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人生が輝くたったひとつの方法  作者: 無銘、影虎
1 君が愛を語れ
19/31

019 見本出来

 左のほほがジンジンする。

 強烈な平手打ちだった。人生ではじめての平手打ちだ。

 おやじにもぶたれたことはない。

 その一撃を放った人はいま目の前にいてお茶を飲んでいる。

 ひと言も話さない。俺もひと言も話せない。

 誤解を解こうといくつかの弁明をしたが、一切無視されて、三田園みたぞのさんを〈大家部屋〉に運ぶよう命じられ、その後、バスタオルを渡されて、お茶が出された。その間、すべて無言。


 俺はどうしたらいいのかわからない。

 用が済んだので(俺の用事ではないが)自分の部屋に戻りたいとも思ったが、そうできない威圧感もあった。

 だいたい、なんで雨宮先生がここにいるのか。もしかしたら赤坂さんとこの部屋で二人で飲んでいて、酔っ払った赤坂さんが俺の部屋に来たのか。だとしたら、手ぶらだったのはわかる。しかし、酒盛りをしたあとの部屋には見えない。たずねてみたいが、口を開ける雰囲気ではない。

 赤坂さんは奥の部屋に運ばれていった。ベッドなどに寝かされているのだろう。


 しかし、このままではこう着状態だ。

「あの……」


「すみません、黙っていてください。いまはとても頭がまわりません」

 先生は湯呑みを粗雑そざつにテーブルに置く。


 あらためてお怒りが解けていないのが確認できた。

 理由は聞いていないが、俺が酔った三田園さんをその場で手籠てごめにしようとしていた、あるいはイタズラをしようとしていた、ふたりとも酔った勢いで屋外で不謹慎な行為に及ぼうとしていた、と勘違いされたのだろうか。んなわけあるか。先生の観察眼があれば余裕でわかるでしょう。それとも、そうした経験のない先生には刺激が強過ぎたから過剰な反応になったのだろうか。どんな確認の仕方をしてもガッツリセクハラだ。


 どちらにしろ、いますぐ誤解を解きたい。これからも仕事で付き合わなくてはいけないのだ。

 いったん出されたお茶を飲む。時計を見ると、深夜1時を過ぎていた。

 さらに10分ほどが経つ。


 もう、もたない。何も言わず撤退しよう。

 弁解は落ち着いてからメールにしよう。

 俺は立ち上がる。

「じゃあ、これで……」


「待ってください!」

 やっと口を聞いてくれた。

 俺は立ち上がったまま、先生の次の言葉を待つ。


 すると、先生は突然、土下座どげざをする。 

「申し訳ありませんでしたっ」

 何かいろいろすっとばされているような気がするが、突然のことに慌ててしまう。

「い、いえ。先生、やめてください」

「私、あんなことを。本当にごめんなさい」

「ですから、大丈夫ですって。誤解も解けたようですし」

「誤解とは?」

「え、わかってなかったんですか?」

 まさか、平手打ちのみを謝罪している?

