第三十二話 荊州奪還の為の布石
尚香が建業へ戻ってからまもなく、劉備が益州を得たと言う情報が入ってきた。
「劉備が蜀を得る事は予想通りではあるが、随分と早いな。もう少し手間取ると思っていたのだが」
孫権は魯粛に向かって尋ねる。
「ワシもそう思っておったのじゃが、劉璋のヤツめは最終的には戦わずに本拠地である成都を明け渡したそうじゃ」
魯粛は書状を見ながら答える。
「戦わずに城を? 成都と言えばあの野心家であった劉焉が定めた本拠点。守る兵力は十分にあったはず。まだまだ戦えたのではないか?」
文官なのに血の気の多い張昭が、不思議そうに言う。
「蜀は豊かな土地じゃし、戦う意思さえあればいくらでも戦う事は出来たじゃろうのう」
「つまり、そのつもりが無かったと言う事か?」
孫権が張昭と同じ様に不思議そうに尋ねると、魯粛は大きく頷く。
「劉璋の臣下はある意味では二派に分かれておってのう。ざっくり言えば野心家の劉焉が集めた武闘派と、今の劉璋の方針に賛同する、と言うより戦わずに楽していたい穏健派じゃな。その二派にとって、不思議な事に劉備は双方の魅力を持った人物なのじゃ」
「いやいや、戦う事と戦わない事を両立する事は出来ないだろう。まして劉備は漢の再興を掲げているのだから、劉焉の企みとさえも真逆ではないか」
張昭が魯粛に言うが、魯粛はそれに対して首を振る。
「一見するとそう見えるじゃろうが、実際に劉備が行っている事は現在の漢の象徴とも言える曹操と戦っているのじゃぞ? 漢の為と言いながら漢を打倒しようとしているのじゃから、劉焉配下だった武闘派にとっては望むところ。一方の穏健派にとっては戦う気満々の劉備とその一派には嫌気が差している事じゃろうが、そこはあの詭弁家諸葛亮の本領発揮じゃな。何しろ今の官職を維持しながら、その能力を発揮できる場所を与えられると、少なくとも口先だけでは約束してもらっておるのじゃからのう。劉璋を捨てて、諸手を挙げて劉備を歓迎するはずじゃわい。その上で、降伏の使者には馬超ときたモンじゃ」
「馬超? あの曹操を追い詰めたと言う猛将か。劉備に降ったのか?」
「らしいのう。ワシなら頼まれても手元に置きたいとは思わんが、劉備や孔明は扱える自信があるようじゃの」
「天下無双の猛将だろ? 俺でも欲しいと思うが」
「いや、馬超は言うなら平時でも酔っ払っておる甘寧の様なモノじゃからのう。いくら戦が強くとも面倒事を抱え込む様なモノじゃぞ?」
「……それはイヤだなぁ」
孫権は面識も無いのに馬超には近づきたくないと思ったらしく、あからさまに表情が曇る。
「さて、劉備が蜀を得たのじゃから、荊州を返せと言えるのう。さっそく行ってくるわい」
「待て、魯粛。お前にはちょいと話がある。ここは、そうだな、諸葛瑾が良い。行ってくれるか?」
「私ですか? 大変申し上げにくい事ですが、やはり適任は大都督であると私も思うのですが」
「先に言った通り、大都督にはちと話があるのだ。幸いな事にあの詭弁家はお主の弟。少なくともこの場にいる者達の中でもお主の言葉であれば耳を傾けるだろう」
「かしこまりました。ですが、これも申し上げにくい事なのですが、必ずしもご主君のご期待に応えられるとお約束する事は出来ません」
諸葛瑾は正直に孫権に向かって言う。
何しろ相手はあの諸葛亮である。
綺麗事を好みそれを口にするものの、その実そんなモノは毛ほどの価値も見出していない恐ろしいまでの実利主義者なので、場合によっては兄弟や親族であっても簡単に切り捨てる事は予想出来た。
「それについては一つ策がある」
尚香の時に続いて留守居役を命じられた魯粛が、諸葛瑾に言う。
「是非とも教えていただければ」
