029 失恋2
楠木さんの唐突な「産休」発表があった次の日、俺は仕事がまったく手につかなかった。
ゲラを眺めてはいるが、校正どころか、文字すら目に入ってこない。
背後から新田がやってきて、「時間をかけすぎ」だと注意される。会議室ではないから、露骨な言い方ではなかったが、舌打ちのようなものが聞こえた。これは新田のヘルプ仕事。うまくやらないとどんどん俺の立場がなくなる。だけど、そう思っただけだった。
いや、集中しよう。
簡単なところからはじめる。「肩柱」といわれる、たいていは本文の左上に横書きで置かれている文字だけを通貫チェックする。そこに書いてあるのはたいていが「章タイトル」だ。だから、同じ章なら全部同じはずだが、DTPで別のマスターページをうっかり適用して間違っていることは稀だがある。稀であっても必ずチェックする作業だ。単純で頭を使わない。実際、ページをめくるたびに集中度は増していった。
そのまま奥付けの日付、ISBNなど引き合わせて済むものを優先的に片付ける。それから、素読み校正に戻る。さっきは文字を追っているだけで読めていなかったので、「黙読」する。表記統一のいくつか、単純な誤字、カタカナの間違い、元号と西暦の不一致。
少し時間がかかったが、終わってみればいつもより集中できたかもしれない。校正は大の苦手な俺が。いや、集中というよりは逃避だったかもしれない。
新田に付箋を立てたゲラを渡す。新田は何も言わずに受け取った。
見れば定時が近づいていた。
今日俺がやった仕事はこれだけだ。
このまま帰りたくない。
その時、上杉部長が帰り支度をしているのが見えた。
※ ※ ※
いつもの店。
「安定期に入ったのですぐに発表したいというのは彼女の意向だよ。実際産休に入るのは3ヶ月も先だし、自分の仕事と、引き継ぎと、出産準備をその間にやっていくという綿密な計画を立てているらしい。『なにしろ高齢出産ですし』って言ってたけど、あのくらいの年齢を〈高齢〉と呼ぶのはピンとこないよね、男は……」
部長は聞きもしないのにのっけから楠木さんの話ばかりしている。
「あー、一応このへんはもちろん内緒だよ」
そう言いながらこの人はいつもベラベラと話している気がする。人に口止めを要求する人ほど口が軽い。
「なら、言わないでくださいよ」
軽口のつもりで返したつもりが、自分でも不服な感情がのっかて強めの口調になった。
「だって、それが聞きたかったんでしょ? というか、その話がしたかったんだよね」
「なんでですか」
「長谷川さんから誘ってきたのはじめてじゃない。あの発表あってから、みんな少しの間ザワザワしてたけど、雑談が盛り上がったくらいだった。なんともいわれず沈んでたのは君だけだよ」
「そんなことないですよ」
「そんな棒読みのセリフで、言い訳なんてして」
「パワハラですよ」
「あたた、そうか。すまない、ならもう、この話はやめるよ」
「……」
無言で料理をつまむが、口まで運ばない。
「料理冷めるぞ」
「はい……」
しばらく無言でグラスになん度も口をつけていた上杉部長がゆっくりと呼吸を整えて、じっとこちらを見つめてきた。
「何を聞いても何も言わない。なんだったら忘れる自信はある。なにしろ早くも認知症ではないかと疑われている。ははは」
俺は苦しくなる。
八つ当たりしたり、意地をはったり、そんなものばかりが渦巻いているどうしようもない自分なのに。
上司に対して失礼もいいところだ。でもこの人は絶対に怒らない。だからみんな気兼ねなく話しかける。
そんな人だから最大限に甘えている。
わかっているのに。
「はい。すみません」
思わず頭を下げた。
それから、ジョッキのハイボールをゴクゴクと流し込んだ。
大きく息を吐く。
「おっしゃる通りで。失恋をしたところです」
道化のようにふるまう。マスカレードだ。
「ああ」
なんでもないように、それでも茶化さないように部長は短く応えた。
「付き合っている人がいるのも知りませんでした」
一度そう言うと仮面がはがれていく。
「うん」
「結婚してたんですねっ……」
「そうみたい」
「どうなんですかねっ」
「なにが?」
「俺はバカなんですかね」
「そう思うならそうなんじゃない?」
「あまり頭が回らないです」
「考えて解決できることはないよ。哲学者だって無理だ」
「俺、そんな態度出てました?」
「いちおう管理職だからね。みんなのパフォーマンスを考えなくちゃ入れない。昔ならズケズケとプライベートとのことを聞いていたんだろうけど、いまは無理だからね。日々の業務の中でしっかりと変化を観察するしかない。それでもこっちの思い込みかもしれないから、お酒に誘うのはそういうのが少しでもこぼれ落ちないかと思ってるからなんだ。ほかにやり方がわからなくてね」
「部長がただ飲みたいからじゃなかったんですか」
「それもある。だからついで。でもそれで、言いにくかったことを言ってくれた人は結構いる」
「仕事だったんですね」
「仕事も人生でしよ。それ以外と切り離すことはできないはずだよ」
「なんでもないように言いいますね」
「結構な年だからね。昔のことを振り返るのは余裕ってやつさ」
だとしたら、早くそうなりたい。
「俺は仕事ができません」
アルコールが入りすぎているのはわかっている。いや、あえて入れている。
もう、どんどん口を滑らせよう。
