026 失恋
地下の通路を歩き、階段をのぼる。
神保町の駅を出る。
日差しがまぶしい。いかにも夏の陽気。湿度も高くて数分歩いただけで汗が出る。
専修大交差点の近くまで歩くと、事務所がある。
朝の9時30分。始業は10時。だけど、たいていの編集者は遅刻してくる。
ついこの間まで「裁量労働制」が取り入れられていた。これは労働時間をどのように使うかは個人の裁量として、結果だけを問う働き方だ。ただし、そのぶん残業代が「みなし」として包括されてしまうので、労働者側からみると不利益条件にあたるため、労使が合意しなければ施行できない。実態としては、クリエイティブな現場では、労働時間がデタラメなので、会社側としては残業代を払いたくない、という思惑で採用されている。中小企業では勤怠管理はそれなりのコストになることもあり、この裁量制は会社側にとって都合よく使われている。都合よく、というのは「時間の使い方は個人の裁量に任せる」という最大の名目を、その通りに運用している会社がほぼないからだ。つまり、残業代の支払いを制限したうえで、時間的な拘束も課しているという矛盾した状態だ。政府はそれを知らない。
時間的拘束を受けないはずなのに、遅刻や早退の概念が残っていたり、きっちり8時間労働を守らせている。それにもかかわらず、残業代はグロスでしか支払われない。完全に会社の都合である。
これに反発した我が社の先達は労使交渉で「裁量労働制」を拒否した。そして、通常の勤務体制に戻ったのだが、編集者というやつは、けっきょく朝が遅いダメ人間ばかりである。
俺が編集部のフロアに顔を出した時、そこにいるのは上杉部長と楠さんくらいだ。さすがに管理職は建前的にもいなければならないのだろう。そして遅刻してくるやつは、「図書館立ち寄り」だの「体調不良」だの「書店直行」だのと毎回同じような言い訳をしている。毎日体調不良のやつはぜひ病院に行ってほしいし、図書館に毎朝いくやつは、休館日にも行っているし、書店はそんなに早くから開いていない。それでも、管理職の人たちはそれを放置していた。こういうところがわりと適当ではある。
俺はこの朝の誰もいない状況が好きだった。いや、部内では楠木さんだけがいる。
「おはようございます」
みんなのデスクを見渡せる位置に編集長のデスクはある。そのほかの部員は6つのデスクが2列で向かい合っている。向かいの相手とは目が合わないくらいにデスク上の棚に資料が積まれている。どの編集者も机のうえがちらかっている。本と紙だらけ。食べ終わったヨーグルトのカップをそのままにしていたり、趣味のフィギュアを置いているやつもいる。とてもだらしない。総務部から注意喚起されるが、一向に改善しない。
楠木さんの出社は誰よりも早い。一度、一緒に酩酊するくらいに深酒したことがある。編集部の誰もがぐだぐだだった。そのとき、楠木さんは「これね、次の日にみんな遅れてくるのよ。体調不良とかいって。でも、そういうときに、しゃっきり朝早く出社するのがかっこいいのよ。昭和のおじさんにはできないことだから、ずっと続けてるわ」と、それこそ顔を真っ赤にしながら、世迷言のような口調で言っていた。
ところが、その言葉通り、編集部の誰よりも早く出社し、きれいな顔で、「おはよう」とみんなに声をかけていた。この人には人間のダメなところを認めながら、女神のようなチート能力を持ち合わせているのだと感動してしまった。彼女は美学を持ち合わせている。それを裏切らない。理想というのかな……なんでもいいか。とっつきやすい笑顔、仕事には厳しいのに、人間には優しい。理想を押し付けない言動、自分を律しているようでありながら、どこまでも他者の成長を見守っている。
言い過ぎか。
でも、俺にはそう見える。
こんなに人に興味をもったことはない。
きっと世間の人は彼女を近づきがたく〈美しい〉と褒め称えるだろう。だけど俺は〈かわいい〉と思ってしまう。話すほどに、彼女のことを考え、働く姿を目で追いながら。
