003 引き継ぎ仕事2
社内の原本置き場に行って、雨宮薫著『人間関係は洞察力が9割』を探し出して手にとる。社内の原本は誤字脱字の修正を記録しておくために置いてある。重版されないとそのまま修正されることはないが。
ともかく担当ということになって、本は最新刷りを倉庫から取り寄せてもらうことになったが、先に目を通しておこうかと思った。
時間あるし。
四六判と呼ばれる単行本では最もポピュラーな判型、ソフトカバーだ。業界では「並製」という。おんなじ意味だ。ちなみに「上製」はハードカバー。なんで英語で言わないかというと、これは確証はないが、カバーという言葉に問題がある。
カバーとは本体に巻いてあるやつだ。業界でもこれをカバーという。ところが、ソフトでもハードでもカバーはおんなじなのだ。じゃあなにがソフトやらハードなのかというと、「表紙」の違いなのである。これは本体の表裏であり、ソフトはポスト紙といわれるやや厚手の紙、ハードはチップボールという固い板紙にさらに紙を貼っている。
これが固いか、やわらかいか。
ここで混乱するのが、「表紙」のことを英語ではカバーということだ。表紙を包んでいるのが〈カバー〉。
海外ではCDのように「ジャケット」と呼んでいるとかいないとか。ともかく日本では、本体のほうを表紙、巻き付けているのをカバー、と、同じ意味なのに別表現で区別している。
というわけで、パラパラと頁をめくりながらも、まったく内容が頭に入ってこない。
自分のあまりの関心のなさに驚く。右ページに一文あって、左ページにエッセイのような解説のある名言集スタイルなので、すぐに読めそうなのだが。どんなに安くてもいらないものはいらない理論が働いている。
(大隈くんに話を聞こう……)
大隈くんはこの本の重版処理を担当している。そもそも編集担当が退職しているので、この手の雑務は編集部内の手の空いている人に回される。大物作家なら正式に担当者引き継ぎをするのだが、正式に担当をつけず、窓口業務だけ決める場合もある。年間何百冊も刊行されるので、そもそも重版もかからない本、いわゆる動いていない本だと、窓口すら決められない場合もある。この本はいちおう窓口がいる。
本を持ったまま大隈くんのデスクに行くと、運良く席にいた。
大隈くんは2年目の新人に近い。
「ああ、長谷川さん。聞きましたよ。雨宮先生の担当になったんですね」
「まだ企画も通ってないから担当と言えるのかな。俺が担当なら君がいまの担当では?」
「たしかに僕は編集担当とはいえないですね。なんて言うんでしょうね」
「重版担当」
「たしかに。でもあと、図書館だよりに紹介したいっていう連絡の対応もしてますよ」
「それ営業部でいいよって言えばいいだけなのに。断るわけないんだから」
「そうっすね。でももう長谷川さんに引き継ぐのでお任せします」
「えっ、それは言われてないけど」
「いやふつうそういうものでしょ」
出版社にはこういう曖昧な業務がけっこうある。
「ところで、この本についてレクチャーしてほしいんだけど。時間ある?」
「いいですよ」
初版は3年前、5000部、刊行3ヶ月後の3刷りではねて4刷りと合わせて4万部重版、あとはちょっとつくり過ぎたので、以降の重版は5000部ずつだった。4刷り以降は著者からの訂正はないようだ。
「いちおう毎回、メールで連絡してますが、〈ありません。進めてください〉というそっけない返事だけですね」
「会ったことある?」
「いやないです。引き継いだ時に、長谷川さんみたく企画出せっていわれたんですが、ぜんぜんダメで。いまはただの重版連絡係になっています」
「なんだ俺二人目か」
「難しいですよ。僕も社内に諮る前に相談レベルで投げてたんですが、最初だけ、〈難しいです〉と返信あっただけで、あとはスルーですよ」
「どんなビジネス本、自己啓発本にも〈メールはすぐに返信しろ〉と書いてありそうだけどな。著者がそれでいいのかな」
ビジネス書と自己啓発本はわりと境界はあいまいだ。似たような事を書いていても著者の肩書きで分類されることもある。
「長谷川さん自己啓発本読んでます?」
「ぜんぜん。だから困ってる。だいたいこの本なんで売れたの?」
「元ネタがツイッター、ああ違うXだったんですけど、編集担当の三田園さんが惚れ込んで、けっこうゴリ押しで企画通って、たまたま、おんなじような人が棚をまかされている力のある書店員さんで、そっから一気に火がついたんですよ」
「そんなこともあるんだ……」
三田園さんといえば、この本だけを出して退職し、いまはITベンチャーにいって派手にやっているという噂だ。1年半しか在籍してなかったらしい。
最近、そういう人が多い。
新人や実績のない人を売るのは難しい。そこにこだわっていると仕事がなくなる。でもこういうラッキーパンチもあるものだ。いま一般書は話題になったり、書評で取り上げられたとしても、大した部数は出ない。コミックやフィクションに比べてだけど。一般書の初版部数はどんどん下がり、重版の部数も小さくなっていて、昔の3刷りといまの8刷が同じ累計部数だなんてこともある。
ビジネスがちっちゃくなって、リスクが深刻化したから、余計にチャレンジしにくくなっている。
「あと、ご本人、気難しいですよ。三田園さんが女性だったからか、男性編集者が嫌かもしれないみたいなこと聞きましたね。三田園さんの推測ですが」
「うそ。セクハラおやじなの?」
「え? 女性ですよ」
「え?」
「え?」
大隈君と顔を見合わせた。
マジか。
雨宮薫。女性だったのか。勝手に決めつけていた。自分の名前が長谷川薫だから。