。
先生の顔が下から現れた。仮面は……かぶっていない。
「お、お、おは、こんに、ようこそ!……」
「はい、おまねきいいただきまして恐縮です!」
なんだろう。なぜ練習しておかなかったのか。
いや、なんだ練習って。
先生がガチガチのせいだろう。こんなの。
「失礼しまーす」
「どどどど、どうぞ」
靴を脱いであがる。
一度この部屋にはあがったことがある。たいへん気まずい状況で。
しかし、あの時よりもずっとずっと緊張する。
なぜだ?
それは人類史上最高に緊張でガチガチになっている人を、いままさに目の当たりにしているからだろう。
先生はもはや死刑宣告を受けた罪人が死刑台にあがるような緊張感を身に纏っていた。
いや、死刑囚はもしかしたら何かに達観し、覚悟したり、諦めたりしたりするものかもしれない。
だとしたら、違うかもしれない。
だとしたら、オリンピック日本代表はじめて選出されたアスリートが最初のパフォーマンスに向かう途中だろうか。いや、彼らは技術だけでなく世界にはばたくまでのメンタルタフネスを身につけているはずだ。その緊張感はハイレベルであって、こんなふうに小動物が怯えてわななくようなものではない。
だとしたら、小動物は何に怯えているのか。獰猛なる捕食者にだろうか。あるいは生存戦略の岐路に立たされていることにであろうか。
いずれにしろ!!
この空間は異常なまでに気が張り詰め、オドが歪み、異界の門が開こうとしている。
耐えられん!
「せ、先生!」
「はいぃーーっ!!!!」
「これ、つ、つまらないものですが……」
俺は手にしていた手提げ袋を差し出す。今朝、吉祥寺のアトレで買ってきた焼き菓子の土産物だ。
「えっ!? ……えぇーーー!!?」
たかだか土産物にリアクションが強すぎて、領域はさらに不安定になる。
「すす、すす、すまみせん!」
「いやいや、いえいえ!」
「お茶コーヒー紅茶を淹れますです!」
「お構いなく、です!」
つられまくる俺。
とりあえず、座椅子に腰をおろした。以前きた時もローテーブルをはさんで座椅子が二脚あった。
ほとんど三田園さん用なのかもしれない。
腰を落ち着かせると、少し落ち着いてきた。先生もお茶だかコーヒーだか紅茶だかの準備をしているあいだに落ち着いてくれるといいのだか。
手持ち無沙汰で、部屋のなかを眺めてしまう。
前回来た時は、まったくそんな余裕もなかった。とはいっても、ここは一応応接なのだろうか、テレビとテーブルがあるだけで、あとはそっけない。右手に襖があるので、個室か寝室やらはここではないのだろう。俺の暮らしている2階の部屋はキッチンと小さなダイニングの奥がすでに寝室で、ほとんどワンルームだ。構造から考えたら、大家さんの部屋は倍の広さがあるのかもしれない。
しばらくすると先生がいろいろと運んできた。
「緑茶、コーヒー、紅茶、どれになさいます?」
と言って、持ってきたのは全部だった。緑茶とコーヒーは急須で。コーヒーも全自動のサーバーから持ってきていた。ふつう、聞いてから淹れるものだろう。
俺が土産で持ってきた焼き菓子36個入りも開封されて全部サーブされた。そんなに食わないって。いや、なんで俺も36個入りをチョイスしたのか。
「じゃあ、紅茶と緑茶で」
うっかり2つ注文してしまう。
コーヒーはサーバーに戻せば保温できると思ったからだ。
そして本当にふたつのカップに注がれてしまう。
「いただきます」
結構熱かったが、紅茶をぐいっと口に含む。実際、なんだか喉が渇いていたが、ホットの飲み方じゃない。
先生の様子をうかがうと、顔を真っ赤にしてうつむいている。
なぜだ。オンラインではあんなに激しく、時には上からものを言うのに。
いっしょに出かけた時も、それほどではなかったのに。
なぜいまさらこんなに緊張感を放ってくるのか。
これはもう早めに仕事モードになってもらうしかないだろう。
「先生、さっそくですが、企画のご相談というのは……」
「あ、はい。ちょっと待ってください」
先生は立ち上がる。そして、スケッチブックのようなものをもって戻ってきた。
「これ、なんですけれど」
「なんでしょう?」
「祖父、が描いたものです」
「見せていただいても?」
「はい」
受け取ると少しずっしりとた。表紙はかなり厚手で、リング開きだった。
ページをめくると、自然の景色、花、街並みなどが描かれている。水彩画の柔らかなスケッチだった。
「いいですね。なんか、こう人柄がわかるような、優しいタッチです」
「これだけではありません。大きなキャンパスに描かれた絵や、書画や詩なんかもあります……」
「おじいさまは多彩な方だったんですね」
「祖父は美大出身でした」
「なるほど、どうりで」
「ですが、画家にはなれませんでした」
「ええ」
「ですが、晩年……というほどではないですかね。祖母が亡くなって、私を引き取ってから、また描きはじめました」
〈引き取った〉という言葉にひっかかったが、かなりセンシティブな気がして、たずねられない。
「私は中学を卒業するあたりから、祖父母とこのアパートで暮らしていました。もう10年近く前になります」
ご両親は? と聞くべきか。
「高校を卒業する前に祖母が亡くなり、大学2年のときに祖父が亡くなりました」
「そうだったんですね」
「祖父はこのアパートともうひとつの別の物件、それからいろいろと私に遺してくれました」
「……」
「ですが、私は祖父母のために何もしていません」
「……」
「アパートの運営は不動産屋さんにお任せですし、やっていることといえば、庭の草むしりやらお掃除、あとはスポットのライティングを気まぐれに受注し、自分が食べられるぶんだけのお金が入ってくる状態で、ときどき推しに貢いだりするだけです」
(推しがいるんか。うむ)
「離れに工具や掃除道具やいろいろ置いてある倉庫があります」
「あ、ありますね。なんだろうと思っていました」
「祖父の遺品もそこにあるとわかっていたのですが、見るのが怖くていままでそのままにしていました。でも、先日整理しようと思ったら、いろんな、いろ……てっ、うっ……」
先生は嗚咽をもらすと、しばらく鼻をすすり、涙を抑えていた。
「いろいろと、見つかったんです……」
「作品が?」
「はい……それと若い頃の日記も」
「日記ですか」
一旦、緑茶に口をつける。すでに冷めている。
「祖父の想いが一気に押し寄せてきて、私は、私は……」
「……」
「担当さん!」
「はい!」
「本をつくりたいんです、……祖父の!」