支配したい、所有したい、独占したい。
恋なのか欲望なのか名前の知らない感情が日々募っていた。だけど、彼女は上司で、俺は使えない部下だ。
それがこの衝動にブレーキをかけつづけている。
「おはようございます」
楠木さんに声をかける。
「おはよう。早いじゃない。ま、長谷川くんはいつも早いか」
「まあ、そうですかね」
「雨宮先生と映画を見に行ったんだってね。すごいじゃない。先生、あなたのことが好きなのかしら」
休日出勤の事前申請をしているから、そのことは知られていて当然だった。
なんでもない軽口のように、楠木さんはキーボードを叩き、モニターから目を離さない。
そんなふうに言われるのは心外だ。
遊びにいったわけじゃない。
楽しい休日みたいにいわないでほしい。
「いやいや。執筆の役に立つと思ったのですけど、ただの映画鑑賞になってしまいましたよ」
「あら、面白くなかったの? 賛否両論とは聞いていたけど」
「うーん。まあ。先生、やっぱり経験が無さすぎるのか、めちゃくちゃ感動してましてね。女子高生なのかなってくらい、ピュアで。あ、いまどきは女子高生でもそんなのいないですかね」
「そうかな。私もじつは観たんだけど、すごく泣けた。いい映画だった。シンプルでプリミティブなのは強いわよ」
うそでしょ。好きな相手との価値観の齟齬が、内臓に響いて体の中で渦巻く。
あと、誰と観に行ったんだ。あんなのひとりで行く映画ではないでしょう。
「いや、いい映画ではありましたよ。ただ、先生がめちゃくちゃ泣いちゃって」
俺はまた仕事で苦労しましたというような姿勢をとってしまう。
「そっか。でもよかった。雨宮先生。合理的なことを言っていながら、わりと根幹には割り切れない気持ち、なんというか〈心〉みたいなものを無視しないっていう姿勢を大事にしているのよね。だから多くの読者がついたんだと思う」
その言葉は仕事としての箴言のように聞こえたが、ただ、ただ一個人としての吐露のようにも聞こえた。俺は楠木さんに褒めてもらいたかったのか、慰めてもらいたかったのか、どちらにしても甘えたかったのだと思う。
恥ずかしさが湧き上がってくる。
俺はいつからこんなに冷めて、腐ったやつになったんだろう。それが〈大人〉だなんて思い込んでいたのだろう。本当に自分が嫌いだ。だからこそ楠木さんに憧れたのかもしれない。理想と現実の葛藤に光を失わない存在。
「一度、先生にもお会いしてみたいわね」
「相当なコミュ障ですが」
「でも、長谷川くんが一緒なら大丈夫そうじゃない」
「それはたしかに。なんででしょう」
「好かれてるからでしょ」
「誰が?」
「雨宮先生が。長谷川くんに」
「いや、仕事ですから」
「仕事とプライベートってそんなにきっちり分けられると思う? だいたい学生結婚やら職場結婚がほとんどよ」
「それは先生も言ってましたね」
「婚活アプリとか流行っているけど、条件だけで決められない人って結構いるみたいよ」
「俺も条件で人を見たことありません」
「やだ。なに、長谷川くん、そんな中学生みたいなこと言う? まあ、でも雨宮先生が言ってたじゃない。日常的接触だっけ。そこからうまれる特別感。それって誰かと比較して生まれるものじゃない、というのは私もわかるわ」
だとしたら職場の人間関係は、みんな特別感をうむ可能性がある。特別感といいながら、カタログのセール品のように聞こえてしまった。
だけど。
「たとえば、雨宮先生にとって、たとえ人生で出会った男性が長谷川くん一人だったとしても、それは運命で、特別なものなんじゃない? むしろ劇的すぎて映画になりそうじゃない! あはははは」
楠木さんは自分の言葉に納得するかのように満足げに笑う。
「いや、だとしても、これは仕事ですから……」
俺は不服を伝えるためにそう言うしかなかった。
※ ※ ※
午後、企画会議。
楠木さんは冒頭で体調不良で席を外し、そのまま退勤した。
最近、このパターンが多い。
無論、会議は新田が仕切る。
