001 編集者
更新頻度はゆっくりになると思います。
幸せとは、愛とは、人生とは――。
それについて誰もが納得する定義を語れる人がいるんだろうか。
こう言ったらなんだけど、人それぞれ。
十人十色。
千差万別。
多種多様。
あるわけない。
だから、自己啓発本の8割は確認作業なんじゃないかと思う。自分が思っていたこと、薄々感じていたこと。それを言語化して、お墨付きを与えてくれる。だから、やっぱりそうかーってなって、明日からの活力になる。
言っちゃ悪いけど、出来レース?予定調和?
そう考えていたから、まるで興味がない。ベストセラーと言われるものは少しは読んだけれど、いいこと言うね、と思いつつ、感動したり、感化されるようなことはなかった。
よし、仕事としてはこのジャンルは捨てよう。向いてない。
俺は一般書籍の編集者。
迷える読者の背中を押すどころか、自分が迷い続けている。
※ ※ ※
「お先でーす」
「あ、おつかれさまです」
午後8時、社内に残っているのは俺と、別のシマの誰か。あとは部長か。
気づいていたらずいぶんいなくなっているな。さっきみたいにちゃんと挨拶して帰る人はあまりいないからかもしれない。
「おつかれさま」は目上の人物が使う言葉だと教わったが、結局、その正しさはあまり世間では関係ない。出版社は言葉を扱う仕事だから、とくに気をつけろと新入社員のときによく言われたものだが。
だいたい、この時間に残っているメンバーはいつもだいたい同じだ。入稿や校了が控えていなければ、編集者は外に出かけていることが多い。著者に会っていたり、著者になりそうな人に会っていたり、その他面白そうな人、仕事につながりそうな人と会いに行く。仕事につながりそうといえば、可能性がゼロじゃないまでいれれば極端な話、この世の人ぜんぶだ。
極端な言い方をすると、総理大臣から犯罪者まで仕事相手なのである。
「よう、最近、遅いな」
上杉部長が話しかけてきた。
髭面の50代。ちょいちょいオヤジギャグがでる立派な中年だ。
午後8時では遅くはない。この業界は朝が遅く、時間感覚もデタラメだ。それに、この時間、部長は飲みに行っていることが多いので、そんな言い方になるのだろう。
「はい、ちょっと……」
たぶん、なんで遅いんだって聞いているんだろうけど、一口には答えずらい。いま俺は進行中の企画は、ふたつしかない。退職者から引き継いだ企画と、文庫版の仕事だけだ。
要するに忙しくない。
「明日でもオッケーなら、ちょっと一杯行きませんか」
やつぱりそうなるか。嫌ではないけど、それほど話したいこともないので、いつも適当な理由で断っている。2回ぐらい断ると、もう誘われなくなるらしいが、ただ、あいにく、一、二度おつきあいしてしまっている。
(別にいいか。仕事にはなってないし。用事もないし。奢ってくれるし)
「いいですね。ありがとうございます」
部長のお気に入りは、会社からすぐ出たところにある居酒屋だ。あまりに定番のいきつけなのと、会社から近すぎるのでほかの社員は利用しない。
お通しは切り干し大根、ビールと枝豆を注文した。
「長谷川さんは、魯肉飯?」
「あ、はい。すみみません」
飲むよりも先にがっつり食べておきたくて、前回そうしたのを覚えていたらしい。ちょうどよかった。
「最近、忙しいの?」
乾杯が済んだら、いきなり言ってきた。わかってて言ってるのがわかってしまう。いくら部長がぼーっとした人だって、刊行予定表を見てるんだからわかるだろう。俺の予定。そもそもその目標管理するのがこの人の仕事だ。
「いえ、企画がなかなか通らなくって」
「そう」
部長はそれ以上は仕事の話はせず、共通の話題であるサッカーの話をして、少しだけ自分の子どもの話をして、あとは最近の興味について聞いてきた。
「最近、あまりインプットができてないんですよ。時間がないからじゃなく、のめりこめないというか、編集者としてはダメなんでしょうけど」
関係なかったのに仕事の話に自分で戻してしまった。
「ふーん。仕事のこと考えすぎなんじゃない?」
部長はハイボールを飲みながら、さも大したことないように言う。
「いや、でも焦りますよ……」
「それなら、もう少し人に会ったほうがいいよ。ネットをチェックするだけじゃなくて」
「最低でも部内で通った企画を持っていかないと著者に会えないですよ」
「そうじゃない人もいるよ。著作読んで、企画の相談したいからっていうのでも。あと、著作なくても面白い研究している人とか」
俺が所属しているのは編集部のなかでも一般書チームと呼ばれている。だいたい専門の出版社でなければ、一般書、ビジネス書、実用書、児童書、学参、アート、文芸、コミックなどとジャンルごとに編集部が分かれている。どこでも全部あるわけじゃなく、児童書以降は独自性が高いので小さなところが複数ジャンルをやっていることはない。中堅から大きなところならさらに文庫や新書の定期媒体の編集部をもっていることがある。一般書というのは学術書や専門書の反対語のようなもので、要するに独立している部署がなければ、ほとんどの本を取り扱っているもっとも広義な分類だ。
だからなんでも興味持って、引き出しを多くもっておくのが一番企画に直結するともいえる。
とはいえ……。
「知名度が」
思わず口走ってしまった。要するに売れていない人。実績のない人にあたるということだ。
「ああ、楠木さんから聞いてるよ。そんなに固執しなくてもいいんじゃない。そう言われたんでしょ?」
やっぱり話は通っているのか。楠木さんは一般書籍の編集長で、バリキャリみたいな女性だが、とても優しく嫌味のない人だ。先日の企画会議で「著者が有名どころばかり」「売れっ子だから著書も多いのに差別化できてない。そもそも売れっ子は実現性が一番であって、口約束でも内諾がないなら、企画として意味がない」と、編集部内で総ツッコミを受けていた俺をいつもフォローしてくれる。
ただ、さすがの楠木さんも言葉を濁す。
「当たってみろ、とは言ってあげたいのだけれど」
だけど、前期はそれこそ新人、実績なしの企画でほぼボツになっていた。
著者が強いと編集部も営業部も企画は通りやすい。数字が計算できるから。正直に言って、ほかの編集部員の出した平凡な企画でも、著者ゆえに通っていると思うものがある。自分が面白いものが売れるなんてエゴだし、市場のニーズに答えるのが仕事だろう。
で、それが自分にはうまくできていないと、入社2年目でわかってしまった。
それでも、29歳。前職は出版とはまったく関係のない業界。3年勤めて「社会人」を経験したら、将来を考えはじめてしまって、このままでいいのかわからなくなって辞めた。
もともと本は好きで、子どもの頃から本にまつわる仕事がしたいと思ってはいたものの、いざ大学で就活をはじめると、その道がイバラの道であることを伝え知り、また、インターネット企業のベンチャー的な華やかさを知り、怖気付いた自分は、どちらも選ばなかった。
そのあと上杉部長は食い物の話と酒の話をして、家が遠いからと10時ちょっと過ぎにはお開きになった。