第三十一話 孫尚香と劉禅
荊州奪取の障害となる孫権の妹、孫尚香だが基本的にはワガママで傍若無人な態度が目に付くのだが、その実素直で義母思いなところもあるは、身内に限らず知れ渡っている。
その為、義母が病を得たと伝えればすぐにでも帰ってくるだろうと言う事で、その策を進める事になった。
義母である呉国太の年齢も年齢なので、まったくの虚報と言う訳でもない。
この時の荊州は劉備が益州攻めに出た事から手薄かと思われていたのだが、諸葛亮や関羽、張飛、趙雲といった面子が残っており、益州には新たに得た戦力で攻略に望んでいた。
そんな荊州に誰が使者として向かうかと言う話になったのだが、
「そこはワシが最適じゃろう」
と、魯粛が名乗りを上げる。
「却下だな」
が、孫権に一蹴される。
「何故に?」
「何故に、じゃねえよ。大都督が率先してやる事じゃないって言ってんだよ。お前が最適である事は認めるが、ここは別の者に譲れ」
残念ながら孫権の言葉の方がもっともな話であり、ほぼ満場一致で魯粛が使者として荊州に赴く事は却下された。
「……そうだ、周善がいたな」
「誰じゃ、そりゃ。そんなヤツおったか?」
「まあ、官吏と言うより尚香の幼馴染と言うか、イラついた時にボコられ役と言うか、そう言うヤツだ」
「どう言うヤツじゃ」
魯粛は首を傾げたが、孫権、孫尚香、呉国太とも面識があり、並外れた胆力とそれなりの弁舌の才、孫尚香に嫌でも鍛えられる武勇なども身に付けていると言う。
「ワシが適任じゃと思うがのぅ」
魯粛は粘ったのだが、結局使者は周善と言う事で決定した。
その周善が荊州に向けて出発しようとした時、諸葛亮が荊州を離れたと言う情報が入ってきた。
「孔明がおらんと? では尚の事、ワシが……」
「しつこいぞ、魯粛。孔明がいなければ、お前いらないだろ。周善に任せれば大丈夫だ」
勝手に船に乗り込もうとする魯粛を羽交い締めにして、孫権は周善を送り出す。
「しかし、妙なところで孔明が呼ばれたな。子敬、何かあったのか?」
「龐統が死んだらしい」
「ほう……? ああ、あの身の程知らずか。死んで当然ではあるが、切れ者だったのだろう?」
「うむ、どうやら無理筋を無理筋で塗り潰す事で、劉備の看板を強化したみたいじゃの。龐統はアレで名の通りも悪くないからのう。アレは切れ者じゃから、自分の首の価値を知っておると言う訳じゃ」
「なるほど、荊州もこの手に戻りそうだな」
「いや、そう簡単にはいかんじゃろうな」
諸葛亮が荊州を離れた事を知って孫権はそう言ったが、魯粛の考えは違っていた。
今の劉備軍にとっての荊州は守備拠点であり、多くの将軍や軍師を必要としていない。
極端に言えば、極大の重し、例えば関羽辺りを荊州に残しておけば益州を掌握するまでの時間を十分に稼ぐ事は出来る。
それを急ぐ為の孔明だと言う事は読めている。
そう、読め過ぎている。
あの諸葛亮が、こちらに意図を掴ませるとは思えない事から、誘いをかけてきているのだろう。
孫尚香の存在は、荊州を孫権軍から守る盾としての役割だけでなく、劉備夫人を建業に帰らせると言う手も、劉備に対する夫人の不義として建業を攻める為の布石にも使える矛の役割すらある。
まったく、今なら公瑾も寿命を削って戦っておったと分かるわい。諸葛亮孔明、敵としても味方としても手を出すべきでは無かったかも知れんのう。
魯粛は孫権に羽交い締めにされた状態でそんな事を考えながら、周善を見送った。
「え? お義母ちゃん、病気?」
荊州に着いて周善はすぐに尚香の元へ向かい、その事を伝えた。
荊州の雰囲気はモノモノしく、まるで出兵前である。
だが、そのお陰もあって周善は戦に関係の無い尚香の元へすんなりと行く事も出来た。
劉備軍も軍備の状況を把握される方が嫌なのだろう、と周善は判断した。
「で、お義母ちゃんの病気ってどんな感じ? ヒドいの?」
普段は腕力と暴力で問題を解決させる事が多い尚香だが、病気ではそのどちらも通用しない事を知っている。
その上、敬愛する義母の事と言うのもあって、本気で心配していた。
「今はご無事です。ですが、年齢の事もありますので、今後も同じ様に安心とは言えず」
「そっか。そうよね。お義母ちゃんもいい歳なんだし、心配よね」