俺は宇佐美さんと目が合う。
不安げな目だった。
新田は新人である彼女にも容赦ない。まるでデスゲームに参加した足手まといのキャラクターを見下しているようだ。
会議では冒頭、斎田さんの企画した本が発売してすぐに重版がかかったことが告げられた。知者にとっては処女作だった。SNSでも話題になっていたし、名のある書評子に熱烈に推されていた。正直、企画があがったときから知っているが、せいぜい仕上がりが良かった本になるくらいだと思っていた。それに企画が出たのも二年くらい前だったはずだ。
斎田さんは俺と同じように刊行点数が少ない。そのわりにいつも忙しそうな態度をとっている。ずっと同じゲラを読んでいる。とっつきにくい人物だった。
新田は重版の業務連絡を終えると、ほんの少しだけ斎田さんを褒め称え、ほかの編集部員を鼓舞した。いや、それはあからさまな脅しだった。
企画のプレゼンがはじまる。
あいかわらず、講評はすべて新田が行い、誰も発言しない。
相変わらず、人の企画をボコボコにダメ出しする。
斎田さんの企画はヒットした同じ企画の著者だった。中身はとても練られているように思わなかったが、これはすんなり通る。そうだろう売れたらともかく第二弾だ。次作を他社に取られないのが最も重要だ。
「長谷川さん、自分で仕事をまわせないのに、人のサポートもできない、それは給料ドロボーと世間では言います」
新田は俺の企画プレゼンが終わったあとに言った。企画の講評ではなかった。
また、一瞬でお通夜の空気になる。
「それ、企画のことじゃないですよね」
口を開いたのは宇佐美さんだった。
「それはもう語る必要もないじゃないですか。時事ネタに絡ませている企画のようだし、早く出版しなきゃならない、それこそ同じ企画を考えている編集者は山ほどいるでしょう。著者と仕事をしたことがある編集者は他社にいくらでもいます。それを、なんでご縁のない長谷川さんがとってこれるんですか? ほかとは違うアプローチだと言えますか。だいたいそれでいけるなら、アプローチしてみてから企画持ってきてくださいよ!」
言えばいうほどに新田の語気は強まる。
「そうですね。わかりました……」
俺は静かに答える。指摘はごもっともだ。とても練られたものではないと自分でも思う。
みんなの指摘はいつも正しいが、心は傷つくばかりだった。
「雨宮先生でしたっけ。間計画に入っている著者。まともな企画になってからリストに入れろよ。仕事やってますみたいな嘘はやめろよ」
新田はもはや本音を隠さなくなっていた。
「ちょっと言い過ぎました。すみません」
暴言を放ってからすぐに新田は言った。はじめから用意されたもののようだった。
会議は新田の独壇で終わった。
※ ※ ※
会議後、また宇佐美さんに手招きされて非常階段に出た。
彼女も企画をこっぴどく罵られていた。
でも、その表情は明るかった。
まさか、俺のことを慰めてくれるのか。
「先輩。いいお店見つかったんです」
はじけるような笑顔だった。
やっぱりそうか。俺はなんて情けないんだ。
「チャットでやりとりするのも面倒なんで、いまここで日にち決めちゃいましょう」
「チャットで大丈夫だよ。いま、予定わかんないし」
「ダメです。先輩、既読スルー結構あるし」
「ああ、土日は返信しないようにしているんだ。いちおう、仕事仲間だろ」
「ちょっと意味わかんないですけど」
「ごめんごめん。仕事関係の連絡だから週明けに返信しようと思うんだけど、週明けたら忘れちゃうんだ」
「だから、いまここで決めましょう」
どうやら、逃げられそうもない。実際、彼女と勤務時間外に会うのは気が重い。まるで、勤務時間みたいだからだ。仕事の話にもなっちゃいそうだし。
「仕事の話はしません」
「え?」
「私、先輩といっしょにゴハンに行ってみたいだけです。それだけです」
もう、頭の中は断る方法を考えられるような余裕がなかった。
※ ※ ※
夕方、唐突に全社メールで楠木さんの「産休」が発表された。