「これより主君にお主の家族全員に罪状を被せて捕らえてもらう。もちろん策なのじゃから丁重に扱う事は約束しよう。じゃが、諸葛亮と劉備には今回の使命で結果が出せなければ家族の命が危ういと、とにかく情に訴えるのじゃ。道理や忠道、約束事など一切説明する必要も、諸葛亮を論破する必要も試みる事さえ不要。ただただ情にのみ訴えよ。それがもっとも効果があるじゃろう」
劉備と諸葛亮は、圧倒的なまでに理不尽の極みで我を通す為であれば何でも利用するところが目に付くが、そんな中でも人の情の部分には意外なほど譲歩するところがある。
と言っても針の穴ほどの望みでしか無いのだが、情の部分こそ劉備にとって最大の魅力である為、その部分だけは蔑ろに出来ないのだろう。
「とは言え、もしお主がこれ以上は無理だと判断したのなら、それ以上に粘る必要は無い。表立っては行動出来ないにしても、あの者達であれば荊州を返すと約束し、その書状を持たせた帰路で暗殺するくらいの事はやりかねんからのう」
魯粛が言う事に対し、諸葛瑾は否定しなかった。
言葉だけなら弟がそんな事をするはずがないと言えるのだが、実際に口にしなくともそれを匂わせて別の者に実行させる様な非道であっても、行わないとは断言出来ないのである。
「とは言え、十中八九はそこまでの非道無道はやらんじゃろう。劉備達としてはワシら孫権軍は上手に操って対曹操の為のコマとしておきたいじゃろうからの」
こうして蜀への使者となった諸葛瑾は、旅支度を整えると数日後には出発した。
「時に魯粛、体調はどうだ?」
孫権は魯粛を呼び出して尋ねる。
「何じゃ? 見ての通りじゃぞ?」
「見ての通り、か。ならば、今すぐ職を解いて自宅にて療養を命じねばならないな」
孫権の言葉に、魯粛は眉を寄せる。
「華佗か?」
「見ての通りと言ったのはお前だぞ? 俺の目にはお前が重病人に見えただけだが、華佗の名前が出たところを見ると本当に重病人らしいな」
孫権の言葉に、魯粛は引っ掛けられた事に気付く。
そうじゃったな。こやつは孫策と違って、人を見て扱う事に長けておる油断ならぬヤツじゃった。
「ワシとした事が一本取られたようじゃの。確かに華佗の見立てではワシにはさほど時間は残されておらんらしい。仮に職を辞して療養しても三年だそうじゃ。ならば、その無為な時間より短くなろうとも『魯粛』として生きようと思ってのう。荊州は言うなればワシの蒔いた種じゃ。せめてその責任は果たしたいところじゃったが、それも中途半端になりそうじゃのう」
孫権の表情は険しいが、話している魯粛本人にはそこまでの悲壮感は無かった。
「言いたくはないが、言わない訳にはいかないだろう。後任は誰が良いと思う?」
「前にも言ったが、まずは厳畯に話を振るが良いじゃろう。あやつには確かな能力があり、分別もある。おそらくは軍事経験の無さから大都督は務まらないと、改めて断ってくるじゃろう。、その上で、後任には呂蒙を推す。その手順を踏めば、今後大都督に対する人事に余計な口出しをする者もおらんはずじゃ」
「呂蒙、か。大都督の重責が務まるか?」
「呉下の阿蒙にあらず、じゃ。あの周公瑾の副将とて誰にでも務まる役職ではなかったのじゃが、呂蒙は見事にその任を果たした。あの周公瑾の誰よりも近くで軍略を学んだ男じゃぞ? もし他に誰か候補がいたとしても、ワシは呂蒙を推すじゃろうの」
もう一つ、魯粛には呂蒙を推す理由があった。
孫権軍では、生まれを重要視しないと言うのを知らしめたかったのである。
何しろ軍部の中核をなしているのは川族出身者が多い。下手な名門意識など必要ないどころか、害悪とすら言える。
能力で言うのであれば、いずれ名門出身の陸遜辺りが呂蒙の次の大都督になりそうだと魯粛は予想するが、名門と言われる出自ではなく後ろ盾も無い魯粛や呂蒙ですら大都督にまで出世出来ると言う実績を作る事が、今後の孫権軍にとっても有用だと言う事もあった。
