1.身投げ
ずっとずっと、怯えていた。
わたしの家は子爵家で男の子が生まれなかったから、なにかにつけて父に叱られた。勉強でミスをしたら怒鳴られて、食事中のマナーで背中を叩かれた。
後になって思えば、たぶん、爵位を継ぐのは男の子じゃないとダメだから、男の子が生まれなくて焦ってたんだと思う。だって母とよくケンカもしていたから。
親戚から男の子を養子に迎え入れることも出来たらしいけど、なんのこだわりなのか、父は自分の子どもがよいと主張していた。
そのときわたしは小さくて、全部自分のせいだって思っていた。両親がケンカするのも、母が家を出て行ったのも、父が知らない女性と再婚したのも、女性が連れてきたイザペンドラという女の子が意地悪だったのも、全部全部全部自分のせいだと思っていた。
ゴルドハイツ様という婚約者が出来た。
貴族ではないけれど、商家の息子。
お金持ちで、優しいひと。
王子様だと思った。
30歳を超えているから老けてるよねと彼は笑うけれど、年齢なんて関係ない。
彼が婚約者で幸せだと思った。
盲目的な恋をした。
オシャレや勉強も一層頑張ったけれど、彼はなぜかいい顔をしない。どうして? ごめんなさい。許してください。そう言って謝れば、彼は優しい声で「いいよ。でももう、勉強はしなくていい」と言われた。わたしは「どうして?」と思ったけど、彼の歪んだ感情に、このとき気付けなかった。「勉強できますアピールだと彼を傷つけるのかな」と思って、勉強をやめた。でも、将来彼との間に男の子が生まれたらその子に爵位がうつるから、勉強をしないと父と義母に怒られる。だから、彼の前ではバカのフリをした。
でも、彼は────義妹と手を繋ぎ、情熱的なキスをして、一晩を明かした。体裁的には困るけど、彼の家から多額の援助をしてもらっている両親は、不貞をもみ消した。最悪、わたしと彼との間に子どもさえ出来れば、本人同士の感情などどうでもよいと思っているのだと気付いた。
ゴルドハイツ様はわたしのもとに来るなり「ごめんね」と謝ってくれた。気の迷いだった。義妹が泣いていたから慰めていただけで、場の勢いだったと。邪な感情なんてないと言ってくれた。
わたしは納得したけれど、ちょうど近くにいたイサペンドラが勝ち誇ったような顔をしていたような気がして、どうしても気になった。
『ゴルドハイツ様はお優しかったわ』
彼が帰った後に、イサペンドラはわたしにそう話しかけた。こんな事を話して、こんな言葉で慰めを受けて、こんな風にキスをした。
あまりにも生々しい言葉に、顔をしかめる。イサペンドラはそんなわたしの表情すら楽しんでるような雰囲気だったけれど、当時のわたしは言い返す事は出来ずに、ただ「そうだったんだね」と言う事しか出来なかった。
わたしは彼に恋をしている。
両親も結婚を勧めてくれている。
イサペンドラも、結婚を祝福してくれている……と思う。
このままいけば、わたしは何にも考えずに、ただ両親に言われるがまま彼と結婚を進めていたのだろう。
ゴルドハイツ様は好青年の皮を被った浮気癖が強い男性で、わたしのような物静かで従順な女性が一番の好みであることも。
イサペンドラが自らの意思でゴルドハイツ様の愛人になり、体を重ねることで欲しい装飾品を手にしていたことも。
何にも知らずに、お人形さんのようなイイ子として、ゴルドハイツ様の奥さんになっていたのだろう。
そういう結末にならなかったのは、わたしが頷くだけの人形にならなかったから。
誰もわたしの味方はいない。
なら、来世に期待しよう。
きっと……来世は幸せな生活を送ることが出来る。
数十メートル眼下にある冷たい滝壺に向かって、わたしは身を投げた。