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ルンルンとご機嫌に屋敷へと向かう足取りはとても軽い。
「私が持ちますよ」
「良いのよ。この香りを嗅ぎながら帰るから」
嬉しそうに顔を綻ばせて胸一杯に美味しそうな香りを吸い込む。
「早く食べたいわね」
「やはりお腹が空いてたのですね。私が作りますから、それを食べて下さい」
「貴方も一緒に食べるのよ? もう忘れたのかしら。鶏の方が、まだマシな記憶力をしていると思うわ」
侮蔑の表情を浮かべて話せば、顔を嬉しそうに綻ばすのだ。
わざと忘れたフリをしたのか本心からの言葉だったのかは分からないが不快である事に変わりはない。
「ケインと」
この期に及んで、この発言である。無視を決め込み先を急いだ。絶品のクロワッサンを食べる事の方が余程、大事である。未来の夫の機嫌取りなど二の次だ。
どんどん先に進んで行く女王様と少し距離が空いてしまった。後ろ姿ですら美しく堪らない気持ちになる。この人に冷たくされても罵られても只々、気持ちが高揚してしまい顔を取り繕う事が出来ないのだ。
私は幼い頃から優秀で3人兄弟の中でも1番に覚えが良く両親からも褒められて育ってきた。自分で言うのもおこがましいが見た目も良い。初めて会った令嬢に好意を持たれる事は多く子爵という位だった為に、家格が上の方から半ば強引に迫られる事もあった。成り上がりの新興貴族というのも、それに拍車を掛けただろう。
しかし、胸を揺さぶられる様な気持ちになる事は1度も無かったのである。優しく微笑み耳障りの良い言葉を言っておけば何の問題も無かった。
また自分を限界まで追い詰める癖のせいで魔法も剣も、めきめき上達していった。商会の仕事を任せられる様になれば文字通り倒れる寸前まで働き社交の場には出なくなったのだが代わりに店に令嬢が通い詰める様になっていたのである。
勿論、私目当てだ。モテる男は辛い。
そんな私が一目惚れをしたのだ。女王様に。
この方と結婚出来るなんて私は神様に愛されているのだろうか。いや、女王様が愛されているのか。
私の恵まれた見た目に加えて、この有能さ。女王様に仕える為に産まれたと思って間違いない。ここで私は女王様の為に生きて行く運命だったのだろう。そう、この結婚は神に定められた運命。
きっと将来的には相思相愛の関係になるに違いない。
「あぁ、そうなれば死んでも良い」
何やら背後から不穏な言葉が聞こえてチラリと視線を送る。ただニヤついていた。見なきゃ良かったと後悔する。もう少しで屋敷だ。やっとクロワッサンが食べられる。自然と口角は上がり気分も上向く。
開けられない。両手がクロワッサンが入った紙袋で埋まっているのだ。
「お任せ下さい」
スッと後ろから前に出て直ぐに開けてくれた。
「有難う」
「はい」
頬を染め、とても嬉しそうな顔が可愛い。お礼を言われただけなのに、この態度。どれ程、自分はケインに好かれているのか。
「そんなに私が好きなの?」
「えぇとても好きです。愛しております。貴女になら何をされても構いません。強いて言えば、もっと痛めつけて頂きたいです」
キラキラと目を輝かせて見つめられた。何もしないよ? 両手、塞がっているし。プイと顔を背けて自室に向かう。
歩きながら熱る頬を冷ます。熱烈な言葉が頭の中を行ったり来たりして中々冷めない。ケインの癖に。ケインの癖に。
また扉を開けられないでいると後ろから手が伸びてきて開けられた。背中にケインの体温を感じて鼓動が早まる。
「あ、有難う」
顔を見ない様にしながら中に入ってソファに座るとケインが紙袋をテーブルに置いてくれた。