値が単純な尚香は、幼い頃から顔なじみである周善の言葉と言う事もあって、すんなりとそれを信じ込んだ。
もっともこの頃。呉国太は本当に風邪を引いていた事もあって、周善に嘘をつかせる必要が無かった事は大きい。
「そう言う事なら、お義母ちゃんのところに帰るって一言言っておかないと。孔明……はいないから、この場合は雲長さんかな? ちょっと言ってくるね」
「お、お待ち下さい!」
思い立ってから行動に移るまでの時間が極端に短い尚香は、すぐに太守である関羽の元に行こうとするのを周善は慌てて止める。
「いかに孝の道であるとは言え、主不在の際に国元に帰ると言うのは不義に当たるなど難癖を付けられ、この場に押し止められる事になります。事は一刻を争う事態。ひとまずは建業にお戻りになる事を優先し、呉国太の元から書状を送り事情を説明するが良いでしょう」
「関雲長ほどの武人がその様な……、いや、あるな」
尚香は難しい顔で頷く。
諸葛亮の場合には屁理屈で丸め込まれる事になるだろうが、関羽ではダメなモノはダメと言う感じで会話を成立させる事すら出来ない可能性が極めて高い。
それでも尚香は劉備不在の際に国元へ帰る不義を気にして書状を送ると言っていたが、戦の最中にそんな書状を送られる事の方が問題だと言う周善の言葉には素直に従った。
こう言うところは武将としての資質を持つ尚香なので、そこで困る事は無かった。
「あ、しょーこーさん、どこかお出かけですか?」
これ以上余計な問答に時間をかけたくないと思っていた周善だが、この時に尚香へ声をかけてきた人物は例外だった。
劉備の息子である劉禅だった。
「お、阿斗か。ちょっとお義母ちゃんに会いに行ってくる。雲長さんと一緒に良い子にしてろよ」
「しょーこーさんのお母さん? じゃ、阿斗のお祖母ちゃん?」
「おう、阿斗も祖母ちゃんに会いに行くか!」
「はい! 阿斗もお祖母ちゃんに会いたいです!」
この展開は周善としてはまったく予想していなかったのだが、劉備の後継者である劉禅を押さえる事が出来れば、それは劉備の首根っこを押さえたも同然である。
周善はさして欲深い男ではない。むしろ無欲とも言うべき人物だったのだが、孫家への忠誠心と軍略への理解もあって、劉禅と言う人物の戦略的価値にも気付いていた。
周善は尚香や劉禅には何も言わず、形としては誘拐同然に劉禅を建業に連れて行こうと考えたのである。
もちろん単純な尚香はそんな事を考えて劉禅を誘った訳ではなく、純粋な劉禅もその危険性など考えていなかったので、すんなりと連れ出す事には成功した。
これによって主君の悲願である荊州奪取に大きく貢献する事が出来たと周善は思ったのだが、幸運はいつまでも続かなかった。
「孫権の使者よ、待たれよ!」
周善は尚香や劉禅を船に乗せているところだったが、その声をかけてきた人物を見て驚き目を見張った。
僅か数騎でやってきたのは、趙雲だったのである。
「随分とお急ぎのご様子なので、長く引き止める事はしない。奥方様、何か急ぐ理由があるのでしょう?」
馬で走りながらも、趙雲のよく通る声はすでに船の上であった尚香にも聞こえてきた。
「趙雲将軍! お義母ちゃんが病気なの!」
「船を出せ! 急げ!」
尚香が船から降りようとしたので、周善は慌てて船を出させる。
が、他の騎兵と比べて駿馬に乗っていた趙雲はその瞬間に馬から船に飛び移っていた。
「なんと、お義母上様がご病気であったとは。それは心配でしょう」
単身で船に乗り込んできた趙雲だが、甲冑こそ身につけているもののその手には得意の槍は無く、腰に下げた名剣青紅の剣だけである。
周善自身もそれなりの武勇を持っているが、この船には最低限とは言え孫権軍の兵士が乗船している上に、今なら尚香の侍女達も乗っている。
今なら数の利をもって、趙雲を討ち取る事も出来るのではないか。
周善はふとそんな考えを持った。
「奥方様、この趙雲、奥方様の孝の道を遮るつもりはございません。ただ一言、ご挨拶をと思いやってまいりました。それと、若君の御同行は許可出来ません。それだけはお許しを」
「子龍殿、阿斗はお祖母様に会いとうございます」
劉禅が跪いている趙雲に言う。
