031 後輩でありながら妹
神保町にある「さぼうる」、あるいは「ラドリオ」が熊谷さんとの打ち合わせ場所として定められている。
本日は都合のいい時間が13時30過ぎということもあって、ランチをしようということになり、「さぼうる」のほうになった。古くは安くてたくさん食べられる学生に、いまでは昭和ノスタルジーを楽しむファンが押し寄せ、繁盛している。会社からは徒歩10分。神保町は専修大学やら明治大学やら近く、学生価格のお店も多い。
そして古本街のお客が立ち寄るような喫茶店も数多い。なかでも「さぼうる」や「ラドリオ」は昭和純喫茶として、ガイド本には必ず載っている。
熊谷さんは、ミックスサンドとナポリタンとメロンソーダを注文した。
あいかわらず、すごい食べるな。見た目の情報といっさい違わない。
俺は朝は遅い時間にコンビニのおにぎりを食べてしまったので、さほど腹も減っておらず、ピザトーストといちごの生ジュースを頼んだ。
熊谷さんはがつがつと料理に口を運んでいる。それをみているだけでなんとなく幸せな感じになるから不思議だ。
「いや、やっぱりここのナポリタンはいいねー。しゃれてなくて」
「しゃれてるとだめなんですか?」
「だめだね。しゃれたお店は特別な時にしか来ないから、関係性を築くまでに時間がかかるし」
「特別なら、特別な思い出ができるのでは?」
「俺には特別な時に特別な相手を連れて行くようなシチュエーションがないのだわ」
「なら、最初から比較にならないのでは。というか、特別な相手と特別な日にナポリタンってあり得ます?」
「なくはないんじゃないかな。いや、ないのか……?」
熊谷さんは、年上だが、いっしょにいても長年の友達のような感覚になる。
『業界紙の歩き方』を作った時は、それはもう楽しかった。ふたりでとんでもなく効率の悪い取材をして、、構成をなん度も練り直し、最後の最後まで出来栄えにこだわった。この本が出たからといって、何かのムーブメントが起きる予感はなかった。だからこそ、最初で最後の「決定版」を出さなくてはいけないという使命感があった。
おかげさまで赤字にはならなかったし、評判もすこぶる良く、書評はばんばん出たし、高価格の割には4刷までいった。だけど、一般書のヒットに比べてしまうと、「それなり」の仕上がりになる。だから第二弾の要望は営業からもないし、自分で企画書に起こしてみたが、見送られてしまった。
その後、熊谷さんは何度が別の企画を持ち込んでくれたものの、会議を通過することは一度もなく、だんだんと顔を合わせづらくなっていた。
要するに負い目がある。
「そうそう、今回は企画ってわけじゃないんだけど、ネタがあってね」
熊谷さんは食事を済ませて、狭いテーブルが少し片付くと、バッグからクリアファイルを取り出した。
この瞬間が気が重い。その企画が通らないことは、その場で判断できるくらいにはなっていた。だけど、とりあえず、話を聞き、関心をもったふうにして、一旦持ち帰る。もちろん、そのまま塩漬けにすることなく、自分なりにまとめ直して、会議に提出するが、自分が思っていた通りのウィークポイントをつかれて、破れ去る。
「持ち込み企画でヒットを狙うのは宝くじを買うのと同じ」
くらい、ありえないことだと聞いてるし、
「売れっ子編集者なら持ち込みでもいいものがくる」
という、納得感のある話も聞いた。
たしかに、持ち込みはよくある。著者の知り合い関連とか。残念ながら、その人たちが売れると信じている10倍くらいの理由で市場に出せないと思ってしまう。
「ネタ、ですか」