 驚きとともに深いため息が出た。俺はもう一度座り直す。

 ようやく顛末を話し出せた。

「本当に申し訳ございません」

 先生は聞き終わるや否や、再び頭を下げる。指先をそろえた上品な土下座。

「ユウコがとんだご迷惑を」

 事情がわかったあとでも友人のために謝罪する先生。

「いえいえ、もう、いいんですよ」

「でも、わたし、そういうのを初めて見てしまって、混乱してしまって」

 思い出したのか先生は顔を真っ赤にする。

「ですから、そういうのじゃないんですって……」

「そうでした」

 もう、あれは男女のまぐわい認定されているのか。

「経験がないんです」

 先生が改まった口調で言う。

「人としての好き嫌いと男女のそれと違うのですよね。種類が」

「いきなり、難しいですね……」

「それは、ああした行為が前提にあるからでしょうか」

「だから、違うって言ってますけど」

 ツッコミの口様で言うものの、じつはまだ疑っている、というのもありえる気がした。

「それがわからなければ、恋愛なんて語れませんよね」

 先生は恋愛未経験はハンデではないと言い切ったが、そんなの経験者だってわからないかもしれない。

「研究が、足りませんね」

 意欲的な口ぶりだった。でも、どうしよう。エロ本に手を出しはじめたら。

「やっぱり経験が必要とおっしゃるのかと思いました」

「それは担当さんとの約束です。あくまで考察、洞察です」

 その約束をした覚えはない。一方的な宣戦布告だった様な気がする。

「そうでした」

 俺はあえてそう答える。


 へんなひとだ……。


 緊張が解けてホッとしたのか、俺はなぜか声を出して笑う。

 先生もそれにつられて笑い出した。

 はじめてかもしれない。先生が笑うところを見たのは。


「ともかく、三田園さんのことはお任せしていいんですよね。それじゃ、俺戻りますから……」

 何かを、忘れている気がする。

 膝立ちになったところで、ふと思い出す。


「先生はどうしてここに?」


 ※  ※  ※


 文庫の見本が上がってきた。

「見本」とはいっても、店頭に並ぶ商品とまったく同じものだ。

 以前は、商品になる前に、製本まで手作業(といっても機械を使う)で数十冊程度だけつくっていた。まさしく見本だ。ここで最後のチェックをし終わったら、全部数をオートメーション化された機械で一気につくる。しかし、この工程は現在ではほとんどの商品で省かれている。だから見本ではないのだが、いまだに他の言葉に置き換わらず、見本と呼ばれている。正真正銘の完成品だ。すでに初版はすべてできあがっている。ここでもしなにか間違いが見つかったとしても後の祭り、数日へこむしかない。

 そんなわけで俺は「奥付おくづけ」だけさらっと目を通したら、あとは見ないことにしている。出版社は取次とりつぎという流通業者を使って全国に配本しているが、奥付が間違っていたらアウトだ。初版の発行年を間違えて、全社員が製本所に行って訂正のシールを貼りにいったなんて話を聞いたことがある。大昔のことだ。それ以来、営業部含めたくさんの目でチェックするようになったという。


 うむ。大丈夫だ。


 見本ができたら、まず著者に献本する。著者献本はだいたい10冊。無料で差し上げる。それ以上必要であれば、著者は特別価格で購入できる。だいたい20%引きだ。献本は直接持っていって感謝とともに手渡すこともあるが、最近はほぼない。わざわざ都合を問い合わせて調整しなければならないし、見本から配本まで10日程度しかないから、書店に先に並んでしまうこともあるだろう。だからさっさと宅配便で送る。著者ぶんの発送が済んだら、デザイナーやイラストレーなどの外部スタッフにも献本する。

 見本は営業部にも届いている。こちらは取次に「見本出し」という配本の手続きを行うためだ。大手二社ほか中小三社程度に実際に出来上がった本を持っていって配本する部数の交渉を行う。取次はそれぞれ得意分野や契約している書店が違う。だから取次ごとに交渉して、書籍の特性にあった配本をしてもらう。とはいえ、文庫ともなると、パターンは決まっていて、こちらが希望数を出して、どれだけ近い回答になるかどうかというところだ。最終的には取次の判断になる。過去半年くらいの実績が考慮される。実績というのはもちろん、配本に対する売り上げ、つまり消化率だが、もっと厄介なのは「返本へんぽん」である。


 書籍は売れなければ返品(本なので返本という)できる。特に、取次から配本される多くの本が、実は書店が必要で注文したものではない。勝手に配られたものだ。タンボールを開けて要らない、と思ったら即返本。またトラックに乗せられて出版社の倉庫に返ってくる。なんと無駄なことをしているのだろう、と思うかもしれないが、いまだにこのシステムは変わらない。ちなみに、出版社は予約注文を書店にとりつける営業活動もしている。それは指定配本といって、取次の判断ではなく、確実にその書店に届けられる。とはいえ、それも返本できるのだが。


 こうしたことが電子書籍では起きない。紙という資源も無駄にならないし、昨今問題になっている物流も関係ない。


「文庫って、売れた本を廉価で出してたくさんの読者を獲得するための形態だよね」

 俺は文庫の見本を見ながら、大隈おおすみくんにつぶやく。

「そうですね」

「小さくて持ち運びやすいもんね」

「A6判ですからね。バッグにも入りますよね」

「電車で読んでる人、最近見た?」

「見ないです。みんなスマホです」

「だよね。文庫のアイデンティティってもうないよね?」

「ですよねー」

 小さくて安いだけになった文庫は、最近では単行本で出しても文芸棚で勝ち残れない小説、一般書でも文庫書き下ろしというかたちでオリジナル作品が増えている。昔の様に初版で大部数がつくられることはなく、ただ小さくて安いという媒体になっている。小さいからたくさん並べられるというメリットはあるが。


 そういえば先生が読んでいるラノベはほとんど文庫だな。お小遣いの少ない学生、毎月大量に買う大人、どちらにも優しい価格設定なのだろう。最近は四六版で刊行されるものもあるし、ラノベ作家が一般文芸で賞を取るなど、もうラノベの境界はよくわからないけど。