「紅茶を淹れますね」
「メイドにやって貰うから大丈夫よ?」
「私が用意します。私が淹れた紅茶を飲んで下さい」
押しが強い。
「わ、分かったわ。有難う」
「はい」
やはり嬉しそうに頬を染める。視線を外してクロワッサンを1つ手に取り口に運んだ。
サクサクとした食感に香ばしい香りが広がる。程好い甘さが素晴らしい。
「幸せだわ」
「私、パン屋に弟子入りしてきます」
急に立ち上がったと思ったら謎の宣言である。
「え? 何? どうして?」
バターンと扉が開いて父が入ってきた。相変わらずノック無しである。
「パーティーに呼ばれたぞーー。公爵家主催だ」
「え?」
何故? 公爵家? 滅多に交流等しないのに。
「どうしたのでしょう。関わりなどありませんのに」
「それは、お前ほら! お祝いだよ!」
父は嬉しそうにはしゃいでいる。
「お! このクロワッサン美味しいから、こっち貰ってくぞ」
勝手に一袋抱えると出て行ってしまった。
「私が買ったのに...」
しょんぼりしながら、また1つ取り食べる。美味しい。最高である。
「ごしゅ...ナナリー」
「何?」
「ドレスを見せて下さい」
「良いわよ。そこ開いて勝手に見てて」
もしゃもしゃとクロワッサンを無心で食べ続ける。至福の時間だ。
勝手に見て良いと言われた為に遠慮なく扉を開ける。少ない。全部で3着だ。しかも全部地味である。いや、清楚なデザインだ。
「私が新しいドレスを作ります!」
「貴方、作れるの?」
「ケインと。勿論です。作れます」
ドンと胸を叩いて誇らしげである。
やはり女王様に相応しい物にしよう。黒と赤の2色で作り、妖艶な雰囲気を醸し出す物が良い。コルセットいらずなスタイルの良さを目立たせる造りにしよう。
布が見たい。美しく、丈夫で軽い物が良いな。魔物の皮を使っても良いかもしれない。
「少し魔物狩りに行って参ります」
バタンと扉を勢いよく開けて返事も待たずに出て行ってしまった。
クロワッサン最高である。ケインが淹れてくれた紅茶と相性も抜群で手が止まらない。
馬に跨り森を目指す。森の入り口に馬を繋いで中に入る。
ギャーギャーと騒がしい鳴き声と共に目の前に現れたのは美しい黒い羽の大きな鷲の様な魔物だ。この羽を使えば美しいドレスになる。
「素晴らしい物が出来そうです」
剣を抜き対峙する。早くドレスを作りたい一心で斬り掛かる。首を切り落とした。一刀両断である。
鼻歌まじりに羽を抜く作業に没頭するケイン。血が掛かっていない綺麗な所が多くて嬉しくなる。神様が綺麗なドレスを女王様に着せたいと思っているのだろう。
大量の羽を袋に詰めて森から出る。
また馬に跨り屋敷へと急いだ。早くドレス造りに掛かりたいのである。
赤い綺麗な布に黒い羽を使う。良い。想像しただけで良く似合う。
ドレスのデザインを考えながら走らせていると、あっという間に帰って来れた。羽が入った袋を担いで屋敷に入る。女王様の部屋の前まで行きノックをして返事を待った。
「どうぞ」
扉を開けて中に入れば炎の玉をガラスコップの中に投げ入れる練習をする女王様と目が合った。
「お疲れ様。早かったのね?」
「早くドレス製作を始めたかったので」
ボシュッボシュッと水が入ったコップの中に次々と炎が消えて行く。狙いが正確だ。
頭に思い描いているデザインを紙に落とし込む。
「貴方、絵も上手なのね」
「ケインと」
「...ケイン」
少しだけ覗いた後、直ぐに離れてまたコップ目掛けて炎の玉を入れる女王様。
ボシュッという音を聞きながらドレスのデザイン画を描いていく。動き易いように肩から先は布を使わない方が良いかもしれない。寒いならショールを羽織って貰えば良い。