熊谷さんはこういう時はマメに企画書にまで落とし込んでくれる人なので、意外だった。きっちりしているものを俺相手に出しても無駄だろうと思われてしまったのか。
「これこれ」
熊谷さんがクリアファイルから取り出したのは何かの雑誌のコピーのようだった。
受け取って目に通す。
「柴田狂四郎……」
作者の名だ。聞いたことがある。
「歴史小説家の?」
「いや、時代小説家だよ」
「え、何が違うんですか?」
「違いすぎるよ。歴史小説は歴史上の偉人を扱っている。時代小説は市井の人間のひとりが主人公さ。講談と落語の違いみたいなもの、いや、それだとちょっと違うな」
「どっちにしろ違うんですね」
「名前くらい聞いたことあるだろ。旅行ライター的なこともやっていたそうだけど、小説家になったのは50過ぎ。そこから一気に売れて、毎年ベストセラー出してた」
「ああ、知ってました。時代小説ブームの大横綱ですよね」
「そうそう。でも、いまは読者層がかなりの高年齢化をして、刊行点数も絞られたのか、ご本人がもう書く気は無いのか、最近全く名前を聞かなくなった」
「そうだったんですか」
「業界でも先生の本を携わっていないところ以外はまったく気にもとめていないだろうね」
「で、この原稿は? ざっとみて小説じゃなくて、エッセイのようですけど」
「そう。エッセイだよ。『月刊 燕三条』に3年前から連載されている」
「『月刊 燕三条』?」
「業界紙だよ。新潟県の金属加工で有名な地域のね」
「業界紙ですか」
「僕たちの本では取り上げていなかったから、長谷川くんは知らないかもだね」
「こういう、誰も知らないようなところで意外なところでメジャーな作家が連載持っていたりするんですよね」
「そうそう、その特集はやっぱり面白かったよね。それにしてもここまで大作家の連載を知らなかったのは失敗したなあ」
この手の情報はネットでは落ちていない。作家本人の繋がりがあればたやすく知れるだろうが。とんでもない数の業界紙を探して読み続けたぼくらでさえ知らないことはいくらでもある。
「どうしてわかったんですか?」
「そりゃ、僕たちの本のおかげだよ。続編があるならとりあげってて。垂れ込みがあったんだ」
熊谷さんは、いつもあの本のことを「僕たちの本」と呼んでくれる。
編著者は熊谷さんであって、自分は裏方に過ぎないのに。こうしていってもらえるのはほんとうに宝物になるような仕事をしたんだという自負がある。
この原稿をコピーして持ってきてくれたということは、単行本化の企画ということだろう。
簡単に目を通したところでは、身の回りの日常の出来事、ニュースで話題になっている政治や経済のことについて語っているようだった。
話題にならなくなった作家が、その名前だけで、日々思ったことを書き綴っているものなのか、と最初に思った。しかもこんな誰の目にもとまらない業界紙じゃ、企画の時にもアピール不足だ。
うーん。
「かつての大作家というのでは売れないし、載っけてる媒体も弱いしね。そう思うのはわかる」
熊谷さんが追加で頼んだコーヒーを口にしたあとそう言った。
「そこに載っている理由は、先生が新潟出身で、その業界紙を発行しているオーナーやら、協賛企業のトップに同級生がいるかららしいんだ。ようするにおつきあいだね。しかも、何描いてもいいという条件だったらしいから、そんな感じでテーマが一貫していないんだ」
それは思った。国際問題から、ペットを飼う飼い主の不始末まで、ばらばらすぎる。
「でもね、先入観抜きにして、面白いんだ。どれれも共感があって、考えさせられて、最後はユーモアで締めくくっている。天才かと思ったよ」
「そこまでなんすか」
「そうそう。それで、これはもったいないと。業界紙のお宝をいっしょに探した仲の長谷川くんに教えとかなきゃと思って」