「そんなことないよ」
「気休めはやめてくれませんか」
「何言ったって気は休まらないだろ。ははは」
「もっと仕事で会社に貢献できたら……楠木さんも」
「うん」
「俺はいつだって頑張っていない」
「そんなことない。珍しいな。ふつう、みんな自分は頑張っていると思っている。レベルや客観性に関係なくね。だから、〈がんばれ〉は雑に言えないんだよね」
「いや、もう、編集者無理なんじゃないかと思ってます!!」
「そうは思わない」
「なんでですか!!」
「うーん。心が豊かだから? ちょっと待って、いきなり言われたから言語化してなかったな」
「適当なこと言わないでくださいよ!!」
「いつも適当だけど、今日は本気。ホンキだよ。ははは」
「笑ってるじゃないですか!!」
「虚仮にしているんじゃないよ。長谷川さんがそんなに自分を出してくれたこと、うれしいんだ。いつもさ、メガネの真ん中ばっかり触っていて、謎キャラだなって」
「俺のことわかると言ったじゃないですか」
「わかる部分とわからない部分はあるよ」
「正論です!!」
「そうだね。え? どういうこと?」
「正論は嫌いです!」
「あーなるほど、わかるわかる」
「……すみません。酔ってしまいました」
「知ってた」
俺の記憶は、たぶんそこまでだ。
メガネをはずして、突っ伏したのか、碇ゲンドウポーズで過ごしたのかはわからない。
※ ※ ※
「悪かった。こんなになるなんて思わなかった。本当に、ある意味うらやましいよ。長谷川くんが面接に来た時、変なやつだけど、情熱はあるんだと思ってすぐに採用したんだ。だけど、年々、それがなくなっているようでね。業界はひどいもんだ。誰もその処方箋をもっていない。でもだからこそ、好きこそ大事だと俺は思う。仕事なんかうまくいかなくていい。数字なんて気にするな。もっと楽しめよ……」
上杉はひとり長谷川薫に語りかけていた。
しかし、相手がメガネが斜めにずれたまま碇ゲンドウポーズをとって入眠しているのはわかった。
「あ。これはもうお開きだな。おいおい、嘘だろ。まだ3時間しか経ってないぞ!!」
時計を見て驚く。
会計を済ませて、長谷川を肩に担いで外に出ると吉祥寺駅までタクシーで送っていくことにした。
※ ※ ※
俺は井の頭公園のベンチにいた。
手には缶チューハイが握られていた。
憶えていないが、うっすらとタクシーで上杉部長と会話をしていたような気がする。
降りる時に「大丈夫です」と言った気がする。駅前をぶらぶらとしていてポン引きを睨みつけていたような気がする。あとは憶えていない。
スマホを見る。朝の4時30分だった。こんなところにいては不審者だと思われる。というか、よく見回りに引っかからなかったな。もしかしたら深夜は別のところにいたのかもしれない。
週明け、部長になんて謝罪しよう。こっちから誘って、おごらせて、悪態をついて、つまらない酒に時間を使わせて、駅まで送らせて。もうロイヤルストレートフラッシュだ。
辞表書いた方がいいかもな。
そうだ。そうすればいろいろとスッキリするかもだ。
とりあえず公園を出て、吉祥寺大通りを歩く。ジブリ美術館、西公園の野球場、韓国焼肉屋、メロンパンの有名なベーカリー……。途中、スポーツドリンクを買う。少し休憩。また歩く。
曇り空がまた気分を落ち込ませたが、喉に刺さった棘は昨日吐き出せた。ただただ虚無になっただけだが。
1時間以上かけてアパートにたどりついた。
門が閉まっていたので内側に腕を伸ばし、解錠する。
さびた鉄がきしむような音が朝の静寂さを切り裂くようだった。
敷地に入ってから施錠すると、安堵のようなものがあって座り込んでしまった。
早く部屋に戻ろう。シャワーも浴びずにそのまま寝よう。
立ち上がったが、足元がふらついて、階段とは反対側によろけた。
その時、がちゃっとドアの開く音がした。
大家さん――雨宮先生だった。
寝巻きというわけではなかったが、表に出るや否や大きなあくびをしていた。
こんなに早起きなんだ。
先生がこちらに気づく。
「担当さん?」
「ああ、先生おはようございます……」
「いま、帰ってこられたのですか?」
「ええ、まあ」
「朝帰りですか」
「あ、はい」
なんだろうこの気まずい感じ。
いや、先生が珍しく俺のことに興味をもっているようだったからだ。
「すみません」
「いえ、別にどこで何するのも構いませんが、その……気をつけてください」
心配してくれているのか、怒られているのかわからない。
「はい。ありがとうございます。それじゃ……」
早く退散しよう。
「待ってください!」
驚いた。朝からどうしてそんな大きな声を出すんだ。
「何があったか知りませんが、そんなに乱れた生活をするのはよくありません!」
やっぱりお説教なのか。勘弁してほしい。
「俺にだっていろいろあるんですよ……いいじゃないですか」
「よくありません! 〈心配している人〉だっているでしょう!」
なんでそんなこと言われなきゃならないんだ。
「いませんよ!」
「あなたは人の気持ちがわからないんですか!」
何を言ってるんだ、この人は。
「先生には言われたくありませんよ!」
言ってから、まずいと思った。
「そうですか」
先生は一瞬驚いた様子だったが、プイッと振り返って部屋に戻る。
ドアが閉まる音は朝の全てを破壊するようだった。