「分かります。出来る事でしたら、この子龍とて呉国太様にお会いしとうございます。ですが、ご主君は戦場にあり、若君がご自身の手の届かないところに行かれては、戦に集中出来ません。それこそ、お父君を危険に晒す事になるのです。奥方様、何卒ご容赦下さい」
なるほど、これが趙雲か。皆が騒ぐ訳だ。
周善は初めて目にした趙雲を見て、そう思う。
圧倒的武勇を持つ事は、孫権軍でも知れ渡っている。その腕力でねじ伏せて奪い取っていけばそれで済む話なのだが、趙雲は臣下の礼を取って礼を失する事無く道義を説いて尚香自身に譲らせようとしているのだ。
孫家に対する筋も通す、と言う事か。やはりここで討つべきではないか。
「……分かりました、劉禅」
孫尚香は、劉禅の肩に手を置くとそのまま趙雲と向かい合わせる。
「趙雲をやっつけろ!」
「……は?」
声を出したのは趙雲だったが、趙雲だけでなく尚香以外の全員が呆気にとられていた。
「しょーこーさん? 何言ってるんですか?」
「いやいや、本気よ、阿斗」
全員が質の悪い冗談と思っていたのだが、尚香だけは本気で言っていた。
「趙雲将軍、そう思いませんか?」
「奥方様が若君に何をさせようとしているのかが、分かりかねるのですが」
「あれ? 分かると思ったけどな。ほら、私達が荊州に来る時、最終的には強行突破だったでしょ? 今回も同じ事が起きないとは限らないでしょ? こう言うとなんだけど、公瑾義兄様より子敬の方が怖いわよ? 子敬は玄徳様との同盟を考えて本気で維持していく事を考えているけど、それのみに固執しているワケじゃないわ」
尚香の言葉に、趙雲は驚きの表情を浮かべているが、先ほどの言葉と同じく全員が驚いていた。
どこまでもワガママ理不尽女だと思われていたが、英傑の血筋である事を思い知らされる。
「最後には強行突破の必要があるかも知れないでしょ? その時には子龍はいないんだから、子龍倒せるくらいの武勇が無いと」
「えー? 無理ですー」
試すまでもなく、劉禅は諦めている。
「それじゃ……」
「そこの船、止まれぃ!」
海上で割れる様な怒号が響く。
「今の、翼徳さん?」
「……はい。その様です」
尚香の質問に、趙雲が苦笑いしながら応える。
「ちょっと追い払ってきます」
趙雲だけなら何とかなるかも知れないが、張飛もとなると手が出せなくなる。
周善はそう考えて船の舳先に出たのだが、その時には既に張飛はこちらの船に飛び乗ってきて、問答無用に周善を切り捨てた。
「奥方ぁ! 若君を返してもらおう!」
「よし、張飛もやっつけろ!」
「無理ですよー」
劉禅は泣きそうな表情で尚香に言う。
「じゃ、しょうがない。お留守番だね」
尚香は笑いながら、劉禅の頭をポンポンと叩く。
「趙雲将軍、張飛将軍。劉禅の事、よろしくお願いします」
「お、おおおう」
張飛は暴れるつもりだったみたいだが、尚香がすんなりと劉禅を返してきた事で先手を取られて鼻白む。
「またね、劉禅。お父上に負けない立派な英傑になりなさい」
尚香は笑いながら、劉禅と別れ建業へと帰っていった。
あの女性はこちらが思う以上に聡明で英傑の資質を持っていたのかもしれない。そう、もう二度とこちらに帰って来る事も、ご主君に会えない事も分かった上で、笑って去って行かれたのかも。
趙雲は誰に言うでもなく、建業へと流れていく船を見送りながらそう思っていた。
「子龍、行くぞ。軍師殿が戦場にお呼びだ」
「はっ」
出来る事なら、奥方様とご主君、若君には再会していただきたいものだ。
儚い望みである事を自覚しながら、それでも趙雲はそう思わずにはいられなかった。
劉禅誘拐事件
正史にはそんな事は書かれていないのですが、そんな事があったみたいな話は残っているみたいです。
けど、この物語でも時系列めちゃくちゃですが、『蒼天航路』でも触れられているのですが、この誘拐事件が起きたと思われる時には既に張飛と趙雲は荊州を離れていたみたいですので、実際には正史より早く起きていたか、近い事が起きて張飛や趙雲ではない誰かがそれを止めたのかもしれません。
演義ではこの時の孫尚香の傍若無人っぷりは、それはそれで面白かったのですが、この物語ではアレンジしてこんな形になってます。