「あーできたんですね。文庫」

 背後から声がして、文庫の見本から一冊が持っていかれた。

 新田にったさんだ。

「文庫は、もうきついですよねー。新潮文庫と文芸レーベルだけあればいい気がしますね」

 そこまで極端な意見ではないが、うちのような中小はもう撤退したほうがいいかもしれない、というのは同意見だ。文庫の編集長は上杉部長が兼任しているが、いまいちどうしていきたいのかがわからない。

 とはいえ、見本があがった日にそのセリフはないだろう。楠木さんなら、ねぎらってくれる場面だ。

「初版は何部なんです?」

 新田さんがからんでくる。

「6000部です」

「6000! このあいだ僕が出した四六判しろくばん、8000部でしたよ」

 文庫は1000円以下、最近は800円程度になっているがそれでも高いといわれる。いっぽう四六判の一般書は1300〜1600円程度。生産高がぜんぜ違う、と言いたいのだろう。

「見本出しでも前回実績で満数回答にならないみたいです」

「それでも企画がよければとってくれるでしょう。営業部が通常配本しようとした時点で負け確なんですよ」

 最近、ますます俺への当たりがきつくなっている。

 なぜ俺が狙い撃ちなのかといえば、成績下位順なんだろう。

 新田さんは文庫を投げる様に戻して去っていった。


「きついですね」

 大隈君が言う。彼はいまは別の編集部だが、元々同じ編集部にいた。異動したあとも、ときどきこっちの話を聞いてもらっている。

「俺もそっちに行きたいよ」

 もう一つの編集部は部長が兼任している。部長はいろいろ兼任するのが仕事のような人だ。ちなみに両編集部はどちらも一般書を扱っていて、なぜ二つに分かれているのかはわからない。ただ人数的な問題かもしれなかった。しかし、部署が変わったからといって、自分のすべきことは変わらない。


 もう、転職でもしようかな。

 今年に入って何度も頭をよぎる考え。

 本は読むものであって、つくるものじゃないかも。本、嫌いになっちゃうかも。

 仕事にさえしなきゃ、いやな記憶が付与されることもなかったろうに。


「あら、装丁、いい感じに仕上がったじゃない」

 今度は楠木くすのきさんが通りかかった。肩にバッグを下げ、腕に脱いだジャケットをかけている。

 今日は少し暑かったから、途中だ脱いだのだろう。

「ありがとうございます。でも、6000部だそうです」

「それは編集長に言って」

 楠木さんはいたずらっぽく笑う。文庫の編集長とは上杉部長のことだ。

「ところで、上半期はあと1冊だけでしょう? 少し新田さんが抱え過ぎているので、ヘルプにはいってほしいのだけれど」

「えっ」

 まるで警報が鳴ったようだった。

「補助なら宇佐美うさみさんでもと思ったのだけれど。勉強にもなるだろうし。でも、相性が悪そうなのよね」

 自分も相性最悪なんですけど。それでも、断ることができない。理由がない。

長谷川はせがわさんなら、特に指示出ししなくても引き継いじゃえば安心できるのよね。スケジュール管理とかはうちのなかで一番だし」

 こんなところで褒められてもまったく嬉しくない。

「新田さんも長谷川さんの丁寧な部分は褒めてたわよ」

 嘘だ。信じられるわけがない。きっと楠木さん用のセリフだろう。

「そうですか……」

 楠木さんは、俺の自尊心を守ってくれている。ヘルプに入れというが、事実上ヘルプされているのは俺だ。

「来週一度、時間をつくって引き継いでくれる? 私も同席するわ」

「わかりました」


「あと、それから。神保町交差点で、ライターの熊谷くまがいさんに会ったわ」

「ほんとですか」

 〈クマさん〉は『業界紙の歩き方』を一緒に企画からつくったライターだ。著者としてクレジットされている。ふだんは雑誌やWebに記事を書くのが主だが、ほかの出版社でもサブカルちっくな書籍を2、3冊出していた。俺はそのうちの一冊が好きで連絡をとって、本を出すことになった。3年前前の話だ。

「ひさしぶりでしょ。連絡とってみたら?」

「そうですね」

 ちょっと躊躇ちゅうちょした。売れなかった本だし、嗜好がマニアックで、企画につながるかわからない。逆にそういった企画の提案を受けたら断らないといけないかもしれない。そうなると気が重い。

「また、余計よけいなことを考えているわね。考えないで動いて。ゴーゴゴー!」

 なんでもお見通しだ。

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