002 引き継ぎ仕事
文庫の色校正が出た。
色校正は「色校」とわずか一文字だけ微妙に縮められて呼ばれ、その名の通り印刷の色味をチェックするものだ。1色で印刷される本体ではなく、本体にかぶせる「カバー」と宣伝文句が書かれている「オビ」でやる場合多い。カバーはCMYKの4色印刷で表現されるフルカラー、オビは2色以下で印刷されることが多い。
色校が出たら、トンボに合わせて線を引き、断ち落としまで絵柄が出ているか確認して、もう一枚は実際にカットして束見本に巻いてみる。
色味のチェックは写真やイラストが使われていない場合は、発色の加減と「版ズレ」といわれる印刷のズレがないかを確認する。たとえば赤い文字の場合、M版とY版のふたつを重ねて表現されているため、「版ズレ」していると、にじんだように見えてしまう。
仕上がりの中心やカットする場所にトンボ(トリムマーク)という線があって、そこは必ず4色で印刷されているから、ずれている場合、そこをみるとよくわかる。
あとはタイトルやキャッチコピー、バーコード、値段など文字関係も再度チェックする。
今回はなにもなかったので、色校正に『版ズレ注意』と赤ペンで書いて〈責了〉した。これは、「自分の仕事は終わりました。もう確認の必要はありません。あとはお任せします」という意味だ。似た言葉に〈校了〉というのがあるが、修正指示を入れて戻す時には使わない、本当の意味で「もう直すところありません!仕事完了!」の意味だ。
本日マストの仕事が終わった。
編集者は自由裁量が大きい。社内の会議や外部との打ち合わせなど、時間が決められているもの以外は、なにをどうやって時間を使うかは自由だ。
さて、どうしよう。
「長谷川さん、ちょっといい?」
うしろから話しかけられた。楠木編集長だ。
ダメと答える人はいない。いや、いるか。いつも原稿をじっと見つめている斎田さん。とてもはなしかけにくい。音も立てずにじっとしているのに、忙しいオーラをすごく出してくる。
「はい」
俺は返事をしながら振り返ると上杉部長もいっしょだった。
あーこの組み合わせは嫌な予感しかしない。
俺はこんなときメガネをくいっとあげるクセがある。子どもの時からのクセなので友人には、それが「動揺」の合図だと知れ渡っている。ちなみに、中指とか人差し指で真ん中のブリッジをくいっとやるあれではない。メイド喫茶だかアイドルだかがやる手でつくるハートの片割れでフレームをつかみ、くいっとやる。会社の同僚にはオシャなメガネ男子の所作として認識してほしい。できれば。
打ち合わせ用のブースに移動すると、楠木さんがさっそく本題に入る。
「長谷川さんに担当してほしい企画があるの」
ですよね。
自分の企画が通らないなら、人の企画をやるしかない。いちおう、何もしないで給料がもらえるとは思っていない。
ただ、他人の企画ほどやりにくいものはない。その人がもっていた構想も作戦も熱量も、白紙から引き継がなければならない。とくに熱量は引き継げるかどうかはわからない。
ちなみに、企画者は退職が決まっているか、刊行予定が詰まり過ぎているか、上役の場合が多い。上役は役員、社長も含む。話だけつけてあとは現場でやれという。
さあ、どれだ。
「といってもちゃんと企画にはなっていないの」
「どういうことですか?」
「要するに企画からお願いしたいのよ。営業部長からの依頼なの」
そのパターンもあったか。
営業部が市場動向をみて編集部に企画にまとめてほしいと打診することがある。だいたい部長同士が話をつけてから現場に降りてくる。
メリットはまとまってしまえば企画会議は9割通る。よっぽどオーダーと違ってなければ。
デメリットは、編集部の誰にも発想のないものだから、誰もやりたがらないものがくる可能性がある。編集部も市場は見ているし、リサーチしたうえで実現性が低いものでも、そのへんは無視して提案されることもある。あと、あまりにも漠然としていることも。
「雨宮薫って知ってる?」
「あーと、はい。『人間関係は洞察力が9割』の?」
「そう。もう2年経つんだけど、計画重版でもよく仕上がってね。いま8万5000部」
このご時世でその部数はえらい。しかもたしか処女作だろう。読んだことはないが、社内では結構話題になっていた。
「10万部に届かせるために、この著者の2作目出してほしいのだそうよ」
「順調なら、2冊目出さなくても届くのでは?」
「それじゃだめでしょ。新刊出したら平積み営業かけてくれるんだから。いまのままだと徐々に先細って届かないかもしれない。10万部出たら重版広告も出せるのよ。そんなんだから編集者は売ること考えないって言われるのよ」
お説教だった。やりたくないように聞こえてしまったかもしれない。だから苦手なんだって。自己啓発本というやつが。