また、孫権に言った通り、あの周喩の傍で軍略を学んだと言う事も大きいが、それ以上に呂蒙は武将としても参謀としても叩き上げで今の地位に就いたと言う極めて異例の存在であり、それによる人望も厚い。
末端の経験と言う点で言うのなら、それは魯粛や周喩にすら無かった視点を呂蒙は持っている。
その事からくる信頼は、おそらく魯粛すら上回る呂蒙の利点だろう。
「そうか、呂蒙はそれほぞ優れた武将に育ったか」
「思い返せば、お主の一言が無ければ呂蒙はおそらくただの腕白な武将の一人止まりであったじゃろうの。言うなれば張飛の劣化版程度だったはず。よう呂蒙の才能を見抜いたものよ」
「完全に見抜いていた訳ではないさ。ただ、呂蒙と話をしていると妙に要点を捉えるのが上手いと言うか、理解が早いと言うところがあったからな。ただの脳筋なら書を読む様に命じたとしても、おそらく表面をなぞる程度の事しかしなかっただろうが、呂蒙は言われた通りに読み込んでいた。変に素直なところもあったからこそ、あの潜在能力が開花しただけで、俺の功績とは言えないだろう」
孫権にしては謙遜している言い方ではあるが、呂蒙は孫策の代からの家臣ではあるものの孫権との接点はさほど多かったとは言えない。
それでも呂蒙の長所に気付いて、一言でそれを伸ばす事が出来たのは孫権だからこそだっただろう。
孫策が遺言として『人を用いる事にかけては孫権の方が上だ』と言ったのも、ただ新しい主君となる孫権を持ち上げてみせたと言う訳ではなく、孫策は正しく孫権を評価していたと言うのも今なら実感として理解出来た。
「それで、荊州だが劉備は約束通り返すと思うか?」
「思わん。間違いなく難癖をつけて手元に残すじゃろう。子瑜には面倒な事を押し付けてしまったわい」
「お前が適任だっただろうが、具体的にお前だったらどうやって取り返すつもりだったんだ?」
「言ったじゃろう? 奴らは何があっても荊州を手放すつもりは無い。が、実際には荊州北部さえ押さえておけば曹操との戦での利は確保出来るのじゃから、南部であれば向こうから切り取って来る事は考えられる。子瑜であれば兄弟の情に訴えるのが一番じゃったが、ワシなら軍を動かすと脅すじゃろうの。間違いなく諸葛亮は合肥で破れた孫権軍が蜀を落とした我々に勝てると思うのか、と挑発してくるじゃろうが、実際に戦いたくないと思っておるのは向こうじゃからのう。お互いになんやかんや文句を付け合って、それなら荊州南部の四郡をそちらにお返しするので、とか何とか言うて解決を先延ばしにしてくるじゃろう。実際にワシらとて劉備と本気でやり合う余力がある訳ではないのじゃから、そこが落としどころと納得する他無し、と言う訳じゃな」
「やられっぱなしは気に食わんな」
「案ずるな。ワシは商人じゃぞ? 貸したモノは返してもらうし、何なら利子を付けて返してもらう。問題があるとすれば、時間だけじゃな」
「……一番の問題だな」
「まぁ、次の手は子瑜が戻り次第、と言ったところじゃ」
大幅カットしました
当初の予定では、ここから劉備の蜀攻略戦を書くつもりだったのですが、その部分はまるっとカットしました。
PCの挙動が怪しく、今後いつ本格的に動かなくなるかわからないと言うのもありますが、一番の理由は『魯粛伝』とはまったく関係無い部分になるからです。
合肥でも魯粛の出番は無かったですが、これはあくまでも孫権軍の戦だったので(それでも二つの戦を一つにして短くして)書きましたが、蜀攻略となるといよいよ魯粛どころか孫権軍の戦ですらなくなるので割愛する事にしました。
本当は龐統とか黄忠とか魏延とか書きたかったのですが、あくまでも『魯粛伝』ですので、こう言う形になりました。
官渡とかも書いてないし、しょうがないよね。
龐統、もうちょっと書きたかったですけどね。