「ありがとうございます」
と言いつつ、それは感謝の念はほとんど込められていなかった。
「まあ、まあ呼んでみてよ。無理そうならほかの知り合いに持って行くしさ。会社の方針もあるだろうし、合わなかったら合わなかったで、気にしないから。だいたい僕は見つけただけで、なんのアドバンテージも持ってないし。でも、先生を担当している編集者なら存在は知っているだろうけど、たぶん、小説じゃないからスルーされてるんだろうね。狙い目だと思うよ」
熊谷さんはそういって、さぼうるでの時間を満喫し終えたように腹をさすった。
「わかりました。持ち帰って拝見してからまたご連絡します」
「うん。じゃあ、きょうはごちそうさま」
そうして、店の外に出ると、まだ日差しは強いままだった。
※ ※ ※
その晩のこと。
俺は下北沢にいた。東口を出て、南商店街通りを途中に左に折れる。騒がしい通りから騒がしい通りに入って、地下の階段を降りる。するとまた騒がしい声が聞こえる。地下空間にはアジアの屋台を思わせる賑わいがあった。
宇佐美真琴は、客が降りてくる階段が見える場所にいて、パラソルのある三人席でひとり呑んでいた。
「せんぱーい、こっちてすうー」
あれ、大丈夫か、すでに結構飲んでいないか。
彼女は定時で帰った。俺はその40分くらい後に出た。彼女は出がけに、視線を飛ばし、「先に入って待ってますね」と5分後にチャットを送ってきた。
とてもやましい感じがした。
席について、「とりあえずビール」を注文してから、彼女はずっとご機嫌だった。
「やっと、きてくれましたねー」
「うん」
「先輩、今週はいつもよりつやつやしてます」
「つやつや?」
「そうそう。先週はじとじとしてました」
「じとじと?」
何を言っているのかさっぱりわからない。
「よかったです。ふっきれたんですね。失恋」
「ぶーーーーーーーーーーーーっっっ!!」
俺は口をつけたビールをそのままジョッキに戻した。
「きたなーい!」
激しくむせぶ俺を、宇佐美真琴はからかうように笑った。
「すごいですね、そんなに動揺することなんですか」
「いや、失恋ってなんのことかと」
「身に覚えがないことになぜ動揺するんですか」
もう完全にからかわれている。
上杉さんにも言われた。俺が楠木さんに気があるのはみんな知っているようなこと。
思い出して、ため息が出た。今後俺はこのことを一生からかわれ続けるのだろうか。
「あーはいはい」
こうなると工程や否定のターンではない。ため息混じりの返事をした。
「やだな。先輩。なにも見下しているわけではないですよ」
見下されていたら、こんなことではすまないぞ、と言いたかった。
「同情しているわけでもないですよ」
「そうなんですか」
「この失恋を乗り越えて、先輩はまたひとつ成長したんですよ」
何様? きさま、なにさまなの? は? は?
もしかしたら、宇佐美真琴は俺を好いていて(妄想)、やたらとアプローチしてきていたのかと思っていたが、どうやら目的は別のようだ。
「面白がるような話じゃないよ」
言えたのはせいぜいこのくらい。
「面白かってはいませんよ。先輩が、楠木さんをほんとうに好きで、辛そうにしているのをみて、私、好きになっちゃいました」
三周回ってどかーん。
なんでそんなことを平気でいう?
ショートボブで、すこし垢抜けない感じだが、職場ではあまり見せない快活な笑顔、そりゃかわいいとは思ったことはある。でも特別に意識したことはない。だから逃げ回っていたのに。
「好きっていっても、そういうのじゃないですからね。その気にかかる存在というか……」
は?
そういうのが何かわからないが、いまの俺に心当たりがあるのは下心だから、それのことだろう。
「すみません」
なぜかあやまってしまった。
「なぜ、あやまる?」
「いえ、別に」
もう、主導権は取り返せそうにない。もともとなかったが。
甘辛く焼き上げられたチキンと、ピータンと、大根のサラダが運ばれてきた。
「先輩、似ているんです」
「誰に?」
「兄です」
「お兄さんも失恋したばかり?」
もうなんの隠し立ても、カッコつけるのもやめた。甘辛いチキンは甘いのか辛いのかよくわからない。
「いえ、兄は専門学校を中退してからずっとひきこもりです」
「は?」
それに俺が似ているというのはなんたることか。
「私は兄のことがずっと好きでした。好きって言ってもそういう好きじゃないですからね」
いちいち否定するくらいなら、軽々しく好きっていうのやめてくんない。
俺は動揺を隠すためにメガネをリセットする。
「頼れる人でしたし、かっこよくて、憧れていたんです」
水菜とベーコンを炒めた皿と、冷やしトマトが運ばれてきた。
「ほんとに兄が好きすぎて、いつも手を組んだり、おんぶしてもらったり、だっこしてもらったり」
「へえ、かわいいね……」
「でも大学受験を失敗して、浪人するのしないので親ともめて、結局専門学校にいくことになったんです。それからはいままでにみたこともないくらい、自信がなさそうで、不服そうで、見ていられなくなったんです」
生春巻きと、トムヤムクンがやってきた。
たしかにメニューを見ると、一皿一皿リーズナブルだけど、頼みすぎじゃね?
「私もちょうど、高校生になっていて、それまでいつも兄にべったりしていましたけど、さすがにそんな歳じゃないかなって思って、距離をとるようになっていたし、なんだったら、目が合うたびに罵倒していました」
「きゅ、急すぎない?」
「そうなんです。でもその時はそういうことしかできなくて……」
彼女は突然涙ぐみ始めた。
「だ、大丈夫っ?」
「ほんとはっ、励ましたかったのに、お兄ちゃんはもっとすごい人なんだからって、だからそんなウジウジしないでよって!!!…………言いたかったのに、言いたいだけだったのに……」
やばい、本格的に泣き始めた。
眞露が運ばれてくる。あれ、さっき泡盛飲んでなかったか。しまった。
「もう、これくらいにしておこうか」
「ダメです!! 先輩にはちゃんと立ち直ってもらわないとっちねり」
「とっちねり? 大丈夫だから。俺は」
「そうみたいですね!! ちょっと早くないですか立ち直るの!」
「ちょっとまていっ、立ち直っても立ち直らなくてもアウトじゃん?」
「そうです! 私が励まして、はじめて立ち直ってください。なのになんですか、そのさっぱりした感じは。もうすでに別の恋が始まりましたか、節操なくないですか?」
「なにも、はじまってはいないし!」
ふと思う。最近、俺のまわりは圧の強い女性ばかりだな。
「雨宮先生はなんなんですか!!?」
「え、雨宮先生? が、どした? 仕事相手だぞ。著者だぞ」
「だからなんなんですか! 休日に手をつないで映画見てるんですよね!」
「手はつないでいなーい!!」
「仕事のわけあるかーい!!」
「仕事だってば」
「どうせ私より先に恋バナの相談でもしてたんでしょーよ」
え、するどい。なんで、なんでわかるの?
というか、宇佐美さんはどのポジションでいま話しているの?
「ずるいですよ。……少なくても仕事の話は私にしてください。できれば、恋の話も」
「え、あ、はい……」
思わずハンコを押してしまった。
「どっちが先輩かわからないねえ」
「先輩は先輩です。苦しんでいる先輩を叱咤激励するのは後輩の役目ですし、弱っている兄を優しく包容するのは妹の役目です」
「どっちも上からなんですけど。いや、俺は兄じゃないし」
「会社では先輩ですが、職場を離れたら兄さんです」
「いろいろ押し売りがひどい……」
「でも、元気出たでしょ?」
目がすわった酔っぱらいが、ここで見せてくる完璧な微笑。
俺に切れるカードはない。
「お腹いっぱいだから、少し歩こう」
「なら、ヴィレッジ・ヴァンガードにいきましょう」
「わかった」
店の外に出ると蒸し暑かったが、少し風があって心地よかった。




